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26.
ミラ湖の湖畔は一年を通して穏やかに波打つ。遠浅の浜辺はカンデラの光に満たされ、白砂とさざ波の境界線は曖昧になる。
湖畔沿いの建物は、湖へとせり出すような形で建てられている。かつて浜辺にあった建物が、水位の上昇によって湖に飲み込まれつつあるのか、それとも最初からそうやって建てられたのかはわからない。
ヘリオンたちにとって今重要なのは、大聖堂のミラ湖側が湖面と接しており、その浅瀬を壁沿いに伝っていけば人目に付かず裏側から中へ入れるということだ。
棺の部屋は、カンデラの光を遺体へ当てることを目的とした場所だ。部屋の壁一面が取り払われ、外と直接つながっている。
大聖堂の二階に位置する棺の部屋には、外壁に階段が作られていた。一階部分が湖に浸かっているため、今はもう使われていない。
それがヘリオンたちの侵入経路だ。
「よし、ここから湖に入ろう」
「いや待ってくれローラン」
大聖堂の外壁沿いに進むと、湖の浜辺に突き当たった。周囲は波によって反射した光が踊り、二人の影を掻き消していく。これならば簡単には見つからない。
ヘリオンはほとんど目の利いていないローランの手を引いて周囲を警戒する。歩みを止めたのは、教会の人間に見つかる危険を察知したからではない。
「け、けっこう深い。足は着くんだよな」
「先輩は大丈夫だって言ってたけど。泳げないほど波も高くないだろう?」
「俺は泳げないんだよ!川に入ったこともないんだぞ」
「ヘリオン静かに………僕より目が見えてるのに怖がらないでほしいな」
ローランに背中を押され、ミラ湖に一歩足を踏み入れる。大聖堂の裏側に回り込むころには胸の下まで水が上がっていた。
いつか足先の感覚がなくなり、水中に落ちるのではと怯えながら壁沿いを進む。早くもローランに着いてきたことを後悔していた。
「二階に上る階段があるらしいけど」
「ああ、すぐそこにある。もうすぐだ」
棺の部屋へ続く階段はすぐに見つかった。一階部分にはかつて使われていた出入口が塞がれた跡がある。二階に上がるまでに見つかる心配はなさそうだった。
階段を途中まで登り、そこで体を拭くことにした。これから立ち入るのは死者が眠る場所だ。水浸しにするわけにはいかない。
なるべく音を立てずに服を脱ぎ、水気を絞ってから体についた水滴も拭っていく。靴はここに置いていくことした。帰りも同じ道をつかうのだから。
「体中にへんな模様みたいなのが入ってるけど、なにかの魔法?」
下着姿になったローランの体を見れば、ところどころに線が浮き出ているように見える。
「僕には見えないけど、たぶん魔光障害の兆候だろうね。魔光を含んだミラ湖の水に浸かって、体が反応しているんだと思う」
「大丈夫なのか?」
「心配ないさ。ちょっと、ピリピリするけどね」
力なく笑うローランの息が乱れている。無理をしているのは明らかだが、彼がどんな思いでここに来たかを考えると、今更引き返そうとは言えない。
階段を上り、ついに目的地へとたどり着いた。
棺の部屋。
祭壇上には幾つもの石棺があった。カンデラの光を受けられるように緩く角度をつけて並べられた棺の中に、死者たちが眠っている。
光を通しやすい素材でできた薄衣が被せられた彼らの姿からは、腐敗の形跡が見られない。
肉体から水分が抜け出た後であっても生前の姿を留めている。
色の抜け落ちた肌は白くなり、末端部分から崩れ落ちていく。体の内側は赤い砂のような物体に置き換わり、かつてあった生命の残滓を感じさせた。
ヘリオンが死者を見るのは初めてではない。村で生活していたころ、何度か人の死に立ち会ったことがある。
天寿を全うした者、病に倒れた者、ささいな怪我から腐っていった者。そのどれもが最期は土の中に葬られた。
ここに眠る死者の姿は、ヘリオンが知っている死の姿とは程遠い。これはあまりにも美しかった。
光葬が名誉とされる理由。そこへ至るカンデラの地に根付いた光に対する執着。
棺の部屋はその終着点の一つだ。
「ローラン……目は見えるか?」
「うん……なんとか、母上の顔は探せると思う」
死者の他には誰もいないことを確認して、階段から部屋の中へと踏み入れた。
部屋はカンデラの光を真正面に受け止め、そして壁に反射した光を祭壇上に集める構造をしてる。
ローランの目ではやはり思うように見えない。ヘリオンが母親らしき年齢の女性を見つけて、彼に顔を確認してもらった。
棺にはびっしりと碑文が刻まれている。碑文は物に刻む魔法の命令のようなものだ。
死者の体は碑文によって導かれた魔光に守られ、同時にゆっくりと焼かれている。
ふと、棺の縁に目をやれば装飾の布になにか書かれているように見える。それは名前だった。ヘリオンにも人名は読めるのだから、ここからクローラの文字を探せばいい。
布が折れて一部分が隠れていたため、めくって確認しようとしたとき、ヘリオンの腕が、横から延ばされた手によって掴まれた。
「触れてはいけません……」
修道女の少女は、ヘリオンと棺を優しく引き離す。
そこにいる気配にすら気づくことが出来なかった。この場の空気に気を取られてたか、それともカンデラの光が満ちる場所ではヘリオンの感覚が麻痺するのか。
いや違う。セント・ミラにおいて、ヘリオンは以前にも増して鋭くなった感覚を実感していた。
でなければ、これほどの光に満ちた場所で不自由なく生活できるはずがない。魔光適性に長けた人間は、視力を別の感覚で補う機能が備わっているはずだ。
それでも、ヘリオンには目の前の少女が現実に存在してるようには思えない。姿を見た瞬間からその存在が薄れていくような感触がある。
「どうぞ……彼のお母様はこちらです」
少女はヘリオンたちを咎めるどころか、案内しようとしてきた。
「この人は違うな……ヘリオン、次の棺に行こう」
「お、おいローラン」
「誰か来たのか?」
「誰かって……えっ?」
聞こえなかったのか?少女ははっきりと言葉を発していたんだぞ。
この光の中でローランに見えないのはまだ分かる。教会で初めて少女と出会ったときも、ローランには見えていなかった。
本当に?大騎士の姿は見えていたはずだ。同じ場所にいた少女が見えないなんてあり得るだろうか。
「私のことはまた後ほど。今は親子の再会を優先しましょう」
ヘリオンの隣に立つ少女が、またしても声を出すが、ローランがそれに気が付いた様子もない。
間違いない。ローランには少女の姿が見えず、声も聞こえていなかった。
単純な魔光適性の強弱で片づけていい話だろうか。なんらかの魔法による作用かもしれないが、どちらにせよ、得体のしれない少女の言うことを聞くしかない。
「行こう。こっちだ」
「え、うん。どうしたんだ?」
ローランの手を引いて少女の案内に従う。棺にかけられた布にはクローラの名が入れられており、一人の女性が胸の前で手を組んで眠っていた。
体表はほとんどが灰になり、ひび割れから赤い砂が覗いている。それでも、優しそうな女性の相貌は、死後の安らぎの中で失われていなかった。
「ああ……お久しぶりです……母上」
もしかしたら、息子を待っていたのだろうか。ローランもその棺の前に立つと、すぐに母親だと気が付いたのだろう。吸い込まれるように棺へ近づく彼の肩を掴み、その場に留まらせる。
ローランは棺の前に跪いて祈る。母が安らかに眠れるよう。
「ヘリオン……僕は、君がうらやましいんだ」
涙を流し、このセント・ミラに来てから抑えつけていた思いが溢れ出す。
「僕は死んだら土に還る。けれど母上や他の家族は光の中へ旅立ってしまうだろう。いつか、一人になってしまう。灰守りなんて残されるよりも、同じ場所へ逝きたいのに……」
出会った日、竜車の中でローランはヘリオンに言った。
君ならセント・ミラで生きられる。
裏を返せば、ヘリオンはセント・ミラで死ぬことができるということだ。
魔光適性の高さからロックス家という家族に迎え入れられ、そして同じ場所への旅立ちを許されたヘリオンに向けた、羨望の言葉。
首にかけた灰守りを握りしめる。誰の灰かもわからない。こんなもの、家族の死を光によって線を引くことに対する言い訳でしかない。
ローランの気持ちに寄り添いたかった。そのために危険を承知で侵入の手伝いまでしたはずなのに、どうしても慰めの言葉が見つからない。ヘリオンはもう、その資格を失っていた。
ヘリオンと少女は黙って、ローランの祈りが終わるのを待つ。涙が枯れるまで祈りは続き、そして立ち上がった彼の表情は憑き物が落ちたように晴れやかなものだった。
「本当にありがとう、ヘリオン。さっきはごめん、へんなこと言って」
「気にしてないさ」
「ああ、君はそういうやつだな」
無事に母親との別れを済ませることができたローランには分からないだろうが、ヘリオンは彼を待っているあいだ、横の修道女の少女をどう扱っていいか悩んでいた。
彼女にこの場を見逃してもらえるのか?
すぐ騎士を呼ぶような対応を見せないということは、交渉の余地はあるかもしれない。ローランには見えていないこの少女にどう話しかけるか、その一言を繰り出す勇気が湧かなかった。
「帰ろうか」
「ん……うん。そうだな……」
ローランが事も無げに言い、ヘリオンも曖昧に頷く。目線を少女へと向けると、口元を抑えて笑いをこらえている。
「いけませんよ。次はあちらです」
そして少女が次に手で促した先、部屋の天井を支える巨大な柱の裏から、教会の大騎士が現れる。
「掟を破ったその罰。受け入れる覚悟はできているかな?」




