06.雪の謝罪
その日から雪の嫌がらせは始まった。
しかし、それは嫌がらせと呼ぶのには些細なことだった。
「その前髪で前が見えているのですか、美子さん。私には不思議でしかありません。みっともない。さっさと前髪を切らせたらどうですか」
雪はどうしても美子の前髪が長いことが気に入らなかった。
身に付けているエプロンのポケットの中にハサミを常に入れておくようになり、美子の後ろを付き纏う。美子の掃除の仕方に文句をつけようとしていたようだが、青龍寺家で鍛え上げられた美子の掃除技術には文句をつけるところがなく、しかたがなく、後ろをついて回っているだけになっていた、
「……赤い目は不愉快ですから」
「気にしませんよ。目の色が気になるなら、カラーコンタクトでもすればいいのです。視力が悪くなくても目の色を変えている人なんて山のようにいますからね」
「義孝様の負担になることはいたしません」
美子は首を左右に振った。
雪は不思議でしかたがなかった。
「赤い目にこだわるのは悪い癖ですね。美子さん。あなたは青龍寺家の呪われた子です。赤い目にこだわるのはそれが原因でしょう。それならば、その原因を隠そうとしないのですか?」
雪は悪気があるわけではない。
しかし、長い前髪だけは気に入らなかった。
「美子さんが悪い人間ではないことは話していればわかります。私も初めて会った時には言い過ぎたと思っています。その節はすみませんでした。ですが、前髪にこだわる理由がわかりませんね」
雪は語る。
雪は反省をしていた。
美子が泣くほどのことを言ってしまった自覚があった。実際には涙を流したのは義孝との別れを想像して、勝手に零れ落ちて来ただけなのだが、雪の目には違う風に見えたのだろう。
「……顔を隠すためなのです」
美子は振り返った。
掃除は終わったから、掃除道具を元の場所に戻すために振り返っただけだ。
「醜いでしょう?」
美子は自虐した。
醜いと言われて育ってきた。顔を覆い隠すような前髪は、目を隠すためだけではなく、顔を半分以上隠すためのものだった。
「どこがですか。一般的には美少女の部類に入るでしょう。前髪を退けて見なさい。それが一重だろうが、二重だろうが、美少女には変わりはありませんよ」
雪は否定した。
その言葉には美子はなにも言えなかった。
……初めてです。
義孝も美子に向き合ってくれた。
雪も美子と向き合おうとしてくれている。
桐生家の人間の優しさに包まれて、壊れかけていた心が少しずつ癒されていく。
……どうして、桐生家のお二人は優しいのでしょう。
気持ちが悪いと否定されないことが、嬉しいのだと初めて知った。
呪われた子と言われても雪を嫌いにはなれなかった。それは雪が義孝と美子の将来を心配して口にしていた言葉だと知ってしまったからだ。
「お義母様は優しすぎます」
「どこがですか。嫁の悪いところを探そうとついて回るような姑ですよ。一般的には嫌な部類に入るでしょう」
「いいえ。私と会話をしてくださるのは、義孝様とお義母様だけです」
美子の言葉に雪は眉間にしわを寄せた。
雪は表情に出やすかった。なにか思うことがあったのだろう。
「会話くらいするでしょう。一緒に暮らしているのですから。青龍寺家にいた時も使用人と会話くらいはしたでしょう? それと同じことですよ。感謝するようなことではありません」
雪の言葉に美子は首を横に振った。
それに対し、雪は信じられないと言わんばかりの顔をする。
「まさか! 使用人とすらも会話をしてこなかったのですか!?」
「話すことを禁じられていました」
「そんなバカな話があるものですか! 青龍寺の当主に会ったら文句を言ってやりますね! 美子さんは呪われてなんかいないってことを大きな声で言ってやらないと気がすみません!」
雪は感情的になりやすい。
初日の勢いはどこにいったのか。今では些細な嫌がらせはしてくるものの、美子のことを庇うようになっていた。それは無意識の変化だった。
雪の言葉に美子は首を横に振った。
それに対し、雪は不満だった。
「青龍寺家は悪くありません」
美子は自分自身を責める癖があった。
美子を差別し、迫害し続けてきた青龍寺家を恨めたのならば、どれほどに良かっただろうか。しかし、美子には青龍寺家を恨めなかった。
「赤い目で生まれた私が悪いのです」
青龍寺家での思い出に良いことは一つもない。
しかし、美子は自分を責め続けた。
青子のように普通の見た目をしていたのならば、美子は差別を受けることはなかっただろう。それに気づいていたからこそ、美子は自分の容姿が嫌いだった。
「容姿なんて生まれてくるときに選べるものじゃないでしょう。美子さんのせいじゃありません。陰陽師には赤い目が生まれてくるものなのですよ。義孝さんの甥も赤い目です。……私の言葉であちらの家とは縁を切られてしまいましたが」
雪は後悔していた。
赤い目は嫌われている。それは陰陽師にとって当然のことだ。しかし、赤い目は一般人にとっては珍しいものであって、差別をするものではない。
それを雪は知らなかった。
一般人を嫁にもらった義孝の弟は、雪の発言に激怒し、縁を切った。
陰陽師の才能がなかった義孝の弟にとって、桐生家の風習も陰陽師の風習も煩わしいものでしかなかったのだろう。自分が成れないものに縛られるのは苦痛でしかないのだ。
「美子さんと話をしてよくわかりました。容姿を気にしていたのは私も同じことですね。前髪は気に入りませんが、美子さんの気持ちが落ち着くまで待つとしましょう」
雪は笑いかけた。
それに対し、美子はつられて笑う。
「……ごめんなさい、お義母様」
美子は謝った。
前髪を短くする日は来ないだろう。
物心つく前から言われ続けてきた呪われた子という言葉は、美子の中では当然のように居座っている。赤い目をした呪われた子が表舞台に立つわけにはいかないのだ。
それを知らず、雪は素直に美子が前髪を切らせてくれる日を待つだろう。
だからこそ、謝ったのだ。
「謝ることではありませんよ、美子さん。私が意地になってしまっているだけのことです。前髪が長くても一緒に買い物に出かけられるというのに、私の悪いところですね。ごめんなさい、美子さん。嫌だったでしょう?」
「いいえ」
「嫌な時は嫌と言いなさい。美子さんにだって、嫌な時は拒絶をしていいのですよ」
雪の言葉に美子は涙を流した。
……どうして、こんなにも、優しいのでしょう。
雪の言葉が痛いほどに温かい。心の傷を刺激しているのにもかかわらず、時々向けられる温かい言葉は心の傷を癒そうとしてくれる。




