第6話 倒れた聖女
朝の鐘が鳴る。
聖堂に、いつもの朝が訪れた。
はずだった。
「聖女様がいない!」
ミナの悲鳴が廊下に響く。
「執務室にも、寝室にも、祈祷室にも!」
神官たちが慌てて探し回る。
そして――。
「机に、何か置いてあります!」
執務室で、一枚の紙が見つかった。
『退職届』
*
枢機卿エルヴィンは、その紙を見つめていた。
「退職……届……」
手が震える。
「まさか……本当に……」
『私はもう、聖女としての務めを果たせません。長い間、ありがとうございました』
丁寧な文字。
でも、そこには強い意志が感じられる。
「逃げたのか……」
枢機卿の顔が青ざめた。
「聖女が……逃げた……」
その瞬間、聖堂全体が騒然となった。
*
「聖女様が失踪!」
「退職届を置いて!」
「どういうことだ!」
神官たちが口々に叫ぶ。
「探せ! すぐに探し出すのだ!」
枢機卿が命じる。
「聖騎士団を動員しろ! 王都中を探せ!」
「は、はい!」
騎士たちが散っていく。
でも――。
「枢機卿様、大変です!」
若い神官が血相を変えて飛び込んできた。
「何事だ!」
「東の村で病が! でも、治癒の奇跡が効きません!」
「何だと!?」
「それだけではありません! 各地から報告が! 豊穣の祝福も、浄化の儀式も、全て――!」
神官の声が震える。
「全ての奇跡が、発動しなくなっています!」
枢機卿は呆然とした。
「まさか……聖女がいなくなったら……」
がくりと膝をつく。
「神の加護まで……消えるというのか……」
*
一方、その頃。
リゼルは王都の門を潜っていた。
「出られた……」
門番は、普通の旅装束を着たリゼルを聖女だとは気づかない。
「どちらへ?」
「故郷に……帰ります」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
リゼルは深く頭を下げて、門を出た。
*
王都の外。
広がる草原と、遠くに見える山々。
「久しぶり……外……」
リゼルは立ち止まって、深呼吸をした。
「空気が……美味しい……」
五年ぶりの"自由"。
誰も命令してこない。
誰も予定を押し付けてこない。
「これが……自由……」
涙が溢れた。
「やっと……やっと逃げられた……」
でも、その瞬間――。
「――っ」
激しいめまいが襲ってきた。
「何……?」
膝が笑う。
「体が……重い……」
今まで無理やり動かしていた体が、限界を迎えていた。
「だめ……ここで倒れたら……」
必死に歩こうとする。
でも、足が動かない。
「誰か……」
視界が霞む。
「助けて……」
そして――。
リゼルは草原に倒れ込んだ。
*
どれくらい時間が経ったのか。
リゼルは声で目を覚ました。
「おい、大丈夫か!」
男性の声。
目を開けると、馬車の御者が覗き込んでいた。
「あなたは……」
「行商人だ。倒れてるのを見つけてな」
御者は優しく笑った。
「大丈夫か? 怪我は?」
「ない……と思います……」
リゼルは体を起こそうとして――また、めまいに襲われた。
「おっと! 無理すんな!」
御者が体を支えてくれる。
「どこか悪いのか?」
「いえ……ただ、疲れてるだけで……」
「疲れてる……ね」
御者は心配そうに見た。
「どこへ行くんだ?」
「南の……村に……」
「南? じゃあ方向は一緒だな。乗せていってやるよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
*
馬車の荷台に乗せてもらったリゼルは、毛布にくるまった。
「ゆっくり休んでな」
「はい……」
御者の優しさが、胸に沁みる。
「あの……お名前は?」
「ああ、俺はジョンだ」
「ジョン……さん。ありがとうございます」
「気にすんな。困った時はお互い様だ」
馬車が動き出す。
揺れる荷台の中で、リゼルは目を閉じた。
「優しい……人……」
聖堂では、こんな優しさを感じたことがなかった。
みんな、彼女を"聖女"としてしか見ていなかった。
「人間として……扱ってくれる……」
それが、こんなにも嬉しいなんて。
*
夕暮れ時、馬車は小さな村に到着した。
「着いたぞ。ここで一泊する」
ジョンが声をかける。
「宿屋もあるから、休んでいけ」
「はい……」
リゼルは荷台から降りる。
まだ体は重いが、少しは回復していた。
「あの、ジョンさん」
「ん?」
「本当に、ありがとうございました」
「おう。元気になってよかったな」
ジョンは笑った。
「じゃあ、俺は宿に荷物を運ぶから」
「はい」
*
村の宿屋は小さかった。
でも、温かい灯りが漏れている。
「ここで……一晩……」
リゼルは扉を開けた。
「いらっしゃい」
女将が笑顔で迎えてくれる。
「一泊、お願いします」
「三銅貨だよ」
「はい」
リゼルは懐から小銭を出す。
案内された部屋は本当に小さかった。
ベッドと椅子だけ。
でも――。
「落ち着く……」
リゼルはベッドに座った。
「ここには……誰も私を知らない……」
聖女じゃない。
ただの旅人。
「これが……普通の人の生活……」
嬉しくて、涙が出た。
*
その夜、食堂で夕食を取っていると、また話し声が聞こえてきた。
「王都が大変らしいな」
「聖女が消えたって?」
「ああ。奇跡が全部止まっちまったらしい」
リゼルの手が止まった。
「病気も治らない、作物も育たない」
「困ったもんだな」
「聖女も大変だったんだろうさ。逃げたくもなるよ」
その言葉に、リゼルは顔を上げた。
「え……?」
「だって、毎日毎日働かされてたんだろ? 休みもなしに」
「そりゃ逃げるわ。俺だって逃げる」
男たちは笑った。
「聖女も人間だもんな」
その言葉が、リゼルの胸に響いた。
「人間……」
そうだ。
私は、人間だ。
「逃げても……いいんだ……」
涙が零れた。
*
部屋に戻ったリゼルは、窓を開けた。
夜空に、星が輝いている。
「神様……見てますか」
呟く。
「私、逃げました」
風が優しく吹く。
「怒ってますか?」
答えはない。
「でも……もう、戻れません」
リゼルは星を見上げた。
「これが……私の選んだ道です」
そして――。
「おやすみなさい」
ベッドに横になる。
久しぶりの、安らかな眠り。
「明日も……頑張ろう」
そう呟いて、リゼルは眠りについた。
(第6話・終)