第53話 霧の魔獣と、見えない風
谷の最奥、切り立った崖の上に「風の神殿」はあった。 かつては白亜の美しい石柱が並んでいたであろう場所だが、今はドス黒い霧に包まれ、不気味な静寂が漂っている。
『……ここよ』
先導していたシルフィが足を止めた。 彼女は崖の端に立ち、スパナを構えながら神殿を睨みつけている。
『あの霧の中に、奴がいる。風を食べているの』 『風を食べる、か……。趣味の悪い野郎だ』
トムさんが手斧を握り直す。 リゼルもペンダントに手を添えた。 近づくにつれて、青い石の鼓動が早くなっている。 石が警告しているのだ。敵は、今まで戦った影とは少し違う、と。
『行こう』
三人は慎重に、霧の中へと足を踏み入れた。
*
神殿の内部は、視界がほとんど効かなかった。 濃密な灰色の霧が立ち込め、湿度が高く、肌にまとわりつくような不快感がある。
『気をつけて。……何か来る』
シルフィが鋭く囁いた瞬間だった。
ヒュオオオオオッ……!
前方から、湿った生暖かい風が吹き荒れた。 いや、ただの風ではない。 霧そのものが意思を持って襲いかかってきたのだ。
『うおっ!?』
トムさんが斧を振るう。 ブンッ! 鋭い一撃が霧を切り裂くが、手応えはない。 切られた霧はすぐに融合し、今度は巨大な蛇のような形になってトムさんに巻きつこうとした。
『物理攻撃が効かねぇぞ! こいつ、実体がねぇ!』 『下がりなさい!』
リゼルが前に出て、青い光を放つ。
『散れッ!』
パァァァッ! 光が霧を焼く。 しかし、霧は一瞬だけ薄くなるものの、すぐに周囲から新しい霧が供給され、元通りになってしまう。 王都の巨人のように「核」が見当たらないのだ。
『ダメです……! 的が大きすぎて、光が拡散しちゃう!』 『キリがないわ。この霧全体が、奴の体なのよ』
シルフィが悔しそうに言う。 霧の蛇は数を増し、四方八方からリゼルたちを包囲し始めた。 じわじわと酸素が奪われ、体力が吸い取られていく感覚。 このままでは、窒息するか、干からびるかだ。
『くそっ、どうすりゃいいんだ! どこかに急所があるはずだろ!』
トムさんが闇雲に斧を振り回すが、徒労に終わる。 リゼルも必死に目を凝らすが、どこを見ても同じ灰色の霧だ。
(落ち着いて。……よく見るのよ)
リゼルは深呼吸をしようとして、むせ返った。 その時。 横にいたシルフィが、ふと目を閉じた。
『……シルフィちゃん?』 『静かに』
彼女はスパナを下ろし、無防備に霧の中に立った。 そして、耳を澄ませ、肌で空気の流れを感じ取ろうとしている。
『……変だわ』 『え?』 『この霧、デタラメに動いているように見えるけど……「流れ」がある。全てが、ある一点から吹き出して、またそこへ戻っている』
シルフィがカッと目を開いた。 その鳶色の瞳が、霧の奥の一点を射抜く。
『あそこ! 右斜め上、神殿の梁のあたり! 風が渦巻いてる!』
リゼルはその方向を見た。 肉眼ではただの濃い霧にしか見えない。 けれど、風と共に生きてきたシルフィには見えるのだ。 空気の「歪み」が。
『信じるわ、シルフィちゃん!』
リゼルはペンダントを握りしめ、右手を掲げた。 狙いは見えない。 でも、仲間が指し示してくれている。
『トムさん、時間を稼いで!』 『おうよ! こっちだ化け物ぉぉぉ!』
トムさんが囮になって霧を引きつける。 その隙に、リゼルは全神経を集中させた。 大地の力を吸い上げ、一点に収束させる。
『そこね……!』
シルフィが叫ぶ。 『今ッ!!』
ズドォォォォン!!
リゼルの手から放たれた極太の光線が、シルフィの指示した空間を正確に貫いた。
『ギョエェェェェェッ!?』
何もないはずの空間から、ガラスが割れるような悲鳴が響いた。 光が命中した場所で、霧が激しく渦を巻き、凝縮していく。 そして、隠されていた「核」――拳大の黒い石が姿を現し、砕け散った。
シュゥゥゥゥゥ……。
核を失った霧は、急速に力を失い、ただの水蒸気となって消えていった。 視界が晴れる。 神殿の石床に、カランカランと黒い結晶が落ちる音が響いた。
そして――。
ゴオォォォォォォッ!!
神殿の奥から、堰を切ったように猛烈な風が吹き出した。 今まで塞き止められていた「風の谷」本来の風だ。
『きゃあッ!』 『うおっと!』
三人は強風に煽られ、踏ん張る。 だが、その風は湿っぽくも臭くもない。 冷たくて、乾いた、爽快な風だった。
『……風が、戻った』
シルフィが髪を押さえながら、谷底を見下ろした。 耳を澄ますと、遠くから重低音が響いてくる。
ギギ……ギィィィ……ゴウン、ゴウン……。
錆びついていた歯車が動き出す音。 そして、ヒュンヒュンと風を切る音。 一つ、また一つ。 眼下の村で、止まっていた風車たちが一斉に回り始めたのだ。
『回ってる……! 全部、回ってる!』
シルフィの顔が輝いた。 彼女は崖の端まで走り、両手を広げて叫んだ。
『おーい! 風が吹いたぞー!』
谷底の村からも、小さく歓声が上がっているのが聞こえた。 家々の窓が開き、人々が空を見上げている様子が目に浮かぶようだ。
『へっ、いい景色だ』
トムさんが額の汗を拭い、リゼルの肩を叩いた。
『やったな、船長。また一つ、世界を治したぜ』 『はい……! シルフィちゃんのおかげです』
リゼルは安堵の息を吐き、落ちていた黒い結晶を拾い上げた。 この谷を苦しめていた元凶も、今はただのエネルギーの塊だ。 これもまた、誰かを救う薬になる。
『ありがとう』
シルフィが振り返り、少し照れくさそうに言った。
『あんたたち、本当に凄かった。……疑ってごめん』 『ううん、気にしないで。それより……』
リゼルは笑顔で言った。
『約束のパン一年分、楽しみにしてるからね!』
風の谷に、三人の笑い声が響き渡った。 再始動した無数の風車が、新しい旅立ちを祝福するかのように、力強く回り続けていた。
(第53話・終)




