東京大空襲のち原爆の二重被災〜戦争体験者の声は今のうちに聞いておくべき
「燃ゆる生命」
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「小さな子どもと太った男」
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上記の「燃ゆる生命」は、2年前に執筆した「赤と黒と灰色の街」をリメイクした、原爆の悲惨さを書いた物語です。
このタイトルは、母方の大叔父が自費出版した戦争体験記からいただいています。こちらは中国に出兵していた頃の話が書かれているもので、一市民が徴兵され、戦争末期にだんだんと追い詰められていく話が、一兵卒の素朴な生々しさで描かれています。祖母は戦況を冷静に見ていた祖父に促され、一足早く広島に帰っていました。原爆投下時は市内から離れていたものの、後に市内に入り入市被爆しています。
対して、父方は最近知ったのですが海軍畑だったようで、遡ると驚いたことに山本権兵衛まで行き着きます。どういった繋がりかをちょっとだけ書くと、祖父の祖父──高祖父の義理の父が権兵衛さんになります。高祖父はあの秋山真之とは同期だったようで、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」にもちゃっかり出ていたりします。あんまり詳しく書きすぎると私の素性が分かってしまう恐れがあるので、この辺で。
父方の祖父は、物語で書いたように言語学者でした。その出版物は国立図書館に所蔵されています。残念ながら父とは折り合いが悪かったため、広島の祖父ほど話したことはなかったのですが、学者さんらしく、大量の図鑑を贈ってくれました。
私もつい最近まで父とはあまり話ができていませんでしたが、(とにかくおっかなかったため)最近になって(ヒートショック事件)ようやく話せるようになりました。さて、ここから先は、先日父から聞いたものになります。
父方の祖父一家は、戦争当時は東京に住んでいたようで、1945年3月10日から11日にかけて行われた空襲で焼け出されたものの命は助かり、父の母方の実家がある広島に疎開しました。当時の広島は既に原爆投下予定地として、まだ大規模な空襲の被害にあっていなかったためです。(海軍の呉は「この世界の片隅で」で描かれた通り、7月末に徹底的にやられていますが)
しかしそれも8月6日まで。一発の原子爆弾によって一瞬で地獄と化しました。その時父達が住んでいた場所は、物語では「横川」と書きましたが、実際はそこからもう少し北東に位置する「三滝」に住んでいたようです。とは言え、そこは爆心地から2kmの横川から500m〜1km程度しか離れていない所。幸いにも火傷は免れましたが爆風で身体にガラス片が何個も突き刺さったようです。
中でも深刻だったのが、喉に突き立った破片で、運良く食道と頸動脈の間に刺さったために即死は免れたものの、瀕死の状態だったようです。たまたま市内へと向かう軍医が通り過ぎなかったら、手遅れになっていたとのことでした。その時の破片は祖父が持っていたらしいのですが、今は行方が分かりません。
父から初めて聞いたのは、中学を出るまでは、少しのケガでも酷く傷口が膿んだということでした。そのため、私が幼い頃鼻血をよく出していたことを気にして、横浜国立病院に連れて行って被爆者検査を受けさせたとのこと。ただそこで幼稚園児の私は病院で散々色々された挙句の最後に採血された事で、相当怒って「こんな所二度と来るもんかー!」と看護師さんに言い放ったらしいです。お恥ずかしい。
私は被爆二世になります。だからこそ、1年に1作程度は見聞きしたものを元に何か書こうと思っています。残念ですが東京大空襲の事はあまり聞けていません。NHKで二重被爆された方々の事が特集されていましたが、今回こんなパターンもあるのかと驚きました。
両祖父は既に他界し、父も歳をとりました。もう経験者の話を直に聞ける時間はあまり残されていません。ですので、明日原爆の日を迎えるにあたり、少しでも聞いた話を残そうと思って今回はこのような形をとらせていただきました。
末尾になりますが、謹んで犠牲者の皆様の御冥福をお祈りすると共に、一刻も早く核兵器がなくなる事と世界各地の戦争が終わる事を願います。
現実路線かもしれないけれど、それでも核の傘に入ることを正当化して欲しくはなかったです。




