第5話 聖水よりコーヒーが欲しい
深夜三時の執務室。
リゼルは机に突っ伏していた。
「眠い……」
目の前には、処理しきれない申請書の山。
インク壺は空になり、ペンを持つ手は痙攣している。
「あと……十件……」
頭を上げようとするが、首が動かない。
体が鉛のように重い。
「コーヒー……飲みたい……」
ふと、そんなことを思った。
聖女になる前、村の喫茶店で飲んだコーヒー。
苦くて、でも温かくて。
「あれ……もう一度飲みたいな……」
でも、聖堂にコーヒーはない。
あるのは、聖水だけ。
「聖水なんて……美味しくない……」
リゼルは苦笑した。
「神様、ごめんなさい。でも本当なんです」
*
その時、扉がノックされた。
「リゼル様、お夜食をお持ちしました」
ミナの声。
「ありがとう……入って」
ミナが盆を持って入ってくる。
乗っているのは、パンとスープと――。
「これは……!」
リゼルの目が輝いた。
「コーヒー……?」
「はい。街で買ってきました」
ミナは優しく笑った。
「リゼル様、前にコーヒーが好きだって言ってましたよね」
「ミナ……!」
リゼルは震える手でカップを取った。
一口飲む。
「美味しい……」
涙が溢れた。
「美味しい……本当に……」
「リゼル様……」
ミナは心配そうに見ている。
「ありがとう、ミナ。これで……頑張れる」
「いえ、頑張らなくていいんです」
ミナは真剣な顔で言った。
「もう休んでください。お願いです」
「でも……」
「明日、私が枢機卿様に掛け合います」
「ミナ……」
「だから、今夜はもう休んでください」
ミナの目に涙が浮かんでいる。
「私……リゼル様が壊れていくのを見るのが、辛いんです……」
*
リゼルは、ミナの手を握った。
「ありがとう。でも、大丈夫」
「大丈夫じゃありません!」
ミナが叫んだ。
「あなた、三日で五キロも痩せたんですよ! 目の下には隈ができて、手は震えて……!」
「……そんなに?」
「そんなにです!」
ミナは泣き出した。
「お願いです……もう、自分を大切にしてください……」
リゼルは何も言えなかった。
ただ、コーヒーを啜る。
「美味しい……」
それだけを呟いた。
*
翌朝、ミナは約束通り枢機卿の元へ向かった。
「枢機卿様、お話があります」
「何ですか、ミナ」
「リゼル様の業務量を減らしてください」
ミナは真っ直ぐ枢機卿を見た。
「このままでは、彼女は壊れてしまいます」
「壊れる?」
枢機卿は冷笑した。
「聖女が壊れるなどと、不遜なことを」
「不遜でも何でもありません! 事実です!」
ミナの声が震える。
「彼女は人間です! 限界があるんです!」
「ミナ、君は勘違いしている」
枢機卿は冷たく言った。
「聖女は人間ではありません。神の器です」
「そんな……」
「感情も、疲労も、全ては神の試練。乗り越えるべきものです」
枢機卿は背を向けた。
「以上です。下がりなさい」
「枢機卿様!」
ミナが叫ぶ。
でも、枢機卿は振り返らなかった。
*
その日の午後。
リゼルは王城での祝福式に参加していた。
「聖女様、王太子殿下の武運を祈願してください」
「はい……」
リゼルは王太子の前に跪く。
手を掲げようとした瞬間――。
「――っ」
視界が揺れた。
「聖女様?」
「だ、大丈夫……です……」
無理やり祈りを始める。
でも、光が弱い。
「あれ……おかしい……」
もっと力を込める。
でも、光は弱いまま。
「どうしたのです、聖女様」
王太子が不機嫌そうに言う。
「もっと強い祝福を」
「は、はい……!」
リゼルは必死に力を絞り出した。
額に汗が浮かぶ。
手が震える。
「神よ……どうか……!」
光が少しだけ強くなる。
「……これで、よろしいでしょうか」
「まあ、いいでしょう」
王太子は不満そうに頷いた。
リゼルは安堵の息を吐く。
でも――。
「聖女様、次は王女様の祝福を」
「え……」
「それから、第二王子殿下、第三王女様……」
「全員……ですか……」
「当然です」
貴族が冷たく言った。
「王族全員の祝福が、あなたの務めですから」
*
王城を出た時、リゼルはもう立っていられなかった。
「リゼル様!」
ミナが駆け寄り、体を支える。
「大丈夫ですか!?」
「ごめん……ちょっと……めまいが……」
「無理しないでください! 今日はもう休んで――」
「だめ」
リゼルは首を振った。
「午後の予定……まだ残ってる……」
「でも……!」
「大丈夫……私、聖女だから……」
その言葉が、どこか空虚だった。
*
その夜、執務室に戻ったリゼルは、机の上に置かれたメモを見つけた。
『明日、商業組合の特別祝福式があります。参加者二百名。全員への個別祝福をお願いします』
「二百名……個別……」
リゼルの手からメモが落ちた。
「無理……そんなの……絶対無理……」
椅子に座り込む。
「私……本当に……機械なの……?」
涙が零れた。
「神様……助けて……」
でも、神は答えない。
「誰か……助けて……」
誰も答えない。
「もう……やだ……」
リゼルは机に突っ伏した。
そして――。
「コーヒー……飲みたい……」
そんなことを呟いて、意識を失った。
*
翌朝、ミナが執務室を訪れると、リゼルは机で眠っていた。
「リゼル様……」
ミナは毛布をかけようとして――気づいた。
「これは……」
リゼルの手元に、一枚の紙。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
『もう、無理です。助けてください』
ミナの目に涙が溢れた。
「リゼル様……」
でも、起こすことはできなかった。
せめて、眠っている間だけは――。
せめて、この時間だけは――。
「ゆっくり休んでください……」
ミナは静かに部屋を出た。
*
昼過ぎ、リゼルは商業組合の祝福式に参加していた。
「聖女様、まずは組合長から――」
「はい……」
リゼルは機械的に祝福を始める。
一人、また一人。
顔も名前も覚えられない。
ただ、光を与えるだけ。
「次の方……」
「聖女様、ありがとうございます!」
「次の方……」
「感謝いたします!」
「次の方……」
延々と続く。
百人を超えた頃、リゼルの意識は朦朧としていた。
「次の……かた……」
声が掠れる。
「聖女様、大丈夫ですか?」
「だい……じょうぶ……です……」
嘘だった。
全然大丈夫じゃない。
でも――。
「つぎの……」
倒れた。
*
気がつくと、医療室にいた。
「また……ここ……」
リゼルは虚ろな目で呟く。
「何度目……だろう……」
もう、数える気力もない。
「リゼル様!」
ミナが飛び込んでくる。
「良かった……目を覚まして……!」
「ミナ……ごめん……また倒れちゃった……」
「謝らないでください! 悪いのはリゼル様じゃありません!」
ミナは泣いていた。
「悪いのは……枢機卿です……この国です……!」
「ミナ……」
「お願いです……もう、逃げてください……」
ミナは震える声で言った。
「このままじゃ……リゼル様は死んでしまいます……」
*
その言葉が、リゼルの心に突き刺さった。
「逃げる……」
そうだ。
逃げればいい。
「でも……どこに……」
「どこでもいいんです! ここより、どこでも!」
ミナは必死だった。
「お願いです……自分を守ってください……」
リゼルは、何も言えなかった。
ただ――。
「考えさせて……」
それだけを呟いた。
*
その夜、リゼルは一人で執務室にいた。
机の上には、処理しきれない申請書。
明日の予定表。
そして――退職届の下書き。
「逃げる……か……」
リゼルは退職届を手に取った。
「本当に……これでいいのかな……」
迷いが胸を締め付ける。
でも――。
「コーヒーが飲みたい」
ふと、そう思った。
「美味しいコーヒーを、ゆっくり飲みたい」
「誰にも急かされずに」
「何も考えずに」
涙が溢れた。
「それだけでいいのに……」
リゼルは退職届にペンを走らせた。
「神様、ごめんなさい」
「でも、私……もう限界です」
署名をする。
日付を書く。
「これで……」
退職届を机に置いた。
「さよなら……聖女」
そして、リゼルは執務室を後にした。
(第5話・終)