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掲載日:2026/06/24




「ごほっ! ごほっ!」



 ゴミが散らかる六畳一間のボロアパート。

 ベッドから見上げる天井は染みの位置まで覚えている。


 喉が焼けるように痛かった。

 熱が引かない。浅い眠りと目覚めを、何度も繰り返している。



「あーーー……。」



 トイレに立つだけで、視界が揺れた。

 水を取りに行く気力もない。


 頼れる相手はいない。


 仕事を休んで、七日目になる。

 三日前まであった着信は途絶えた。連絡も、もう来ない。


 もう首になっているかもしれない。

 来月の生活すら危うい。



「……もう夕方か」



 夕焼けが差し込んでいた。

 カーテンを閉めようと思いながら、目を閉じた。




 ******




「うん?」



 気づくと、公園にいた。


 日差しが、肌に刺さる。

 首筋に、汗がにじんでいた。


 こんなはずはない。

 一月のはずだった。


 黒いスウェットの上下が、やけに重く感じる。


 しかし、身体は軽い。

 さっきまで、あれほど苦しかった呼吸が、嘘みたいに通る。



「暑いし……。風邪は?」



 辺りを見渡す。

 強い見覚えがあった。


 その昔、営業をさぼって、時間を潰していた場所。


 今にして思えば、もったいないことをした。

 新卒で入った会社は、一年半で辞めた。


 次なんて、すぐ見つかると思っていた。


 面接に落ちることだけが、増えていった。

 気がつけば、履歴書に書く職歴だけが、増えていた。



「はーー……。もう限界。辞めるわ」



 背後から声がした。


 その声に、心臓が跳ねた。

 ゆっくりと振り返ると、背中合わせのベンチに座っているのは、俺だった。


 二十年前の、俺だ。


 頬の張りが違っていた。

 食事をきちんと取っている顔だった。


 髪も整っている。

 月に一度の散髪が途切れていない。


 腹も出ていない。

 毎晩の酒の影響は、まだない。


 羨ましかった。

 正面に向き直る。



「……諦めるな。

 俺みたいになるぞ」



 つい口から出ていた。



「はあ?」



 背中合わせの自分が振り返ったのが分かった。


 当然だろう。

 自分は、この夏に会社を辞める。

 積もりに積もった不満がもうすぐ爆発するのだ。



『お前なんて辞めちまえ!

 お前の代わりなんて、幾らでもいるんだ!』



 ほぼ毎日、詰められ続けた上司のこの言葉に、ついカッとなって。



「ちっ……。」


「いきなり何だよ、このおっさん」



 自分が席を立ち、苛立ち気に去ってゆく。


 思わず苦笑する。


 言いたいことがあるなら、言えばいいのに飲み込む。

 まさしく、自分だ。


 俺もベンチから立ち上がる。


 だが、足が止まった。

 遠ざかっていく背中を、ただ見送った。


 俺はまたベンチに腰を下ろした。




 ******




「うん?」



 ここは、どこだ。


 いくつもの桜の木が並び、満開の花びらを風に舞わせている。

 さっきまで、公園のベンチにいたはずなのに。


 俺は、高く張られた緑のネット沿いを歩いていく。



「ああ、高校か……。懐かしいな」



 ベンチに、俺がいた。

 ブレザーの制服を着た、高校生の頃の俺だった。


 ここ、通っていた高校の裏庭だ。



「さっきといい……。何なんだ?」



 周囲を見渡す。

 だが、他に誰もいない。


 あのベンチは、絶妙な木々の重なりで校舎からは見えない。

 かつての俺がそうしたように、授業をサボっているのかもしれない。



「進路って言われてもなー……。」



 自分がパック牛乳のストローから口を外す。

 ベンチの背もたれに両手を広げ、空をぼんやりと眺めながらの呟いた。


 高校二年の春だった。

 同じ言葉を、あの頃の俺もここで言っていた。



「……外を受けてみたら、どうだ?」



 俺は近寄り、声をかけた。

 振り返った自分と、目が合った。



「えっ!? ……用務員さん?」



 思わず苦笑する。


 黒いスウェット姿の俺は、どう見ても不審者だった。

 それでも、高校生の俺は安心している。


 まだ、擦れていない自分がそこにいた。



「まあ、そんなところだ。

 それより、悩むってことは、その気が少しあるんだろ?」

「うーーーん……。でもさ、せっかく付属に入ったんだよ?」

「……流されても、良いことはないぞ」

「うーーーん……。浪人したらかっこ悪いじゃん?」

「一年や二年、どうということはない」

「いやいや、十代の一年は大きいから!」



 でも、やはり自分は俺だった。

 返ってきた答えが、嫌というほど分かる。


 結局、俺も悩みながらも、エスカレーター式に大学へ進んだ。


 就職もそうだった。

 就職活動時期が来ると、教授やOBに勧められるまま選んだ。



「あっ!? 用務員さん、ありがとねー!」



 校舎からチャイムが響き、自分は駆け去ってゆく。

 空の牛乳パックを手に持ったまま。


 いつから俺はゴミをきちんと片付けないようになったのだろうか。

 そう思いながら遠ざかってゆく背中を見送った。




 ******




「……また、違う夢か」



 夕暮れの児童公園。

 三度目になると、戸惑いはなかった。


 気づけば、十年以上帰っていない街だった。


 辺りを見渡すと、俺はいた。

 ランドセルを背負い、ただブランコに座っていた。


 この時点で、自分が何を悩んでいるかが分かった。



「塾は嫌か?」

「えっ!?」



 伸びた影に気づき、自分が顔を上げた。



「んっ!? どうした?」

「あれ? おじさん、ずっと前に会ったことがあるよね?」



 その言葉に、空気が止まった。



「……そうかも知れないな」



 だが、子どもの言うことだ。

 その違和感は、すぐに薄れていった。



「それより、塾は嫌か?」

「……うん」



 隣のブランコに座る。

 ギイッと軋む音がした。


 大人の男が座るには、少し小さかった。



「嫌なら、嫌で、お母さんにちゃんと言わないと駄目だぞ?」

「おじさんも、塾へ行けっていうの?」

「そうじゃない。自分の気持ちが大事だってことだ」

「……よく分かんない」



 少しの沈黙のあと、自分は視線を伏して呟いた。

 ブランコが、かすかに揺れていた。


 今なら、分かる。

 両親は、俺に将来の選択肢の幅を与えていたんだと。


 おかげで、隣県の大学付属高校に入学ができた。


 しかし、この時の俺は、塾へ通う意味が分かっていなかった。

 自分だけが友達と遊べず、中学卒業まで嫌々ながらも塾に通っていた。



「じゃあ、どうする?」

「塾、行ってくる」



 自分が立ち上がり、ブランコから下りる。

 迷いは、顔に残ったままだった。



「そうか、がんばれ」

「うん、ばいばい」



 小さな背中が、公園の出口へ向かっていく。

 ブランコの鎖が、わずかに揺れていた。




 ******




「今度は……。」



 古びたバスの停留場。

 前方には田んぼが広がり、蝉の鳴き声が響いていた。


 錆が目立つ時刻表を見ると、一時間に一本。

 小学校低学年まで、夏休みに決まって出かけていた、祖父の家近くのバス停だ。



「……三十、何年ぶりだ?」



 もう分かっていた。

 苦笑を浮かべ、ベンチに座った。


 突如、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。



「うひゃーーーっ!?」

「あそこ! あそこに避難しよう!」



 叫び声が聞こえてきた。

 紛れもなく、俺の声だ。


 しかし、もう一つの声が分からない。

 女の子だと分かるが、心当たりがない。


 そして、思い出を探るまでもなく、二人の人影がバス停へ駆け込んできた。



「あっ!?」



 その顔を見た瞬間、思い出した。

 祖父の家の隣に住んでいた中学生のお姉さんだ。


 初恋の相手すら、俺は忘れていたのか。



「あっ……。どうも」



 彼女が小さく頭を下げる。

 バス停の隅に立った。


 祖父の家は田舎だ。

 近所は全員が顔見知りといっていいくらいだった。


 しかも、彼女が着ているのは薄手の白いワンピース。

 雨に濡れ、下着が完全に透けている。


 警戒心と思春期の羞恥心、それが距離を取らせているのだろう。

 俺はスウェットの上着を脱ぎ、ベンチの上に置いた。



「着なさい」

「えっ!?」

「俺の! 俺のを着ろよ! 姉ちゃん!」



 自分が慌ててTシャツを脱ぐ。

 彼女に、必死に差し出している。



「もうっ……。君のもずぶ濡れでしょ?」

「あっ!? そっか」



 その幼い嫉妬に、たまらず苦笑が漏れる。

 雨の音に混じり、バスが近づいてくる音が聞こえてきた。



「じゃあ、風邪をひかないようにね」



 俺は、ベンチから立ち上がった。




 ******




「夢……。

 いや、走馬灯ってやつか?」



 何も変わっていない。

 部屋も、体も、状況も。


 ただ一つだけ、残っていた。


 あのとき。

 あのときも。

 あのときも。


 やれと言われたことは、やらなかった。

 やらなくてもいいことだけを、選んできた。


 誰かに止められたわけじゃない。

 無理やり押しつけられたわけでもない。


 ただ、その方が楽だった。

 その方が、安全だった。



「水……。」



 喉どころか、舌が乾いている。


 立ち上がろうとして、立ち上がれない。

 ベッドから転げ落ち、動けない。



「これ……。本当に、死ぬんじゃ?」



 目を開ける。


 ゴミが散乱している部屋。


 無理をするな。

 今さら動く必要はない。


 それでいい。

 ここまでやってきたのだから。



「……嫌だ」



 その一言だけで、身体が動いた。

 枕元のスマホを手に取り、アドレス帳を開く。


 数少ない個人名の中から、それを選ぶ。



「はい、もしもし?」



 三コールで出た。

 繋がるとは思っていなかった。


 少し半信半疑の女性の声。

 三か月前にアドレスを貰ったきりだったから、当然だろう。



「……もしもし? 田中さんですよね?」

「た、助けて……。か、風邪で……。」

「えっ!? あっ!? わ、分かりました! 

 い、今すぐ、行きます! わ、私でいいんですよね!」

「……お、お願い」



 そこで、張っていた糸が切れた。



「あっ!? じ、自宅ですよね?

 ええっ!? わ、私、自宅に行っちゃってもいいんですか?」



 玄関の鍵は開いていただろうかと思い、俺は眠った。




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