第8話 白衣を脱ぐ朝
――回想・三日前の早朝。
リゼルは執務室で、白い聖女衣を見つめていた。
「これを……脱ぐんだ」
五年間、毎日着ていた衣。
神の印が刺繍された、純白の布。
「さよなら……」
リゼルは衣に手を伸ばした。
*
聖女衣を脱ぐ。
下には、普通の白いシャツとスカート。
「これが……本当の私」
鏡を見る。
そこに映るのは、疲れ切った一人の女性。
「痩せた……な」
頬はこけ、目の下には隈。
手は震え、唇は血の気を失っている。
「ひどい顔……」
でも――。
「これが、私の本当の姿」
リゼルは鏡に向かって微笑んだ。
「神の道具じゃない。リゼル・アルティナって人間」
*
聖女衣をクローゼットにしまう。
その瞬間、不思議な感覚があった。
「軽い……」
体が、心が、軽くなっていく。
「この衣が……こんなに重かったなんて」
今まで気づかなかった。
いや、気づかないようにしていた。
「もう……着ない」
リゼルはクローゼットを閉めた。
「二度と」
*
代わりに着たのは、村から持ってきた旅装束。
茶色の質素なローブ。
何の飾りもない。
「これでいい」
リゼルは荷物をまとめ始めた。
最低限の服と、少しの食料。
それから――。
「これも持っていこう」
小さな本を一冊。
村で買った、詩集。
「聖典じゃなくて、人の言葉が読みたい」
荷物は軽かった。
でも、それでいい。
「身軽な方が、逃げやすい」
*
最後に、退職届を机に置く。
インク壺で押さえて。
「これで……終わり」
リゼルは執務室を見回した。
五年間、働き続けた場所。
涙も、笑いも、全てがここにあった。
「さよなら」
深く頭を下げて、扉を開ける。
*
廊下を歩く。
誰もいない、早朝の聖堂。
リゼルの足音だけが響く。
「誰にも会わないように……」
裏口へ向かう。
途中、祈祷室の前を通りかかった。
「……」
リゼルは立ち止まる。
扉を開けようか迷ったが――。
「いや、やめよう」
首を振る。
「もう、祈らない」
そのまま歩き続けた。
*
裏口に着く。
扉の向こうは、自由。
「行こう」
リゼルは扉に手をかけた。
でも、その瞬間――。
「リゼル様?」
背後から声がかけられた。
「っ!」
リゼルは振り返る。
そこには、ミナが立っていた。
「ミナ……」
「どこへ行かれるんですか? こんな早朝に」
「それは……」
リゼルは言葉に詰まった。
「まさか……」
ミナの目が見開かれる。
「逃げるんですか……?」
*
長い沈黙。
リゼルは、ゆっくりと頷いた。
「ごめん……ミナ」
「リゼル様……」
「もう、限界なの」
リゼルの声が震える。
「このままじゃ、私……壊れちゃう」
「分かって……ます」
ミナは涙を流した。
「分かってます……だから……」
ミナは駆け寄り、リゼルを抱きしめた。
「行ってください」
「ミナ……」
「私は、見なかったことにします」
ミナは震える声で言った。
「だから、どうか……生きてください」
*
リゼルは泣いた。
「ありがとう……ミナ……」
「いいんです。私こそ……守れなくて、ごめんなさい」
「ミナは悪くない」
リゼルはミナの肩を抱いた。
「悪いのは、このシステム」
「リゼル様……」
「だから、ミナは自分を責めないで」
二人は抱き合ったまま、しばらく泣いた。
*
やがて、リゼルは体を離した。
「行くね」
「はい……」
「ミナも、体に気をつけて」
「リゼル様こそ」
ミナは涙を拭った。
「どこへ行かれるんですか?」
「故郷の村」
「そうですか……なら、きっと大丈夫」
ミナは微笑んだ。
「あなたの故郷なら、優しい人たちがいるはず」
「うん」
リゼルは扉を開けた。
「さよなら、ミナ」
「さよなら……じゃなくて」
ミナは笑顔を作った。
「また会いましょう、リゼル様」
「……うん!」
リゼルは微笑んで、扉を出た。
*
外は静かだった。
まだ日は昇っていない。
でも、東の空が白み始めている。
「夜明け……」
リゼルは空を見上げた。
「新しい……始まり」
深呼吸をする。
冷たい空気が、肺を満たす。
「気持ちいい……」
五年ぶりの、自由な空気。
「行こう」
リゼルは歩き出した。
振り返らずに。
ただ、前だけを見て。
*
聖堂を離れ、街を抜ける。
まだ誰も起きていない。
静かな街。
「さよなら、王都」
リゼルは呟いた。
「さよなら、聖女」
そして――。
「こんにちは、リゼル」
自分の名前を、声に出した。
「これから、よろしくね」
涙が零れた。
でも、それは悲しみの涙じゃない。
「嬉しい涙……」
リゼルは笑った。
「自由って……こんなに嬉しいんだ」
*
王都の門に着く。
門番が眠そうに立っている。
「おう、お嬢さん。朝早いな」
「はい。故郷に帰るので」
「そうか。気をつけてな」
「ありがとうございます」
門が開く。
その向こうは――自由な世界。
「行こう」
リゼルは一歩、踏み出した。
そして――。
振り返らずに、歩き続けた。
*
太陽が昇り始める。
世界が、光に包まれていく。
「綺麗……」
リゼルは立ち止まって、朝日を見た。
「こんな朝日、久しぶり……」
聖堂では、いつも窓から見るだけだった。
こうやって、外で朝日を浴びるのは――。
「五年ぶり……」
温かい光が、体を包む。
「気持ちいい……」
リゼルは両手を広げた。
そして――。
「ありがとう、神様」
空に向かって呟いた。
「自由を……くれて」
風が吹く。
まるで、答えるように。
「行ってきます」
リゼルは歩き出した。
新しい人生へ。
(第8話・終)