未選択
「ごほっ! ごほっ!」
ゴミが散らかる六畳一間のボロアパート。
ベッドから見上げる天井は染みの位置まで覚えている。
喉が焼けるように痛かった。
熱が引かない。浅い眠りと目覚めを、何度も繰り返している。
「あーーー……。」
トイレに立つだけで、視界が揺れた。
水を取りに行く気力もない。
頼れる相手はいない。
仕事を休んで、七日目になる。
三日前まであった着信は途絶えた。連絡も、もう来ない。
もう首になっているかもしれない。
来月の生活すら危うい。
「……もう夕方か」
夕焼けが差し込んでいた。
カーテンを閉めようと思いながら、目を閉じた。
******
「うん?」
気づくと、公園にいた。
日差しが、肌に刺さる。
首筋に、汗がにじんでいた。
こんなはずはない。
一月のはずだった。
黒いスウェットの上下が、やけに重く感じる。
しかし、身体は軽い。
さっきまで、あれほど苦しかった呼吸が、嘘みたいに通る。
「暑いし……。風邪は?」
辺りを見渡す。
強い見覚えがあった。
その昔、営業をさぼって、時間を潰していた場所。
今にして思えば、もったいないことをした。
新卒で入った会社は、一年半で辞めた。
次なんて、すぐ見つかると思っていた。
面接に落ちることだけが、増えていった。
気がつけば、履歴書に書く職歴だけが、増えていた。
「はーー……。もう限界。辞めるわ」
背後から声がした。
その声に、心臓が跳ねた。
ゆっくりと振り返ると、背中合わせのベンチに座っているのは、俺だった。
二十年前の、俺だ。
頬の張りが違っていた。
食事をきちんと取っている顔だった。
髪も整っている。
月に一度の散髪が途切れていない。
腹も出ていない。
毎晩の酒の影響は、まだない。
羨ましかった。
正面に向き直る。
「……諦めるな。
俺みたいになるぞ」
つい口から出ていた。
「はあ?」
背中合わせの自分が振り返ったのが分かった。
当然だろう。
自分は、この夏に会社を辞める。
積もりに積もった不満がもうすぐ爆発するのだ。
『お前なんて辞めちまえ!
お前の代わりなんて、幾らでもいるんだ!』
ほぼ毎日、詰められ続けた上司のこの言葉に、ついカッとなって。
「ちっ……。」
「いきなり何だよ、このおっさん」
自分が席を立ち、苛立ち気に去ってゆく。
思わず苦笑する。
言いたいことがあるなら、言えばいいのに飲み込む。
まさしく、自分だ。
俺もベンチから立ち上がる。
だが、足が止まった。
遠ざかっていく背中を、ただ見送った。
俺はまたベンチに腰を下ろした。
******
「うん?」
ここは、どこだ。
いくつもの桜の木が並び、満開の花びらを風に舞わせている。
さっきまで、公園のベンチにいたはずなのに。
俺は、高く張られた緑のネット沿いを歩いていく。
「ああ、高校か……。懐かしいな」
ベンチに、俺がいた。
ブレザーの制服を着た、高校生の頃の俺だった。
ここ、通っていた高校の裏庭だ。
「さっきといい……。何なんだ?」
周囲を見渡す。
だが、他に誰もいない。
あのベンチは、絶妙な木々の重なりで校舎からは見えない。
かつての俺がそうしたように、授業をサボっているのかもしれない。
「進路って言われてもなー……。」
自分がパック牛乳のストローから口を外す。
ベンチの背もたれに両手を広げ、空をぼんやりと眺めながらの呟いた。
高校二年の春だった。
同じ言葉を、あの頃の俺もここで言っていた。
「……外を受けてみたら、どうだ?」
俺は近寄り、声をかけた。
振り返った自分と、目が合った。
「えっ!? ……用務員さん?」
思わず苦笑する。
黒いスウェット姿の俺は、どう見ても不審者だった。
それでも、高校生の俺は安心している。
まだ、擦れていない自分がそこにいた。
「まあ、そんなところだ。
それより、悩むってことは、その気が少しあるんだろ?」
「うーーーん……。でもさ、せっかく付属に入ったんだよ?」
「……流されても、良いことはないぞ」
「うーーーん……。浪人したらかっこ悪いじゃん?」
「一年や二年、どうということはない」
「いやいや、十代の一年は大きいから!」
でも、やはり自分は俺だった。
返ってきた答えが、嫌というほど分かる。
結局、俺も悩みながらも、エスカレーター式に大学へ進んだ。
就職もそうだった。
就職活動時期が来ると、教授やOBに勧められるまま選んだ。
「あっ!? 用務員さん、ありがとねー!」
校舎からチャイムが響き、自分は駆け去ってゆく。
空の牛乳パックを手に持ったまま。
いつから俺はゴミをきちんと片付けないようになったのだろうか。
そう思いながら遠ざかってゆく背中を見送った。
******
「……また、違う夢か」
夕暮れの児童公園。
三度目になると、戸惑いはなかった。
気づけば、十年以上帰っていない街だった。
辺りを見渡すと、俺はいた。
ランドセルを背負い、ただブランコに座っていた。
この時点で、自分が何を悩んでいるかが分かった。
「塾は嫌か?」
「えっ!?」
伸びた影に気づき、自分が顔を上げた。
「んっ!? どうした?」
「あれ? おじさん、ずっと前に会ったことがあるよね?」
その言葉に、空気が止まった。
「……そうかも知れないな」
だが、子どもの言うことだ。
その違和感は、すぐに薄れていった。
「それより、塾は嫌か?」
「……うん」
隣のブランコに座る。
ギイッと軋む音がした。
大人の男が座るには、少し小さかった。
「嫌なら、嫌で、お母さんにちゃんと言わないと駄目だぞ?」
「おじさんも、塾へ行けっていうの?」
「そうじゃない。自分の気持ちが大事だってことだ」
「……よく分かんない」
少しの沈黙のあと、自分は視線を伏して呟いた。
ブランコが、かすかに揺れていた。
今なら、分かる。
両親は、俺に将来の選択肢の幅を与えていたんだと。
おかげで、隣県の大学付属高校に入学ができた。
しかし、この時の俺は、塾へ通う意味が分かっていなかった。
自分だけが友達と遊べず、中学卒業まで嫌々ながらも塾に通っていた。
「じゃあ、どうする?」
「塾、行ってくる」
自分が立ち上がり、ブランコから下りる。
迷いは、顔に残ったままだった。
「そうか、がんばれ」
「うん、ばいばい」
小さな背中が、公園の出口へ向かっていく。
ブランコの鎖が、わずかに揺れていた。
******
「今度は……。」
古びたバスの停留場。
前方には田んぼが広がり、蝉の鳴き声が響いていた。
錆が目立つ時刻表を見ると、一時間に一本。
小学校低学年まで、夏休みに決まって出かけていた、祖父の家近くのバス停だ。
「……三十、何年ぶりだ?」
もう分かっていた。
苦笑を浮かべ、ベンチに座った。
突如、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。
「うひゃーーーっ!?」
「あそこ! あそこに避難しよう!」
叫び声が聞こえてきた。
紛れもなく、俺の声だ。
しかし、もう一つの声が分からない。
女の子だと分かるが、心当たりがない。
そして、思い出を探るまでもなく、二人の人影がバス停へ駆け込んできた。
「あっ!?」
その顔を見た瞬間、思い出した。
祖父の家の隣に住んでいた中学生のお姉さんだ。
初恋の相手すら、俺は忘れていたのか。
「あっ……。どうも」
彼女が小さく頭を下げる。
バス停の隅に立った。
祖父の家は田舎だ。
近所は全員が顔見知りといっていいくらいだった。
しかも、彼女が着ているのは薄手の白いワンピース。
雨に濡れ、下着が完全に透けている。
警戒心と思春期の羞恥心、それが距離を取らせているのだろう。
俺はスウェットの上着を脱ぎ、ベンチの上に置いた。
「着なさい」
「えっ!?」
「俺の! 俺のを着ろよ! 姉ちゃん!」
自分が慌ててTシャツを脱ぐ。
彼女に、必死に差し出している。
「もうっ……。君のもずぶ濡れでしょ?」
「あっ!? そっか」
その幼い嫉妬に、たまらず苦笑が漏れる。
雨の音に混じり、バスが近づいてくる音が聞こえてきた。
「じゃあ、風邪をひかないようにね」
俺は、ベンチから立ち上がった。
******
「夢……。
いや、走馬灯ってやつか?」
何も変わっていない。
部屋も、体も、状況も。
ただ一つだけ、残っていた。
あのとき。
あのときも。
あのときも。
やれと言われたことは、やらなかった。
やらなくてもいいことだけを、選んできた。
誰かに止められたわけじゃない。
無理やり押しつけられたわけでもない。
ただ、その方が楽だった。
その方が、安全だった。
「水……。」
喉どころか、舌が乾いている。
立ち上がろうとして、立ち上がれない。
ベッドから転げ落ち、動けない。
「これ……。本当に、死ぬんじゃ?」
目を開ける。
ゴミが散乱している部屋。
無理をするな。
今さら動く必要はない。
それでいい。
ここまでやってきたのだから。
「……嫌だ」
その一言だけで、身体が動いた。
枕元のスマホを手に取り、アドレス帳を開く。
数少ない個人名の中から、それを選ぶ。
「はい、もしもし?」
三コールで出た。
繋がるとは思っていなかった。
少し半信半疑の女性の声。
三か月前にアドレスを貰ったきりだったから、当然だろう。
「……もしもし? 田中さんですよね?」
「た、助けて……。か、風邪で……。」
「えっ!? あっ!? わ、分かりました!
い、今すぐ、行きます! わ、私でいいんですよね!」
「……お、お願い」
そこで、張っていた糸が切れた。
「あっ!? じ、自宅ですよね?
ええっ!? わ、私、自宅に行っちゃってもいいんですか?」
玄関の鍵は開いていただろうかと思い、俺は眠った。




