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聖女は退職したい  作者:
第1章 崩壊と逃避
8/11

第8話 白衣を脱ぐ朝

 ――回想・三日前の早朝。

 リゼルは執務室で、白い聖女衣を見つめていた。

「これを……脱ぐんだ」

 五年間、毎日着ていた衣。

 神の印が刺繍された、純白の布。

「さよなら……」

 リゼルは衣に手を伸ばした。


 *

 聖女衣を脱ぐ。

 下には、普通の白いシャツとスカート。

「これが……本当の私」

 鏡を見る。

 そこに映るのは、疲れ切った一人の女性。

「痩せた……な」

 頬はこけ、目の下には隈。

 手は震え、唇は血の気を失っている。

「ひどい顔……」

 でも――。

「これが、私の本当の姿」

 リゼルは鏡に向かって微笑んだ。

「神の道具じゃない。リゼル・アルティナって人間」


 *

 聖女衣をクローゼットにしまう。

 その瞬間、不思議な感覚があった。

「軽い……」

 体が、心が、軽くなっていく。

「この衣が……こんなに重かったなんて」

 今まで気づかなかった。

 いや、気づかないようにしていた。

「もう……着ない」

 リゼルはクローゼットを閉めた。

「二度と」


 *

 代わりに着たのは、村から持ってきた旅装束。

 茶色の質素なローブ。

 何の飾りもない。

「これでいい」

 リゼルは荷物をまとめ始めた。

 最低限の服と、少しの食料。

 それから――。

「これも持っていこう」

 小さな本を一冊。

 村で買った、詩集。

「聖典じゃなくて、人の言葉が読みたい」

 荷物は軽かった。

 でも、それでいい。

「身軽な方が、逃げやすい」


 *

 最後に、退職届を机に置く。

 インク壺で押さえて。

「これで……終わり」

 リゼルは執務室を見回した。

 五年間、働き続けた場所。

 涙も、笑いも、全てがここにあった。

「さよなら」

 深く頭を下げて、扉を開ける。


 *

 廊下を歩く。

 誰もいない、早朝の聖堂。

 リゼルの足音だけが響く。

「誰にも会わないように……」

 裏口へ向かう。

 途中、祈祷室の前を通りかかった。

「……」

 リゼルは立ち止まる。

 扉を開けようか迷ったが――。

「いや、やめよう」

 首を振る。

「もう、祈らない」

 そのまま歩き続けた。


 *

 裏口に着く。

 扉の向こうは、自由。

「行こう」

 リゼルは扉に手をかけた。

 でも、その瞬間――。

「リゼル様?」

 背後から声がかけられた。

「っ!」

 リゼルは振り返る。

 そこには、ミナが立っていた。

「ミナ……」

「どこへ行かれるんですか? こんな早朝に」

「それは……」

 リゼルは言葉に詰まった。

「まさか……」

 ミナの目が見開かれる。

「逃げるんですか……?」


 *

 長い沈黙。

 リゼルは、ゆっくりと頷いた。

「ごめん……ミナ」

「リゼル様……」

「もう、限界なの」

 リゼルの声が震える。

「このままじゃ、私……壊れちゃう」

「分かって……ます」

 ミナは涙を流した。

「分かってます……だから……」

 ミナは駆け寄り、リゼルを抱きしめた。

「行ってください」

「ミナ……」

「私は、見なかったことにします」

 ミナは震える声で言った。

「だから、どうか……生きてください」


 *

 リゼルは泣いた。

「ありがとう……ミナ……」

「いいんです。私こそ……守れなくて、ごめんなさい」

「ミナは悪くない」

 リゼルはミナの肩を抱いた。

「悪いのは、このシステム」

「リゼル様……」

「だから、ミナは自分を責めないで」

 二人は抱き合ったまま、しばらく泣いた。


 *

 やがて、リゼルは体を離した。

「行くね」

「はい……」

「ミナも、体に気をつけて」

「リゼル様こそ」

 ミナは涙を拭った。

「どこへ行かれるんですか?」

「故郷の村」

「そうですか……なら、きっと大丈夫」

 ミナは微笑んだ。

「あなたの故郷なら、優しい人たちがいるはず」

「うん」

 リゼルは扉を開けた。

「さよなら、ミナ」

「さよなら……じゃなくて」

 ミナは笑顔を作った。

「また会いましょう、リゼル様」

「……うん!」

 リゼルは微笑んで、扉を出た。


 *

 外は静かだった。

 まだ日は昇っていない。

 でも、東の空が白み始めている。

「夜明け……」

 リゼルは空を見上げた。

「新しい……始まり」

 深呼吸をする。

 冷たい空気が、肺を満たす。

「気持ちいい……」

 五年ぶりの、自由な空気。

「行こう」

 リゼルは歩き出した。

 振り返らずに。

 ただ、前だけを見て。


 *

 聖堂を離れ、街を抜ける。

 まだ誰も起きていない。

 静かな街。

「さよなら、王都」

 リゼルは呟いた。

「さよなら、聖女」

 そして――。

「こんにちは、リゼル」

 自分の名前を、声に出した。

「これから、よろしくね」

 涙が零れた。

 でも、それは悲しみの涙じゃない。

「嬉しい涙……」

 リゼルは笑った。

「自由って……こんなに嬉しいんだ」


 *

 王都の門に着く。

 門番が眠そうに立っている。

「おう、お嬢さん。朝早いな」

「はい。故郷に帰るので」

「そうか。気をつけてな」

「ありがとうございます」

 門が開く。

 その向こうは――自由な世界。

「行こう」

 リゼルは一歩、踏み出した。

 そして――。

 振り返らずに、歩き続けた。


 *

 太陽が昇り始める。

 世界が、光に包まれていく。

「綺麗……」

 リゼルは立ち止まって、朝日を見た。

「こんな朝日、久しぶり……」

 聖堂では、いつも窓から見るだけだった。

 こうやって、外で朝日を浴びるのは――。

「五年ぶり……」

 温かい光が、体を包む。

「気持ちいい……」

 リゼルは両手を広げた。

 そして――。

「ありがとう、神様」

 空に向かって呟いた。

「自由を……くれて」

 風が吹く。

 まるで、答えるように。

「行ってきます」

 リゼルは歩き出した。

 新しい人生へ。


(第8話・終)

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