05-1.噂とは違う
「俺の嫁はかわいい上に優秀だな!」
義孝は興奮したように声をあげた。
その声に驚く美子に気づき、慌てて、両腕をあげて数歩下がる。
「すまない! 触るつもりはなかった!」
義孝は泣いている美子が嫌がっていたと思ったようだ。
それに対し、美子は首を横に振った。
「いいえ。嬉しいのです」
美子は涙を拭う。
嬉しくて泣いたのは初めてだった。
いつも、痛みに堪えながら泣いていた。赤い目に生まれた自分自身を恨み、水の異能力を持ってこなかった自分自身を貶して生きてきた。
それが報われたような気がしたのだ。
……噂とは違いますね。
鬼のような人はいない。
ここにいるのは優しい人だけだ。
「初めて抱きしめられました」
「初めて? 両親には抱きしめられなかったのか?」
義孝は愛情をかけて育てられてきた。
桐生家の跡取りとして厳しい教育ではあったものの、その分、愛情をかけられてきた。
「はい」
美子は迷わず返事をした。
……抱きしめられるというのは温かいのですね。
誰かに抱きしめられる機会に巡り合えたことを感謝する。
青龍寺家に居続けてはそのような機会に巡り合うことはなかっただろう。
「そうか。……美子さん、これからは桐生家が我が家になる」
「はい」
「仕事をさせるつもりはなかったが、美子さんが良ければ異能特務課に来てみないか?」
義孝の言葉に美子は首を横に振った。
異能特務課は政府の公認機関だ。陰陽師が働ける場所である。
「私は陰陽師ではありません」
美子は否定する。
陰陽師になるためには、専門の高校や大学に進学をしなければいけない。都立の中学校を卒業しただけの美子には陰陽師になる資格がなかった。
なにより、美子は自分の異能力を誇りに思えなかった。
「異能特務課に入る権利を持っていません」
「顔を出すだけでいい。仕事はしなくてもいい。ただ、少しだけ協力をしてほしいんだ:
「外部の人間が顔を出すのは組織として良くないと思います」
美子ははっきりと物を言った。
言葉を口にすると暴力を振るわれていたため、無口を貫いていたが、義孝の前では自然と素を出せた。
……義孝様は優しい方です。
居場所を作ろうとしてくれているのだろう。
そのことに心の底から感謝をする。
「家事を徹底的に行います」
美子は頭を下げた。
「ですから、桐生家の嫁として、私を義孝様の傍においてください」
美子は心の底から願いを口にした。
義孝はそれに困った顔をする。
「婚姻届けを出しただけの相手に、どうして、そこまで尽くそうとするんだ」
義孝は美子との結婚を待ち望んでいたわけではない。
桐生家の当主として、青龍寺家の娘との政略結婚だと理解をした上で美子を受け入れただけだ。話をしてみれば物わかりの良い娘であり、好感を持てる。しかし、その関係性は政略結婚であることに変わりはない。
だからこそ、理解ができなかった。
令和の時代、恋愛結婚が主流である。
時代錯誤なことをしているのは陰陽師のように特殊な家系や宗教だけだ。
「義孝様だからこそです」
美子は答えた。
……この感情がなんというものなのか、わかりません。
義孝は特別な存在になっていた。
少しの会話をしただけなのにもかかわらず、義孝に尽くそうと思えるくらいには、特別だった。
その感情の答えを美子は知らない。
一目見ただけで抱いてしまった感情の答えを教えてくれる人はいなかった。
「義孝様の傍にいたいのです」
美子は素直に思いを口にする。
その言葉に義孝の頬は僅かに赤く染まった。
「……だめでしょうか?」
美子は不安そうに問いかけた。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
青龍寺家には戻りたくなかった。
義孝の傍にいたかった。
「だめじゃない。だめじゃないんだが」
義孝は言い淀んだ。
そして、恥ずかしそうな顔をしながら、美子の頭を撫でた。
「10歳も年上の旦那でいいのか?」
「はい」
「美子さんのようにかわいい方の貰い手は俺以外にもいると思うが。……その、なんというか。俺も美子さんを好ましく思う。だから、傍にいてくれるのならば、それ以上に嬉しいことはない」
義孝は覚悟を決めたように言い切った。
その言葉に対し、美子は嬉しそうに笑った。
「なにを甘ったるいことを言ってるんですか、義孝さん」
リビングの扉が開けられ、ツッコミが入る。
当然のように二人の間を割くように割り込んできたのは義孝の母親である桐生雪だ。雪は冷たい目を義孝に向けた。
「28歳にもなって恋愛ごっこはおよしなさいな。見ていて暑苦しくてしかたがありませんよ」
雪は暑い暑いと繰り返す。
それに対し、義孝は気まずそうな顔をして美子の頭から手を下ろした。
……この方がお義母様。
噂には聞いていた。
桐生家の先代当主の妻であり、今も絶対的な権力を握っている。青龍寺家に政略結婚を申し込んだのは雪である。
「なんですか。その長い前髪は。みっともない。ハサミを貸しなさい、切ってあげましょう」
「これはだめです」
「嫁が歯向かうのですか。そうですか。私も舐められたものですね」
雪は机の上にあったハサミに手を伸ばす。
その手を止めたのは義孝だった。
「義孝さん。嫁姑問題に口を挟むのは早すぎるのではないですか? 男は若い女に弱いと言いますが、母さんに対してあんまりな対応ではないでしょうか?」
雪は文句を口にする。
しかし、義孝は首を横に振った。
「美子さんの嫌がることはしないでいただきたい」
義孝の言葉に対し、雪は露骨なまでに嫌そうな顔をした。それからハサミは諦め、視線を美子に戻す。




