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目を開けたら、悪魔がいた。真っ黒い翼に、立派な角を生やした悪魔だ。尻尾の先には矢印がついていて、ぼくが見ていることに気づくと、ニヤリと嫌な笑顔を見せてきた。
ぼくの身体は氷で一杯になったお風呂の中にあった。全身が痺れるくらいに寒くて、自分の身体じゃないみたいに、手も足も自由に動かなくなっていた。
歯が震えて、ガタガタと音が鳴る。小さく身体が震えて、揺れた氷が湯船にぶつかって、ガタガタと音が鳴る。
かき氷を掻き込んだみたいに頭が痛かった。身体の芯から寒さで震えて、それが頭の奥に痛みの種を植えたみたいだった。ゆっくりと芽が出て、痛みが強くなる。痛みの芽は茎を伸ばし、根を広げて、ぼくの頭の中に住みついていく。
悪魔が笑う。寒さに震えるぼくを見て、痛みに顔を歪めるぼくを見て、心底楽しそうに笑っている。尻尾の先の矢印を伸ばして、ぼくの身体のあちこちをつついて、ぼくの苦しそうな反応を待っている。
矢印がぼくの頬に突き刺さった。ガタガタと震える歯が止まって、プルプルと震える唇だけが残った。それを見た悪魔が笑い声を上げる。それくらいに面白いなら、ぼくも見てみたいと、普段のぼくなら思っている。
矢印がぼくの腕に突き刺さった。痛いはずの腕の中心に刺さっても、ぼくは何も感じなかった。きっと氷風呂に浸かっているから、これくらいの痛みは何でもないと身体が思ってしまうのだろう。
悪魔が笑う。笑い声が響いていく。何もない暗い世界に、甲高い笑い声だけが響き渡っている。そこに歯のぶつかる音と、氷のぶつかる音を添えて、ぼくはぼんやりと歪んでいく目の前をじっと見つめていた。
どれだけ両手で抱き締めても、ぼくの身体は温まらない。どれだけ歯を食い縛っても、ぼくの頭はズキズキと痛む。どれだけ目を瞑ろうとしても、悪魔は暗闇の中に生まれてくる。
寒いと思ったし、痛いと思ったし、気持ち悪いと思ったし、とにかく辛い気持ちで一杯だった。
そこに声が聞こえてきた。優しく包み込むような、暖かい声がぼくの頭の上から落ちてきて、ぼくの上にゆっくりと覆い被さっていく。
まるで毛布のような声だった。ぼくの身体をゆっくりと温めて、ぼくはそれだけで嬉しくなる。嬉しいぼくの気持ちに気づいて、悪魔が寂しそうに目を逸らし、暗闇の奥に消えてしまう。
気がついたら、ぼくは氷風呂から出ていた。頭の中に伸びた痛みの草はゆっくりと萎れて、ぼくの頭から落ちようとしていた。身体のあちこちに張りついていた痛みが薄れ、ぼくはぼくを覆うように乗っている布団がいることに気がついた。
その上を優しく跳ねる音符がある。規則正しく並んで、ぼくの上にリズムを作っていた。
それが指の形に変わって、やがて、手の形を作り上げた時、ぼくはぼくの目の前に優しい光が割って入ったことに気がつく。規則正しく、心臓の音みたいに跳ねながら、光の中から綺麗な音が響き渡る。
「大丈夫? 調子はどう?」
そんな風に声が聞こえ、それがぼくの中に生まれた気持ち悪さを少しずつ和らげてくれた。震えていたはずの身体がぽかぽかとして、萎れた痛みは姿を消していた。
もしかしたら、地面に帰ったのかもしれないと思いながら、ぼくは聞こえた声に耳を傾ける。
それは毛布のように温もりを与えてくれて、薬のようにぼくの中から気持ち悪さを追い出してくれた。
とても不思議な響きのする明るい声。
ママの声はいつだって、そういう風に聞こえていた。
☆ ♢ ☆ ♢ ☆
ママの料理はいつもぼくに笑顔をくれた。ぼくがどれだけ元気がなくても、ママの料理を食べるだけで、ぼくはいつだって力が湧いてきた。
ママのナポリタンを食べるだけで、縄跳びの二重跳びが跳べるようになったし、鉄棒の逆上がりだって軽やかにできた。
割り箸をまっすぐに割ることも、真空パックに空気を入れないよう綺麗に閉じることも、ママのナポリタンを食べるだけで、ぼくは何だってできた。
いつだってママのナポリタンは特別な力をくれたのに、ママのナポリタンはお皿の上だけに留まらなかった。ママの作るお弁当の片隅にも、ママのナポリタンはいつもいた。
ぼくとママとパパの家族三人で動物園に出かけた時も、ママの作ったお弁当の片隅で、ママのナポリタンは待っていてくれた。
動物園には、たてがみの立派なライオンがいて、檻の外にいるぼくたちに向かって、鋭い牙を見せつけながら、怒鳴るように吠えていた。
鳴き声は耳を叩くように強く、鋭い牙はステーキを切るナイフみたいに鋭かった。顔には一杯の怒りマークが浮かんでいて、その声や姿にぼくは完全に怯えてしまっていた。
ぼくはぐすぐすと泣きながら、ママの手を握って、パパの服を掴んでいた。ママは「大丈夫。怖くないから」と優しく言ってくれたけど、パパは「伸びちゃう」と服の心配ばかりしていた。その時のぼくはあまりに怖くて、ぎゅっと身体が硬くなっていたけれど、ママの優しい声を聞いていたら、少しずつ身体は解れていた。
そのお陰で、何とかライオンの檻からは離れられたけれど、再び動物園の中を歩き始めたぼくの気持ちは萎んだ風船のように変わっていた。
さっきまでは見たことのない動物が一杯いて、あんなに楽しい気持ちが湧いていたのに、今はきらきらとした見たことのない景色にも、全く興味が湧かないくらいに気持ちが沈んでしまっていた。
舌の長いキリンも、耳の大きなゾウも、高いところから降りるのが得意なサルも、どれも今のぼくには新しいワクワクをくれなかった。
そんな様子を心配してくれたのか、ママとパパがお昼ご飯にしようと言い出した。お弁当を作ってきたから、休憩できるところで食べようと言って、ママとパパはぼくの手を引っ張ってくれる。
そこでママが取り出したお弁当の片隅に、ぼくはナポリタンを見つけると、プラスチックのフォークをすぐに伸ばして、くるくると巻きつけていた。ケチャップ一杯のナポリタンを一口分取ると、すぐにぼくはフォークを口に運んで、ナポリタンを頬張る。
すると、それまで萎んでいたはずの風船に空気が入って、ぼくの気持ちはどんどん元気になっていた。本当にずっと不思議だけど、このナポリタンを食べたら、いつだって、こんな風に元気になる。
きっとママのナポリタンには、魔法がかけられているに違いない。ママは魔法使いかもしれない。子供の頃から、ぼくはひっそりと本気でそんなことを思っていた。
☆ ♢ ☆ ♢ ☆
ぼくのママはロボットなのかもしれない。そんな風に疑ったこともあった。ママはいつだって笑顔で、ぼくはママが悲しそうにしているところや、苦しそうにしているところを見たことがなかった。
もしかしたら、ママはロボットで、だから、病気にもならないし、ずっと元気で笑顔でいられるのかもしれない。そんな風に考えて、だとしたら、パパがママを作ったのだろうかと思ったこともある。
そうだとしたら、ぼくもママみたいなロボットを作ってみたいと思って、パパにこっそりとママはロボットなのかと聞いてみたこともあったけど、パパは笑顔で「ママはロボットじゃないよ」と言うだけで、作り方は教えてくれなかった。
ママが風邪で寝込んだのは、そのすぐ後のことだ。少し前にぼくが風邪にかかっていて、パパはそれが移ったと言っていた。
ママは苦しそうに咳をしながら、それでも、何とか笑顔で「大丈夫」とぼくに言ってくれたけど、その時のママの笑顔はいつもの笑顔と違っていた。
きっと大丈夫じゃない。そう思ったぼくは何とかママを助けてくれるよう神様にお願いした。
嫌いなものも食べるし、苦手な勉強も頑張る。もしも神様が欲しいと言うなら、パパだってあげると約束していたら、それから少しして、ママの風邪は治ったようだった。
ママはすっかり熱も下がったみたいで、心配するぼくに笑顔で「治ったよ」と言ってくれた。その時の笑顔はいつものママの笑顔で、その笑顔がママはロボットではないことをぼくに教えてくれた。
こんな風に笑えるママがロボットのはずがない。もしも、ママの持っている綺麗な指輪が相手でも、ママの笑顔には敵わない。
それくらいママの笑顔は輝いていた。
☆ ♢ ☆ ♢ ☆
ある日、パパに電話がかかってきた。ママが買い物に行っている時で、家にはぼくとパパしかいなかった。パパは不思議そうに電話に出ると、すぐに驚いた顔をしていた。
ママとか、車とか、ジコとか、そんなことを言っていたけれど、それが何かはぼくには分からなかった。
ただパパは急いで、家を出るとぼくに言って、飛び出すように車に乗り込んでいた。そのまま白い大きな建物に向かって、そこで眠っているママと逢った。
ママはぐっすりと眠っている様子で、ぼくがそこに来ても目を覚ましてくれなかった。パパはとても悲しそうな顔でママを見ていた。白い服を着た男の人が何かを言っていたけれど、ぼくには難しくて分からなかった。
そして、その日から、ママは家に帰ってこなくなった。




