表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女は退職したい  作者:
第1章 崩壊と逃避
5/11

第5話 聖水よりコーヒーが欲しい

 深夜三時の執務室。

 リゼルは机に突っ伏していた。

「眠い……」

 目の前には、処理しきれない申請書の山。

 インク壺は空になり、ペンを持つ手は痙攣している。

「あと……十件……」

 頭を上げようとするが、首が動かない。

 体が鉛のように重い。

「コーヒー……飲みたい……」

 ふと、そんなことを思った。

 聖女になる前、村の喫茶店で飲んだコーヒー。

 苦くて、でも温かくて。

「あれ……もう一度飲みたいな……」

 でも、聖堂にコーヒーはない。

 あるのは、聖水だけ。

「聖水なんて……美味しくない……」

 リゼルは苦笑した。

「神様、ごめんなさい。でも本当なんです」


 *

 その時、扉がノックされた。

「リゼル様、お夜食をお持ちしました」

 ミナの声。

「ありがとう……入って」

 ミナが盆を持って入ってくる。

 乗っているのは、パンとスープと――。

「これは……!」

 リゼルの目が輝いた。

「コーヒー……?」

「はい。街で買ってきました」

 ミナは優しく笑った。

「リゼル様、前にコーヒーが好きだって言ってましたよね」

「ミナ……!」

 リゼルは震える手でカップを取った。

 一口飲む。

「美味しい……」

 涙が溢れた。

「美味しい……本当に……」

「リゼル様……」

 ミナは心配そうに見ている。

「ありがとう、ミナ。これで……頑張れる」

「いえ、頑張らなくていいんです」

 ミナは真剣な顔で言った。

「もう休んでください。お願いです」

「でも……」

「明日、私が枢機卿様に掛け合います」

「ミナ……」

「だから、今夜はもう休んでください」

 ミナの目に涙が浮かんでいる。

「私……リゼル様が壊れていくのを見るのが、辛いんです……」


 *

 リゼルは、ミナの手を握った。

「ありがとう。でも、大丈夫」

「大丈夫じゃありません!」

 ミナが叫んだ。

「あなた、三日で五キロも痩せたんですよ! 目の下には隈ができて、手は震えて……!」

「……そんなに?」

「そんなにです!」

 ミナは泣き出した。

「お願いです……もう、自分を大切にしてください……」

 リゼルは何も言えなかった。

 ただ、コーヒーを啜る。

「美味しい……」

 それだけを呟いた。


 *

 翌朝、ミナは約束通り枢機卿の元へ向かった。

「枢機卿様、お話があります」

「何ですか、ミナ」

「リゼル様の業務量を減らしてください」

 ミナは真っ直ぐ枢機卿を見た。

「このままでは、彼女は壊れてしまいます」

「壊れる?」

 枢機卿は冷笑した。

「聖女が壊れるなどと、不遜なことを」

「不遜でも何でもありません! 事実です!」

 ミナの声が震える。

「彼女は人間です! 限界があるんです!」

「ミナ、君は勘違いしている」

 枢機卿は冷たく言った。

「聖女は人間ではありません。神の器です」

「そんな……」

「感情も、疲労も、全ては神の試練。乗り越えるべきものです」

 枢機卿は背を向けた。

「以上です。下がりなさい」

「枢機卿様!」

 ミナが叫ぶ。

 でも、枢機卿は振り返らなかった。


 *

 その日の午後。

 リゼルは王城での祝福式に参加していた。

「聖女様、王太子殿下の武運を祈願してください」

「はい……」

 リゼルは王太子の前に跪く。

 手を掲げようとした瞬間――。

「――っ」

 視界が揺れた。

「聖女様?」

「だ、大丈夫……です……」

 無理やり祈りを始める。

 でも、光が弱い。

「あれ……おかしい……」

 もっと力を込める。

 でも、光は弱いまま。

「どうしたのです、聖女様」

 王太子が不機嫌そうに言う。

「もっと強い祝福を」

「は、はい……!」

 リゼルは必死に力を絞り出した。

 額に汗が浮かぶ。

 手が震える。

「神よ……どうか……!」

 光が少しだけ強くなる。

「……これで、よろしいでしょうか」

「まあ、いいでしょう」

 王太子は不満そうに頷いた。

 リゼルは安堵の息を吐く。

 でも――。

「聖女様、次は王女様の祝福を」

「え……」

「それから、第二王子殿下、第三王女様……」

「全員……ですか……」

「当然です」

 貴族が冷たく言った。

「王族全員の祝福が、あなたの務めですから」


 *

 王城を出た時、リゼルはもう立っていられなかった。

「リゼル様!」

 ミナが駆け寄り、体を支える。

「大丈夫ですか!?」

「ごめん……ちょっと……めまいが……」

「無理しないでください! 今日はもう休んで――」

「だめ」

 リゼルは首を振った。

「午後の予定……まだ残ってる……」

「でも……!」

「大丈夫……私、聖女だから……」

 その言葉が、どこか空虚だった。


 *

 その夜、執務室に戻ったリゼルは、机の上に置かれたメモを見つけた。

『明日、商業組合の特別祝福式があります。参加者二百名。全員への個別祝福をお願いします』

「二百名……個別……」

 リゼルの手からメモが落ちた。

「無理……そんなの……絶対無理……」

 椅子に座り込む。

「私……本当に……機械なの……?」

 涙が零れた。

「神様……助けて……」

 でも、神は答えない。

「誰か……助けて……」

 誰も答えない。

「もう……やだ……」

 リゼルは机に突っ伏した。

 そして――。

「コーヒー……飲みたい……」

 そんなことを呟いて、意識を失った。


 *

 翌朝、ミナが執務室を訪れると、リゼルは机で眠っていた。

「リゼル様……」

 ミナは毛布をかけようとして――気づいた。

「これは……」

 リゼルの手元に、一枚の紙。

 そこには、震える文字でこう書かれていた。

『もう、無理です。助けてください』

 ミナの目に涙が溢れた。

「リゼル様……」

 でも、起こすことはできなかった。

 せめて、眠っている間だけは――。

 せめて、この時間だけは――。

「ゆっくり休んでください……」

 ミナは静かに部屋を出た。


 *

 昼過ぎ、リゼルは商業組合の祝福式に参加していた。

「聖女様、まずは組合長から――」

「はい……」

 リゼルは機械的に祝福を始める。

 一人、また一人。

 顔も名前も覚えられない。

 ただ、光を与えるだけ。

「次の方……」

「聖女様、ありがとうございます!」

「次の方……」

「感謝いたします!」

「次の方……」

 延々と続く。

 百人を超えた頃、リゼルの意識は朦朧としていた。

「次の……かた……」

 声が掠れる。

「聖女様、大丈夫ですか?」

「だい……じょうぶ……です……」

 嘘だった。

 全然大丈夫じゃない。

 でも――。

「つぎの……」

 倒れた。


 *

 気がつくと、医療室にいた。

「また……ここ……」

 リゼルは虚ろな目で呟く。

「何度目……だろう……」

 もう、数える気力もない。

「リゼル様!」

 ミナが飛び込んでくる。

「良かった……目を覚まして……!」

「ミナ……ごめん……また倒れちゃった……」

「謝らないでください! 悪いのはリゼル様じゃありません!」

 ミナは泣いていた。

「悪いのは……枢機卿です……この国です……!」

「ミナ……」

「お願いです……もう、逃げてください……」

 ミナは震える声で言った。

「このままじゃ……リゼル様は死んでしまいます……」


 *

 その言葉が、リゼルの心に突き刺さった。

「逃げる……」

 そうだ。

 逃げればいい。

「でも……どこに……」

「どこでもいいんです! ここより、どこでも!」

 ミナは必死だった。

「お願いです……自分を守ってください……」

 リゼルは、何も言えなかった。

 ただ――。

「考えさせて……」

 それだけを呟いた。


 *

 その夜、リゼルは一人で執務室にいた。

 机の上には、処理しきれない申請書。

 明日の予定表。

 そして――退職届の下書き。

「逃げる……か……」

 リゼルは退職届を手に取った。

「本当に……これでいいのかな……」

 迷いが胸を締め付ける。

 でも――。

「コーヒーが飲みたい」

 ふと、そう思った。

「美味しいコーヒーを、ゆっくり飲みたい」

「誰にも急かされずに」

「何も考えずに」

 涙が溢れた。

「それだけでいいのに……」

 リゼルは退職届にペンを走らせた。

「神様、ごめんなさい」

「でも、私……もう限界です」

 署名をする。

 日付を書く。

「これで……」

 退職届を机に置いた。

「さよなら……聖女」

 そして、リゼルは執務室を後にした。


(第5話・終)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ