第51話 北への旅路と、聖女の野宿
ガタゴト、ガタゴト。 車輪が土を踏む音が、心地よいリズムを刻んでいる。
王都を出発してから三日。 リゼルたちを乗せた幌馬車は、北へと続く街道を順調に進んでいた。
窓から見える景色は、徐々に変わりつつある。 王都周辺の整備された平原から、少しずつ木々が高くなり、遠くには険しい山脈の影が見え隠れしていた。
『うーんっ! 空気が美味しいですね!』
リゼルは御者台に身を乗り出し、大きく伸びをした。 頬を撫でる風は冷たいが、澄んでいて気持ちがいい。
『おいおい、落ちるなよ。元聖女様が馬車から転げ落ちたなんて、笑い話にもならねぇぞ』
手綱を握るトムさんが、呆れたように横目で見てくる。
『大丈夫ですよ。私、これでも運動神経は悪くないんですから』 『へぇ? 村に来たばかりの頃、畑の畝で派手に転んで泥だらけになってたのは、どこの誰だっけな』 『あ、あれは……土が柔らかかったからです!』
リゼルは頬を膨らませた。 こんな軽口を叩きながら旅ができるなんて、一ヶ月前の自分には想像もできなかったことだ。
かつて「聖女」として地方巡礼をした時は、豪華な馬車に閉じ込められ、何重もの警護に囲まれていた。 窓を開けることさえ、「保安上の理由」で許されなかった。 だから、こうして風を直接感じられることが、何よりも嬉しかった。
『で、リゼル。石の調子はどうだ?』
トムさんが真面目なトーンに戻る。 リゼルは胸元のペンダントに触れた。
『……変わらず、北を指しています。時々、強く脈打つような感覚があって……まるで「早く来い」って呼ばれているみたいです』 『北か……。この街道を行けば「風の谷」を抜けて、国境の山脈に出る。そこから先は、冬の国だ』
トムさんは遠くの空を睨んだ。
『王都の亀裂は塞がらなかった。……もし、北にも同じような亀裂があるなら、もっとデカい化け物がいるかもしれねぇな』 『かもしれません。でも、行かなきゃ』
リゼルはペンダントを握りしめた。 この青い石が反応するのは、決まって「大地の悲鳴」が聞こえる場所だ。 そこに傷があるなら、行って治す。 それが、私の新しい仕事だ。
*
日が傾き、空が茜色に染まり始めた頃。 二人は街道沿いの広場で野営をすることにした。
『よし、今日はここにするか。川も近いしな』
トムさんが馬車を止め、手際よく馬を外して水をやる。 リゼルも荷台から飛び降りた。
『私、薪を拾ってきますね!』 『おう、頼む。……あまり遠くへ行くなよ』 『分かってますって! もう子供じゃないんですから』
リゼルは意気揚々と森の入り口へ向かった。 村での生活で、薪拾いくらいは覚えたつもりだ。 乾いた枝を選び、両手いっぱいに抱えて戻ってくる。
『トムさん、拾ってきましたよー! ……あ』
戻ってみると、そこには既に立派な焚き火が組まれ、鍋からはいい匂いが漂っていた。 トムさんが、川で釣った魚を串焼きにしているところだった。
『お帰り。早かったな』 『……トムさん、仕事が早すぎませんか?』 『野宿はスピードが命だからな。腹が減っては戦はできねぇ』
リゼルは拾ってきた枝を、しょんぼりと焚き火の脇に置いた。 役に立とうと張り切ったのに、トムさんのサバイバル能力が高すぎて、出る幕がない。
『そんな顔すんなって。お前にはお前の仕事があるだろ』
トムさんは焼きあがった魚を一本、リゼルに差し出した。
『ほら、食え。骨に気をつけろよ』 『……ありがとうございます』
熱々の魚にかぶりつく。 塩だけのシンプルな味付けだが、身がふわふわで驚くほど美味しい。
『おいしい……!』 『だろ? 自然の恵みってやつだ』
二人は焚き火を囲み、静かに食事をした。 パチパチと薪が爆ぜる音だけが響く。
『ねえ、トムさん』 『ん?』 『私……足手まといじゃないですか?』
リゼルは膝を抱えて呟いた。
『トムさんは何でもできるし、強いし……私、付いてきてもらったけど、本当はトムさん一人の方が楽なんじゃないかなって』 『……バーカ』
トムさんは呆れたように鼻を鳴らし、残りの骨を火に放り込んだ。
『俺ができるのは、飯を作ったり、力仕事をするくらいだ。でもな、リゼル』
彼は真剣な眼差しでリゼルを見た。
『「どっちへ進むか」を決めるのは、お前だ。俺は地図は読めるが、世界の痛みは分からねぇ。お前がいなきゃ、俺はただの迷子だ』 『……』 『それに、あのデカい影を倒した光。ありゃ俺には出せねぇ。……つまり、お前が舵取りで、俺がエンジンだ。どっちが欠けても、この馬車は走らねぇよ』
リゼルの胸が温かくなった。 焚き火のせいだけじゃない。
『……ふふ、そうですね。私、優秀な舵取りになれるように頑張ります』 『おう、頼むぜ船長』
その時だった。 ガサッ――。 茂みの奥から、何かが動く音がした。
『ッ!』
トムさんの空気が一瞬で変わる。 彼は瞬時に立ち上がり、手元にあった手斧を構えた。 リゼルもペンダントを握り、立ち上がる。
『……風向きが変わった』
トムさんが小声で言う。
『獣の臭いだ。……ただの獣じゃねぇぞ』
闇の奥から現れたのは、一匹の狼だった。 だが、その目は不気味に赤く光り、口からは黒い瘴気のよだれを垂らしている。 王都で見た影ほどではないが、明らかに「異変」の影響を受けた魔獣だ。
『グルルルッ……』 『ちっ、ここら辺まで汚染が広がってやがるか』
トムさんが前に出る。 だが、リゼルがそれを手で制した。
『トムさん、待って』 『リゼル?』 『殺さないで。……苦しがってる』
リゼルには分かった。 あの狼は、好きで暴れているのではない。 体内に溜まった瘴気に蝕まれ、痛みと恐怖で正気を失っているのだ。
『私が、やります』
リゼルは一歩前に出た。 青い石が淡く光る。 攻撃のための鋭い光ではない。 もっと優しく、包み込むような光。
『……浄化!』
リゼルが手をかざすと、青い波紋が狼に向かって飛んだ。 光が狼の体を通り抜ける。 すると、狼の体から黒い霧がシュゥッと抜け出て、空中に霧散した。
『キャウン……?』
狼の赤い目が、本来の金色に戻る。 狼はキョトンとした顔で自分の体を見回し、リゼルを一瞥すると、大人しく森の奥へと走り去っていった。
『……へぇ』
トムさんが斧を下ろし、感心したように口笛を吹いた。
『倒すんじゃなくて、治したのか。やるじゃねぇか』 『王都では出来なかったことですけど……あの結晶の研究のおかげで、光の使い方が少し分かってきました』
リゼルは微笑んだ。 敵を倒すだけじゃない。 瘴気に侵された生き物を、元の姿に戻す。 それが、「癒しと再生」の旅だ。
『やっぱすげぇよ、お前は』
トムさんはリゼルの頭をガシガシと撫でた。
『さあ、寝るぞ。明日は峠越えだ。忙しくなるぞ』 『はい! おやすみなさい、トムさん』
満天の星空の下。 リゼルは毛布にくるまり、目を閉じた。 王都の空にはまだ傷跡が残っているけれど、ここから見る星は綺麗だ。 いつか、世界中の空をこの星空のように美しくしてみせる。
焚き火の温もりを感じながら、リゼルは深い眠りについた。 二人の旅は、まだ始まったばかりである。
(第51話・終)




