第54話 風の仲間と、白銀の世界へ
ゴウン、ゴウン、ゴウン……。 シュン、シュン、シュン……。
翌朝の「風の谷」ウィンダリアは、重厚で、それでいて軽やかな「風のオーケストラ」に包まれていた。 大小無数の風車が一斉に回り、粉挽き小屋の石臼が粉を挽き、井戸のポンプが水を汲み上げる音。 それは、この村の心臓が再び脈打ち始めた音だった。
『ありがとう! 本当にありがとう!』 『あんたたちは村の救世主だ!』
広場には、村中の人々が集まっていた。 誰もが涙を流し、リゼルたちの手を握りしめてくる。 一週間もの間、死の静寂に怯えていた彼らにとって、この騒がしい日常音こそが何よりの幸福なのだ。
『いやぁ、礼には及びませんよ。商売ですからね』
トムさんが照れくさそうに鼻をこする。 その前には、村長が積み上げた「報酬」があった。
『約束通り、パン一年分……と言いたいところですが、さすがに持って行けませんでしょう』
村長は苦笑しながら、革袋を差し出した。
『これは、パン一年分に相当する金貨と、当面の保存食です。我々の感謝の気持ちです。どうか受け取ってください』 『へへっ、話が分かる村長さんで助かるぜ!』
トムさんが革袋を受け取ると、ジャラリと重たい音がした。 これで当面の旅費と食費は安泰だ。 リゼルもホッと胸を撫で下ろした。 世界を救うにも、先立つものは必要だからだ。
『それにしても……』
リゼルは周囲を見渡した。
『シルフィちゃんは?』
広場のどこにも、あの銀髪の少女の姿がなかった。 昨日の最大の功労者なのに。
『ああ、あの子なら……』
村長が少し寂しげに、谷の上の方を指差した。
『一番高い風車の上にいます。「風と話をしてくる」と言って』
*
谷を見下ろす巨大な風車の屋根。 シルフィはそこに座り、膝を抱えていた。 鳶色の瞳は、谷を抜けていく風の行方を追っている。
『……風は、いいね』
彼女は独りごちた。
『どこにでも行ける。山を越えて、海を越えて……』
この村は好きだ。 生まれ育った場所だし、風車の整備の仕事も誇りに思っている。 でも、昨日あの黒い霧を晴らした時、彼女の中で何かが変わった。 世界の広さを知ってしまった。 そして、世界が「病んでいる」ことも知ってしまった。
『ここに座っててもいいの?』
背後から声がした。 振り返ると、リゼルが梯子を登って顔を出したところだった。 少し息が上がっている。
『……リゼル』 『いい眺めね。村中が一望できる』
リゼルはシルフィの隣に座った。 風が二人の髪を揺らす。
『私たち、もう出発するわ』 『……うん。気をつけて』 『シルフィちゃんは、どうするの?』
リゼルの問いかけに、シルフィは視線を逸らした。
『私は……ここで風車を守る。それが私の仕事だから』 『本当に?』 『……』 『風車は直ったわ。村の人たちも、もう大丈夫。……でも、世界中の風が止まったわけじゃないのよ』
リゼルは、北の空を指差した。
『この風は、北へ流れている。その先で、また何かに遮られているかもしれない。……私はそれを治しに行く。あなたはどうしたい?』
シルフィは強く拳を握った。 行きたい。 この風の行く末を見届けたい。 自分の力が、狭い谷の中だけでなく、広い世界で通用するのか試してみたい。
でも、怖い。 ずっとこの谷しか知らなかった自分が、外の世界でやっていけるのか。
『……私なんか、役に立つかな』
消え入りそうな声。 リゼルは、にっこりと笑った。
『昨日の狙撃、凄かったわよ? あなたがいなきゃ、私とトムさんは霧の中で干からびてたわ』 『それは……』 『それにね、トムさんが言ってたの。「あの馬車、三人ならもっと楽しい宴会ができるのになぁ」って』 『……ふふっ』
シルフィは思わず吹き出した。 あの豪快な大男の顔が思い浮かぶ。
『ねえ、シルフィちゃん。一緒に行こう』
リゼルは手を差し出した。
『あなたの「目」と「耳」を貸してほしい。この世界の風を、一緒に読んでほしいの』
シルフィは、その手を見つめた。 小さくて、でも泥と土で少し汚れた、温かい手。 彼女は深呼吸をした。 谷底から吹き上げてくる風が、背中を押した気がした。
『……分かった』
シルフィはリゼルの手を握り返した。
『行く。……私も、風の果てを見てみたい』
*
一時間後。 村の入り口には、旅装に着替えたシルフィの姿があった。 背中には愛用のショートボウ(短弓)と矢筒、腰には工具袋を下げている。
『村長、ごめんなさい。私……』 『何も言うな、シルフィ』
村長は優しく微笑み、シルフィの頭を撫でた。
『お前はいつか、この谷を出ていくと思っていたよ。その翼は、ここだけに留まるには大きすぎる』 『村長……』 『行ってきなさい。そして、いつか土産話を聞かせておくれ』 『……うん! 行ってきます!』
シルフィは深く頭を下げ、リゼルたちの馬車に駆け寄った。
『お待たせ!』 『おう、待ってたぞ! 新入り!』
トムさんが御者台から手を振る。 馬車の幌の中は、トムさんが改造して座席を増やしてくれていた。
『よろしくね、シルフィちゃん』 『うん。……よろしく、リゼル』
馬車が動き出す。 村人たちの「頑張れよー!」「気をつけてなー!」という声援を背に、三人を乗せた馬車は峠を越えていった。
*
峠を越えると、空気は一変した。 キーンと張り詰めた冷気。 街道の脇には、溶け残った雪が目立ち始める。
『さっむ……!』
リゼルは再び毛布にくるまった。 シルフィは平気な顔で、窓の外を眺めている。
『平気なの?』 『うん。高いところは寒いから、慣れてる』 『うぅ、羨ましい……』
馬車の中では、トムさんが買っておいた携帯コンロでお湯を沸かし、温かいお茶を淹れてくれた。
『さて、ここからは「冬の国」ノースガルドだ』
トムさんが地図を広げる。
『一面の雪と氷の世界。……そして、あの伝説がある場所だ』 『伝説?』
シルフィが首を傾げる。 リゼルが答えた。
『「眠れる氷の竜」の伝説よ。この国の中心にある巨大な湖の底には、太古の竜が眠っていて、国の守り神として崇められているの』 『へぇ……竜かぁ。見てみたいかも』
シルフィが目を輝かせる。 だが、トムさんの表情は曇っていた。
『問題は、その竜が「ちゃんと眠っていてくれるか」だ。……王都の亀裂、風の谷の霧。もし、その影響が竜にまで及んでいたら……』 『目覚めて、暴れているかもしれない?』
リゼルがゴクリと唾を飲み込む。 竜。それは魔獣とは次元が違う、災害そのものだ。
『ま、行ってみなきゃ分からねぇさ。……ほら、見えてきたぞ』
馬車が長いトンネルのような岩場を抜けた。 その瞬間、視界全てが真っ白に染まった。
見渡す限りの雪原。 針葉樹の森は樹氷となり、遠くの山々は銀色に輝いている。 そして、その中心にあるはずの湖は――。
『……凍ってる』
シルフィが呟いた。 巨大な湖が、分厚い氷に覆われている。 だが、ただ凍っているだけではない。 氷の表面には、無数の「黒い筋」が血管のように走っていた。
ドクン。 リゼルのペンダントが、激しく跳ねた。 今までで一番強い反応。
『……いるわ』
リゼルはペンダントを握りしめ、凍った湖を見据えた。
『あの中に、とんでもない「傷」がある』
新たな舞台は、極寒の地。 風読みの少女を仲間に加えたリゼル一行を待ち受けるのは、神話級の試練だった。
(第54話・終)




