音の間
真夜中の三時十七分、椎名奈津子は自分の呼吸の音で目を覚ました。
いや、正確には違う。目を覚まさせたのは呼吸そのものではなく、その呼吸に紛れ込んだ、もうひとつの音だった。
規則正しい吸気と呼気のあいだに、ほんの一瞬、何かが挟まっている。まるで誰かが自分の肺の奥に潜んで、息を吐くたびに小さく笑っているような、そんな異物感だった。
天井はいつもと変わらない。壁紙の染みも、換気扇のカバーにたまった埃の影も、見慣れた輪郭のまま闇に沈んでいる。
奈津子は布団の中で身体を強張らせ、耳だけを研ぎ澄ませた。
マンションの壁は薄い。隣室の生活音や、下の階を走る車のエンジン音が、季節によって微妙に変わる湿度とともに伝わってくることには慣れている。だが今聞こえているものは、そのどれとも違っていた。
耳の奥、鼓膜のすぐ裏側あたりに張りついて、こすれるような、擦過するような、乾いた音。布と布がこすれ合う時のような、あるいは古い紙を静かにめくる時のような、そのどちらでもあるようでどちらでもない音が、確かに存在していた。
息を止めてみる。
止めても、音は止まらなかった。
つまりこれは、自分の呼吸に付随する音ではない。奈津子はゆっくりと上体を起こし、暗闇の中で膝を抱えた。冷えたフローリングの感触が足の裏から這い上がってきて、その冷たさだけが今、唯一信じられる現実だった。
時計のデジタル表示が三時十八分に変わる。数字が変わる瞬間の、あの微かな液晶の点滅すら、今夜はやけに大きく感じられた。
しばらくそうしていると、音は少しずつ輪郭を持ち始めた。
こすれる、というよりも、擦り減っていく音だ。何かが何かに触れ続けて、少しずつ、少しずつ、表面を削り取っていくような。
奈津子は寝室の隅、クローゼットの方角に視線を向けた。理由はない。ただそちらから聞こえてくる気がした、というだけのことだ。
翌朝、目の下に濃い隈を作った奈津子は、会社の給湯室で同僚の柚木に昨夜のことを話した。
柚木は缶コーヒーを片手に、興味半分、心配半分といった顔でこちらを見ている。
「耳鳴りじゃないの、それ」
「耳鳴りとは違う気がするんだよね。耳鳴りって、キーンとかピーとか、高い音でしょ。これはもっと、こう……擦れるような」
柚木はコーヒーを一口飲み、少し考えるように視線を宙にさまよわせた。
「引っ越したばかりだっけ、そのマンション」
「先月」
「前の住人、何かあったとか聞いてない?」
奈津子は答えなかった。不動産屋からは何も聞いていない。事故物件サイトで検索してもヒットはしなかった。
ただ、契約の時に担当者がほんの一瞬、視線を逸らした記憶があるにはあった。それが気のせいだったのか、単なる癖だったのか、今となっては確かめようもない。
その夜も、音はやってきた。
前夜とほぼ同じ時刻、三時を少し過ぎたあたりで、奈津子はまた覚醒した。
今度は最初から耳が音を拾っていた。擦れる音は、昨晩よりも心持ち近い場所から聞こえている気がする。布団の中で身体を丸め、両手で耳を塞いでみる。音は消えなかった。むしろ、塞いだ手のひらの内側で反響するように、より鮮明になった気さえした。
これは外から届く音ではない。
その確信だけが、じわりと奈々子の胸の内側に広がっていった。何か理由の分からない怖さが、みぞおちのあたりで重たく凝っていく。呼吸のたびに、その重みが上下する。
三日目の夜、奈津子はとうとう起き上がって、電気をつけた。
蛍光灯特有の白い光が部屋を満たし、影という影が一斉に壁際へと退いていく。
クローゼットの扉は閉まったままだった。奈津子はスマートフォンを手に取り、震える指先でボイスメモのアプリを起動させた。録音ボタンを押す。赤い丸が点滅を始める。
一分、二分。
何も起こらない。あの擦れる音は、電気がついている間は姿を潜めているらしかった。奈津子は録音を止めずに、あえて電気を消してみた。
暗闇が戻ってくる。網膜に焼きついた蛍光灯の残像が、しばらく視界の中でゆらゆらと泳いでいた。それが完全に消えるのを待つように、奈津子はじっと息を潜めていた。
一分が過ぎた。
二分が過ぎた頃、それは戻ってきた。
クローゼットの方角から、あの音。こすれて、削れて、擦り減っていくような、乾いた質感の音。今夜はそこに、ごくかすかな軋みが混じっているのに奈津子は気がついた。木材が長い年月をかけて反っていくときのような、そういう低い軋み。
奈津子は息を殺したまま、スマートフォンの画面を見つめ続けた。録音時間を示す数字だけが、静かに増えていく。
翌朝、奈津子は録音を再生した。
再生ボタンを押した瞬間、部屋の空気がわずかに変わった気がした。理由は分からない。ただ、スピーカーから流れ出す音を聞きながら、奈津子は自分の手のひらにじわりと汗が滲んでいくのを感じていた。
擦れる音、そして軋み。録音された音は、記憶していたものよりもずっと近く、ずっと生々しかった。だが、それだけではなかった。
録音の終わり際、二分五十秒を過ぎたあたりで、その音に紛れてもうひとつの何かが聞こえた。奈津子は再生位置を戻し、イヤホンを耳に押し込んで、もう一度その部分だけを聴いた。
息のような、声のような、判別のつかない何か。
言葉として言語化するなら、それは「まだ」という響きに一番近かった。まだ、と繰り返しているようにも聞こえるし、単に空気の揺れが偶然そう聞こえているだけのようにも思えた。
奈津子はイヤホンを外し、しばらくスマートフォンの画面を見つめたまま動けずにいた。
窓の外では、いつも通りの朝が始まっていた。ゴミ収集車の音、通学中の子供たちの声、遠くの踏切が鳴らす電子音。世界はいつも通りに回っていて、それが今はかえって奈津子を落ち着かない気持ちにさせた。
その日の午後、奈津子は管理会社に連絡を入れ、前の住人について尋ねた。担当者は最初、個人情報だからと言葉を濁していたが、奈津子が「体調に関わることなので」と食い下がると、渋々といった調子で口を開いた。
前の住人は高齢の女性で、長年そこにひとりで暮らしていたという。亡くなったのはこの部屋ではなく、入院先の病院だったらしい。事故物件には該当しないため、告知義務もなかった、と担当者は付け加えた。
奈津子は電話を切ったあと、しばらくクローゼットの扉を見つめていた。特に何をするでもなく、ただ見つめていた。扉の向こうには、引っ越しの際にまだ整理しきれていない段ボールが二つ、積まれたままになっている。
夜になり、奈津子は覚悟を決めてクローゼットの扉を開けた。
段ボールをどかし、奥の壁に手を当ててみる。ひやりとした感触。壁紙の継ぎ目に指先を這わせていくと、床に近い一角で、わずかに膨らんだ部分に触れた。指先で押すと、内側で何かが軋むような、ごく小さな抵抗があった。
奈津子はカッターナイフを取ってきて、その部分の壁紙をそっと切り開いた。
中から出てきたのは、古い柱時計の内部機構だった。歯車の並びと、それをつなぐ細い金属の棒。長年の使用でどこか一部が変形しているのか、手で回してみると、かすかに擦れるような音を立てて回転した。振り子はすでに失われていたが、機構自体はまだ生きているらしかった。
奈津子はしばらくその歯車を見つめたまま、動けずにいた。
前の住人が壁の中に何かを隠していた、というよりも、リフォームの際に取り外された古い時計の一部が、そのまま埋め込まれる形で残されてしまったのだろう。そういう可能性のほうが、ずっと現実的だった。だが、それでも説明のつかないものが残る。
深夜、決まって三時を過ぎる頃にだけ動き出す、その理由。
そして、録音の中に紛れていた、あの「まだ」という響きの正体。
奈津子は歯車を手のひらに乗せたまま、しばらくじっと見つめていた。指先に伝わる金属の冷たさが、少しずつ体温に馴染んでいくのを感じながら。
その夜、電気を消した部屋の中で、奈津子は歯車を枕元に置いて眠りについた。
三時を過ぎても、擦れる音は聞こえなかった。ただ、眠りの浅い意識の底で、遠くから小さく回転する音だけが、いつまでも続いているような気がしていた。
数日後、奈津子はその歯車を近所の骨董品店に持ち込んだ。年配の店主は歯車を手に取り、しばらく無言でそれを眺めたあと、ぽつりと呟いた。
「これは、時を刻むためだけの部品じゃないですよ」
奈津子が意味を尋ねると、店主は歯車の側面にある、ごく小さな刻印を指差した。
それは製造番号ではなく、持ち主の名前を彫り込むための空欄だった。かつてそこに何か文字があった痕跡が、摩耗しきって、もはや読み取れなくなっている。
「誰かが、大事に名前を刻んでいたんでしょうね。それが、擦り減るまで」
奈津子は骨董品店を出たあと、しばらく夕暮れの道を歩いた。街の喧騒、車の走行音、遠くの踏切、誰かの笑い声。それらすべてが、いつもと同じように鳴り響いていた。
ただ、その中に混じって、あの擦れる音の記憶だけが、奈津子の耳の奥に、まだ小さく残っていた。




