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灰色の贈り物

作者: 沙羅双樹
掲載日:2025/11/08

夕暮れがマンションの廊下を薄く染める頃、里奈は郵便受けの封筒をぎゅっと握りしめていた。中身はただの案内状かもしれない。だが、その紙を前にしただけで、胸の奥がせり上がるように痛んだ。


彼、航は里奈の全てを知っていると彼女は思っていた。笑えば周りは和んだし、困ればすぐ手を差し伸べてくれた。航の前で里奈は、いつも「完璧に可愛い彼女」を演じた。彼の笑顔を守るために、疲れや怒りも飲み込み、嫌なことは笑って流した。


それが里奈の「強さ」だと、彼女は何年も自分に言い聞かせていた。


けれど、誰よりも近くにいる彼だからこそ、里奈は見てしまった。航が誰にでも向ける優しさ、友人たちと交わす軽い冗談、そして時折見せる、里奈にだけ向けられない淡い距離感。里奈はそれを「裏切り」だと受け取った。だが本当は、受け取れない自分自身の不安や、見下されることへの恐れを航に投影していた。


反動形成という言葉は、里奈の心の奥に密かに巣食っていた。弱さを見せる代わりに、過剰な愛情と献身を示す。愛していると叫ぶほど、その裏に憎しみが育つ。彼女は自分の矛盾を認めず、一層航に寄り添った。だが寄り添うたび、心は削られていった。


ある晩、いつものように航の部屋のソファで一緒に映画を観ていた。航がポップコーンを取りながら、明るく誰かの話をした。里奈は笑った。外側の里奈は完璧に愛していた。内側の里奈は、胸の中で何かが硬く冷たく結晶化していくのを感じていた。


小さな出来事が引き金になった。航が誰か別の女性の話をする――それは特別なことではないはずだった。だが里奈の胸は熱を持ち、いつもなら抑えられる感情が急に押し寄せた。彼への献身は、瞬時に「私を裏切った/私を見ていない」という確信に変わる。彼女は自分がどれだけ冷たく尖っているかに驚いた。


その夜、里奈は眠れなかった。彼への手紙を書き、消し、また書いた。どの文章も、必死に「愛している」と言い訳をしているように見えた。翌朝、里奈は無心で荷物を整え、航の部屋に向かった。訓練された笑顔でコーヒーを淹れ、彼の肩にそっと触れた。


行為は突然だったと言える。里奈自身も、どこで線を越えたのか説明できない。ただ一瞬、自分の中の否定的な感情がある形を取ることは確かだった。反動形成の裏で育った「これは間違っている」と「これはやむを得ない」という相反する声が、ついに一つの行動に押し潰された。


その夜のことを、里奈は後に淡々と語った。自分でも信じられないほど冷静に。誰かの手を「汚した」という感覚は、行為の後に来るものだった。行為直後、里奈の身体は震えたが、やがて静寂が訪れた。静寂は里奈の叫びを飲み込んだ。


事件は町を震わせ、警察の捜査が始まった。里奈は被害者の近しい人物として真っ先に疑いを受けた。だが里奈は最初、何も語らなかった。自分がしてしまったことを言葉にするのが怖かったのではない。言葉にすれば、それは真実になってしまうと感じたからだ。


取り調べ室で、刑事の質問は単純だった。「なぜやったのか」。里奈は言葉を選んだ。初めは嘘をつき、次に沈黙し、最後にぽつりと本当のことを呟いた。


「私……彼を愛していた。でも同時に、彼の『普通』が私の存在を溶かしていくように思えた。私は弱くて、見られたくなかった。だから彼を支配しようとした。支配できないなら、消してしまえばいい、って――そんな考えが、私を支配したんです。」


その告白は、驚きよりも深い哀しみを引き起こした。刑事たちは詮索ではなく、事実の積み重ねとして彼女の言葉を記録した。法廷での里奈は、事実を否定せず、しかし感情の説明には言葉を選んだ。反動形成という心理的構造は、医師や心理学者の証言で詳しく示され、里奈の心の中で何が起きていたのかが裁判の焦点になった。


裁判の結末は冷徹だった。里奈には刑罰が下され、彼女は社会から隔絶された。だがそれで済む話ではないと、里奈自身が一番わかっていた。刑務所の小さな窓から見る灰色の空は、かつて彼女が航に見せた「明るさ」とはほど遠かった。


年月が経ち、里奈は自らと向き合う時間を強いられた。法と秩序の枠内で裁かれることとは別に、彼女は自分の心の傷と折り合いをつけなければならなかった。誰にも見せない弱さを恐れ、過剰な愛で覆い隠した日々が、どれほど人を壊すか。里奈は、そこに向き合うことでしか再生の道を見いだせないと知っていた。


彼女の最後の独白は、誰かを弁護する言葉ではない。ただの認識だった。


「愛は美しくも、毒にもなる。私の愛は自分を守るために生まれた嘘だった。そしてその嘘が、一番大切なものを壊した。」


灰色の空は、やがて時折、薄い光を透かすようになった。里奈の胸の中にも、かすかな希望と絶え間ない後悔が同居していた。再生は簡単ではない。けれど、彼女は自分が犯したことから目を背けずに生きることを選んだ。それがせめてもの贖罪だと、彼女は思っている。

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