第9話 退職届、提出します
その日の朝、聖堂は大混乱に陥っていた。
「聖女様が!」
「いない!」
「探せ!」
神官たちが右往左往している。
執務室では、枢機卿が退職届を握りしめていた。
「なぜだ……なぜ、こんなことに……」
手が震えている。
「私は……間違っていたのか……?」
いや、と首を振る。
「間違っているのは、聖女だ」
枢機卿は退職届を机に叩きつけた。
「職務放棄など、許されるものか!」
*
緊急会議が開かれた。
聖堂の主要な神官たちが集まる。
「状況を報告せよ」
枢機卿が命じる。
「はっ。聖女様は早朝、聖堂を出られたものと思われます」
「目撃者は?」
「補佐官のミナが、裏口で聖女様を見たと」
「ミナを呼べ!」
*
ミナが会議室に呼ばれた。
「ミナ、聖女様はどこへ行かれたのだ」
「……存じません」
「嘘をつくな! お前は見たのだろう!」
「見ましたが、行き先は聞いておりません」
ミナは真っ直ぐ枢機卿を見た。
「それに……私は止めませんでした」
「何だと!?」
会議室がざわめく。
「お前は、聖女の逃亡を幇助したのか!」
「幇助ではありません」
ミナは毅然と答えた。
「ただ、見送っただけです」
「ふざけるな!」
枢機卿が机を叩いた。
「お前の職務は、聖女を補佐することだ! 逃がすことではない!」
「私の職務は」
ミナの声が響く。
「リゼル様を守ることです」
*
「守る……だと?」
「はい」
ミナは涙を堪えた。
「あの方は、壊れる寸前でした」
「それは――」
「枢機卿様のせいです」
会議室が静まり返った。
「ミナ! 貴様、何を――」
「言わせてください!」
ミナが叫ぶ。
「リゼル様は、五年間一度も休まず働き続けました!」
「それが聖女の務めだ」
「違います!」
ミナの声が震える。
「それは、ただの搾取です!」
「何を……」
「枢機卿様は、リゼル様を道具としか見ていなかった!」
ミナは涙を流した。
「だから、あの方は逃げたんです!」
*
枢機卿は、言葉を失った。
「私は……道具として……」
呟く。
「そんなつもりは……」
「なかったとしても、結果はそうです」
ミナは静かに言った。
「リゼル様は、心も体も限界でした」
「……」
「だから、逃げるしかなかったんです」
長い沈黙。
やがて、枢機卿は項垂れた。
「私は……何をしていたのだ……」
*
その時、扉が開いた。
「枢機卿様! 大変です!」
若い神官が飛び込んでくる。
「何事だ」
「各地から報告が! 奇跡が全て止まっています!」
「やはり……」
枢機卿の顔が青ざめる。
「聖女がいなくなったことで……」
「それだけではありません!」
神官の声が震える。
「民衆が、暴動を起こし始めています!」
「何だと!?」
*
聖堂の外では、人々が集まっていた。
「聖女様はどこだ!」
「奇跡を起こせ!」
「病気が治らないんだぞ!」
怒号が飛び交う。
「聖堂は何をしている!」
「俺たちを見捨てるのか!」
石が投げられる。
窓ガラスが割れる。
「これは……」
枢機卿は窓から外を見た。
「私が……招いたことなのか……」
*
その夜、枢機卿は一人で祈祷室にいた。
「神よ……」
跪き、祈る。
「私は……間違っていたのでしょうか」
答えはない。
「聖女を……あのように扱ったこと……」
涙が零れた。
「許されないことを……したのでしょうか」
沈黙。
「どうか……お答えください……」
でも、神は答えなかった。
*
一方、その頃。
リゼルは森の中を歩いていた。
「もう少し……」
故郷まで、あと二日。
「頑張ろう」
疲れた体を引きずりながら、歩き続ける。
その時――。
「あれは……」
前方に、小さな光が見えた。
「村……?」
リゼルは急いで向かった。
*
そこは、本当に小さな村だった。
十軒ほどの家。
畑と、小さな教会。
「助かった……」
リゼルは村の入り口で立ち止まった。
「ここで……一晩休もう」
村に入ろうとした瞬間――。
「誰だ!」
男性の声がした。
村人が、鍬を構えて立っている。
「す、すみません! ただの旅人です!」
「旅人……? こんな時間に?」
男性は警戒している。
「道に迷って……一晩泊めていただけませんか?」
「……」
男性は迷っているようだった。
でも――。
「父さん、可哀想じゃないか」
若い男性が出てきた。
「泊めてあげようよ」
「だが……」
「大丈夫だよ。ただの女の子だし」
若い男性はリゼルに微笑んだ。
「どうぞ、入ってください」
「ありがとうございます!」
*
案内された家は質素だった。
でも、温かい。
「スープ、どうぞ」
若い男性の妻が、スープを出してくれた。
「ありがとうございます……」
リゼルは涙を流しながら、スープを飲んだ。
「美味しい……」
「良かった」
妻は優しく笑った。
「ところで、どこへ行かれるんですか?」
「故郷に……帰るところです」
「そうですか。大変でしたね」
「はい……色々と……」
リゼルは曖昧に答えた。
*
その夜、リゼルは客間で休ませてもらった。
「優しい人たちだった……」
ベッドに横になりながら、呟く。
「聖女じゃなくても……人は優しくしてくれる」
それが、嬉しかった。
「神の力がなくても……」
涙が零れた。
「人は、人を思いやれる」
窓の外を見る。
月が綺麗だ。
「神様、ありがとう」
呟く。
「私に……人間であることを思い出させてくれて」
風が吹く。
優しく、温かく。
「おやすみなさい」
リゼルは安らかに眠りについた。
(第9話・終)




