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第50話 旅立ちの朝、空への約束

王城の薬学研究所に、青白い光が満ちていた。  リゼルが持ち帰った、山のような黒い結晶。  それを魔導師たちが精製し、リゼルが最後の仕上げに青い石の光を当てる。


 すると、黒かった結晶は瞬く間に透明な液体へと変化し、小瓶の中でキラキラと輝き始めた。


『完成だ……!』


 宮廷医師団長が、震える声で叫んだ。


『これこそが、失われた生命力を補う秘薬、「ライフ・エリクサー(生命の滴)」!』


 それは、錬金術師たちが何百年も追い求めた幻の薬ではなく、リゼルと仲間たちが命がけで勝ち取った、現実の希望だった。


 *


 野戦病院と化した大広間。  リゼルたちは手分けをして、患者たちに薬を配った。  数滴を水に垂らし、飲ませるだけでいい。


 あの少年――リゼルの光で火傷をしてしまった男の子の枕元に、リゼルは立った。  彼はまだ、苦しそうに呼吸をしている。


『……僕、もう……死ぬの?』 『ううん。生きるのよ』


 リゼルは優しく微笑み、薬の入ったカップを差し出した。


『これを飲んで。みんなが頑張って作ってくれた、魔法のお薬よ』


 少年は、トムさんに支えられて上体を起こし、ゆっくりと水を飲んだ。  その直後。  少年の胸のあたりが、ポッと温かな光に包まれた。


『あ……』


 灰色だった肌に、さあっと血色が戻っていく。  カサカサだった頬に潤いが戻り、虚ろだった瞳に光が宿る。  まるで、早回しで花が咲くような劇的な変化だった。


『……痛くない』


 少年は自分の手を見た。  黒ずんでいた指先が、ピンク色に戻っている。


『体が……軽いよ。苦しくないよ』 『よかった……!』


 リゼルは少年を抱きしめた。  温かい。  冷たかった体に、確かな熱が戻っている。


『ママ!』


 隣のベッドで寝ていた母親も回復し、涙を流して我が子を抱きしめる。  広場のあちこちで、歓声と泣き声が上がった。  それは悲しみの涙ではなく、再生の喜びの涙だった。


『すげぇ……本当に治っちまった』


 トムさんが鼻をすすりながら、乱暴に目をこする。  アレクシスもまた、壁に寄りかかり、静かにその光景を見つめていた。  その瞳は潤んでいるようにも見えたが、王太子の威厳を保つためか、彼は天井を仰いだ。


『……勝ったな』 『はい。私たちの、完全勝利です』


 リゼルは誇らしげに胸を張った。  奇跡(魔法)に頼らず、人の知恵と勇気で掴み取った勝利。  それは、かつてリゼルが起こしていたどんな奇跡よりも、尊く、美しいものだった。


 *


 その夜。  王城では、前代未聞の「祝勝会」が開かれた。  煌びやかな舞踏会ではない。  長テーブルに並ぶのは、マサばあちゃん率いる「フェルナ村炊き出し隊」が作った、大皿料理の数々だ。


 ゴロゴロ野菜のシチュー、焼きたてのパン、丸焼きのチキン。  素朴だが、生命力に溢れた料理たち。


『さあさあ、遠慮はいらないよ! 働いた分だけ食うんだ!』


 マサばあちゃんが、おたまを持って仁王立ちする。  普段なら眉をひそめるような貴族たちも、今日ばかりは違った。  彼らもまた、死の恐怖を乗り越え、空腹を抱えていたのだ。


『う、美味い! なんだこのスープは!』 『パンがこんなに甘いとは……!』


 ドレスや礼服を着た貴族たちが、夢中になって料理を頬張っている。  その隣では、兵士や村人たちが肩を組んで歌っている。  身分も、立場も関係ない。  ただ「生き残った」という喜びを分かち合う、混沌としつつも温かい宴。


『へっ、あの堅物の大臣が、口の周りをシチューだらけにしてやがる』


 トムさんがジョッキを片手に笑う。


『いいじゃない。これが本来の姿よ』


 リゼルも果実水を飲みながら笑った。  崩壊したのは、古い権威だけではない。人と人を隔てていた壁もまた、この騒動で少しだけ壊れたのかもしれない。


『リゼル』


 アレクシスがやってきた。  手には二つのグラスを持っている。


『少し、風に当たらないか』


 *


 バルコニーに出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。  眼下には、復興の灯りがともる王都。  そして見上げれば――依然として口を開けている、空の亀裂。


『……やはり、塞がらぬか』


 アレクシスが、悔しそうに亀裂を見上げる。  巨人は倒した。影も消えた。  だが、あの傷跡は残ったままだ。


『はい。あそこから漏れ出す瘴気は止まりましたが、傷自体は……おそらく、自然には治りません』


 リゼルはペンダントを握った。  あの青い石が、リゼルに囁きかけている気がする。  「ここではない、どこかへ行け」と。


『私、行きます』


 リゼルは静かに言った。


『この亀裂を塞ぐ方法を探しに。……おそらく、世界のどこかに、この空を修復するための「鍵」があるはずです』 『……そう言うと思った』


 アレクシスは寂しげに微笑んだ。


『私も行きたいと言ったら、止めるか?』 『はい。止めます』


 リゼルは即答した。


『殿下には、やるべきことがあります。この国を、今度こそ「人の力」で立ち直らせること。……あの貴族たちをまとめ上げられるのは、泥にまみれて戦った貴方だけです』


 アレクシスは苦笑した。


『厳しいな、私の元聖女は』 『ふふ、元、ですよ』


 アレクシスはグラスを掲げた。


『分かった。私はここを守ろう。地を固め、民を守り、君が安心して帰って来られる場所を作る』 『お願いします』 『その代わり、空は頼んだ。……世界を救ってこい、リゼル』


 カチン。  グラスが軽く触れ合う音。  それは、二人の新しい契約の音だった。  主従ではなく、同じ志を持つ同志としての。


 *


 翌朝。  リゼルは、誰にも見送られることなく城を出ようとしていた。  大げさな別れは苦手だ。  静かに、風のように去りたかった。


 だが、城門には一台の馬車が停まっていた。  ほろ付きの、頑丈そうな旅馬車だ。  そして、御者台には見慣れた男が座っていた。


『……トムさん?』 『よう、遅いじゃねぇか』


 トムさんは眠そうにあくびをした。  荷台には、食料や水、キャンプ道具が満載されている。


『ど、どうしたんですか、その荷物』 『決まってんだろ。お供だ』 『えっ!? で、でも、村は……』 『村のことは親父に任せてきた。「先生を一人でやるな」って、マサばあちゃんからも厳命されてるんでな』


 トムさんはニカっと笑い、親指で荷台を指した。


『それに、世界を旅するんだろ? 大工仕事に力仕事、野宿の焚き火番……俺がいなきゃ、お前三日で野垂れ死ぬぞ?』 『う……否定できません』


 リゼルは苦笑いした。  確かに、トムさんがいてくれるなら百人力だ。


『それに……レオからの預かりものもある』


 トムさんは、小さな布袋をリゼルに投げた。  中には、村の花壇で採れた花の種が入っていた。


『「世界中の土に、お花を植えてきてね」だってよ』 『レオ……』


 リゼルは種を胸に抱いた。  この種は、希望だ。  これから行く先々で、荒廃した土地にこの種を撒こう。  それが、私の通った道になる。


『ありがとう、トムさん。……じゃあ、行きましょうか』 『おうよ! 目指すはどっちだ?』 『石が導いてくれています。……北へ』


 リゼルは馬車に乗り込んだ。  北の空。そこにはまだ見ぬ大地と、新たな「亀裂」が待っているかもしれない。  だが、もう怖くはない。


 かつて退職届を叩きつけた聖女は今、自分の意志で、世界を救うための旅に出る。  奇跡(残業)はもうしない。  これからは、冒険(定時なし)の日々だ。


『出発進行!』


 トムさんの掛け声とともに、馬車が動き出す。  背後の王都から、鐘の音が聞こえた。  それは、新しい時代の幕開けを告げる、祝福の音色だった。


 聖女リゼル・アルティナの、第二の人生。  世界修復の旅が、今、始まる。


(第1章『崩壊と逃避』完)

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