第44話 選択する自由 & 第45話 死の都、再び
伝令兵の悲痛な叫びが、夜の広場に溶けて消えた。 その後を支配したのは、重苦しい沈黙だった。
王都の空が割れた。 黒い影が降り注ぎ、都が死に瀕している。
その事実は、あまりにも非現実的で、しかし目の前にいる泥だらけの騎士の姿が、それが紛れもない真実であることを物語っていた。
『……ふざけるな』
沈黙を破ったのは、トムさんだった。 彼はリゼルを背に庇うようにして、伝令兵の前に立ちはだかった。
『散々こき使って、倒れるまで搾取して、最後は「用済み」みたいに扱ったくせに……今さら「助けてくれ」だ? どの面下げて言いに来やがった!』 『うっ……』 『リゼルはもう、あんたらの道具じゃねぇ! ここは彼女が自分で選んだ居場所なんだ。二度と、あの地獄みたいな場所に戻してたまるかよ!』
トムさんの怒号は、リゼルの心を代弁してくれていた。 村人たちも頷いている。 そうだ。私はもう、聖女ではない。 王都を守る義務も、誰かのために犠牲になる必要もない。 「嫌です」と断り、この平和な村で扉を閉ざしても、誰も私を責めないだろう。
伝令兵は、反論できなかった。 ただ、地面に手をついたまま、震える声で絞り出した。
『仰る通りです……。我々に、彼女に頼る資格などない。それは重々承知しています』
彼は顔を上げた。 その目には、涙が溜まっていた。
『ですが……王都には、まだ多くの民がいます。逃げ遅れた老人や、子供たちが……。聖騎士団は壊滅し、今は一般市民が鍬や棒を持って、必死に家族を守ろうとしています』 『……ッ』 『リゼル様。貴女を道具として見る者は、もう上層部にはおりません。ですが、もし貴女が「人」として、苦しむ彼らを憐れんでくださるなら……どうか、お力を』
騎士は再び頭を下げた。 その姿に、リゼルの脳裏にある光景が浮かんだ。
――大聖堂の裏庭で、いつも励ましてくれたミナ。 ――不器用ながらも、国を変えようとしていたアレクシス殿下。 ――そして、かつて私が治療した、下町のパン屋のおかみさんや、花売りの少女。
王都というシステムは憎い。 けれど、そこに生きる人々は、私と同じ「人間」だ。
『リゼル』
村長のじいちゃんが、静かに声をかけた。
『お主はどうしたい? 周りの声は気にするな。お主自身の心で決めるんじゃ』
リゼルは目を閉じた。 深呼吸をする。 肺に満ちるのは、冷たい夜の空気と、村の土の匂い。 ここは、私が初めて「自分で選んだ」場所。 そして今、目の前にはもう一つの選択肢がある。
(昔の私なら、選択肢なんてなかった)
「聖女だから」やらなければならない。 「期待されているから」応えなければならない。 そんな鎖に繋がれていた。
でも、今は違う。 私は自由だ。 行かない自由も、行く自由も、私が持っている。
リゼルはゆっくりと目を開けた。 そして、自分の左手を胸に当てた。 ポケットの中の、あの灰色の石が、微かに熱を取り戻したような気がした。
『……行きます』
静かな、しかしはっきりとした声だった。 トムさんが振り返る。
『リゼル、本気か!? また利用されるだけかもしれねぇんだぞ!』 『ええ、分かっています。でもトムさん』
リゼルは微笑んだ。 それは、聖女の慈愛の笑みではなく、一人の覚悟を決めた女性の笑顔だった。
『私は、「聖女」として戻るわけではありません。私は、リゼル・アルティナという一人の人間として、友達を助けに行きたいんです』 『友達……』 『ミナや、殿下や……王都には、私にとって大切な人たちがいます。その人たちが死の淵にいるのを見捨てることは、私にはできません』
それに、とリゼルは森の方角を見つめた。
『この異変は、おそらく世界中で繋がっています。王都の亀裂を放置すれば、いずれこの村にも、もっと大きな被害が及ぶかもしれません。自分の居場所を守るためにも、元凶を断ちに行かなきゃ』
トムさんは、しばらくリゼルの目をじっと見つめていた。 やがて、大きくため息をついて、頭をガシガシと掻いた。
『……あー、もう! そう言うと思ったぜ!』 『トムさん?』 『分かったよ。お前が行くって言うなら、止めねぇ。……ただし!』
トムさんは、リゼルの前に仁王立ちになった。
『条件がある』 『条件?』 『一人では行かせねぇ。俺も行く』
リゼルは目を丸くした。
『えっ!? でもトムさん、村の守りは……』 『村には、親父や若い衆がいる。光の柵の使い方も教えた。なんとかなる』
トムさんは、腰に下げた手斧を叩いた。
『お前はもう聖女じゃねぇんだろ? 魔法も使えねぇ、体力もねぇ、ただの学校の先生だ。そんな奴が戦場に行くのに、護衛がいなくてどうする』 『それは……そうですけど』 『それに、貴族の連中になんか言われたら、俺が追い払ってやる。「うちの先生に気安く触るな」ってな』
ニカっと笑うトムさんの顔を見て、リゼルの目頭が熱くなった。 ああ、私は本当に自由になったんだ。 孤独な聖女ではなく、背中を預けられる仲間がいる、一人の人間になれたんだ。
『……ありがとうございます。心強いです』 『おう、任せとけ!』
*
出発の準備は、迅速に行われた。 リゼルは旅装に着替え、最低限の荷物をまとめた。 そして、あの「石」をペンダント状に加工した革紐に入れ、首から下げた。 今はただの石ころだが、いざという時、また力を貸してくれると信じて。
村の入り口には、子供たちが集まっていた。 レオが泣きそうな顔をしている。
『先生……行っちゃうの?』 『ええ。でも、すぐに戻ってくるわ』
リゼルはしゃがみ込み、レオの目線に合わせた。
『約束する。王都の悪いものをやっつけたら、必ず帰ってくる。だから、それまでお花の水やり、頼めるかな?』 『……うん! 任せて!』 『ありがとう』
リゼルはレオの頭を撫で、立ち上がった。
『皆さんも、どうかご無事で。光の柵を絶やさないでください』 『ああ、こっちは心配するな!』 『リゼルちゃんも、気をつけてな!』
村人たちの温かい声援を背に、リゼルはトムさんが用意した荷馬車に乗り込んだ。 御者台にはトムさん。 そして、先導するのは伝令兵の騎士だ。
『リゼル様……感謝いたします』 『礼には及びません。さあ、急ぎましょう』
馬車が動き出す。 住み慣れた家が、学校が、遠ざかっていく。 しかし、今のリゼルに寂しさはなかった。 「帰る場所」があるということが、これほどまでに人を強くするのだと、初めて知ったからだ。
*
道中、リゼルは馬車の荷台で揺られながら、夜空を見上げていた。 王都へ近づくにつれて、星の光が弱まっていくのが分かる。 代わりに、空の向こう側が、不気味な紫色に染まっていた。
『ひどいな……』
御者台のトムさんが呟く。 遠くに見える王都の上空。 そこには、まるで空というキャンバスを引き裂いたような、巨大な「黒い傷跡」が口を開けていた。 そこから漏れ出す瘴気が、美しい王都を覆い尽くそうとしている。
『あれが、世界の傷……』
リゼルはペンダントを握りしめた。 以前の「祈りの力」はもうない。 神様はもう、助けてくれない。
けれど、怖くはなかった。 今の私には、大地から借りる力がある。 そして隣には、頼もしい仲間がいる。
『トムさん、スピードを上げられますか?』 『おうよ! しっかり捕まってろ!』
トムさんが手綱を振るう。 馬車は土煙を上げて加速した。
かつて逃げるように去った王都へ。 今度は、自らの意思で、その運命と対峙するために。
――第1章・完
【第2章】 癒しと再生 第45話 死の都、再び
王都の門は、半壊していた。 かつて多くの商人や旅人で賑わっていたメインストリートには、瓦礫が散乱し、至る所で火の手が上がっている。
『止まれ! 何者だ!』
門を守っていたボロボロの衛兵が、槍を構えて誰何した。 伝令兵が声を張り上げる。
『王命により、救援を連れて戻った! 道を開けろ!』 『きゅ、救援だと? たった一台の馬車で何ができる!』
衛兵が叫んだその時。 上空から、あの「黒い影」が急降下してきた。 人の上半身と鳥の翼を持つ、異形の靄だ。
『ヒィッ! 来た!』 『迎撃しろ! 矢を放て!』
数本の矢が放たれるが、影の体をすり抜けてしまう。 物理攻撃が効かない。 影はあざ笑うように衛兵に襲いかかろうとした。
『させない!』
馬車から飛び降りたリゼルが叫ぶ。 彼女はペンダントを掲げた。 王都の、死にかけた大地。 そこにもまだ、微かに残る「命」があるはずだ。
(応えて……!)
リゼルの呼びかけに、石が反応した。 だが、森の時のような爆発的な光ではない。 もっと鋭く、研ぎ澄まされた青い閃光。
シュンッ!
リゼルが手を振ると、光の刃が飛び、黒い影を両断した。
『ギャアアアアッ!』
影は霧散し、消滅する。 衛兵たちは、ポカンと口を開けてその光景を見ていた。
『な……今のは……』 『ま、魔法? いや、聖女様の光とは色が違うぞ……』
リゼルは乱れた髪を払い、凛とした声で言った。
『リゼル・アルティナ、ただいま戻りました。……状況を説明して』
その背中には、かつての「儚げな聖女」の面影はなかった。 そこにいたのは、戦う意志を持った、一人の戦士だった。
*
王城への道を進む中、惨状は目を覆うばかりだった。 建物は黒い靄に侵食され、あちこちで人々がうずくまっている。 彼らの体からは生気が失われ、皮膚が灰色に変色し始めていた。
『これは……生気を吸われているのか?』
トムさんが顔をしかめる。
『ええ。あの影たちは、人の生命力を餌にしているみたいです』
リゼルは唇を噛んだ。 私の光で影を倒すことはできる。 でも、吸い取られた生命力までは戻せない。 「癒し」の力が必要だ。 でも、今の私には治癒魔法はない。
(どうすれば……)
その時、前方の広場から、必死の叫び声が聞こえた。
『下がってください! ここは私が食い止めます!』
その声には聞き覚えがあった。 リゼルは身を乗り出した。
『ミナ……!?』
広場の中央で、数体の影に囲まれているのは、侍女のミナだった。 彼女は武器など持っていない。 ただ、逃げ遅れた子供を背に庇い、箒一本で立ち向かっていた。
『来るな! あっちに行けぇ!』
ミナが箒を振り回すが、影には通用しない。 巨大な影が、ミナを飲み込もうと鎌のような腕を振り上げた。
『ミナッ!!』
リゼルは馬車から飛び出した。 間に合うか? いや、間に合わせる!
リゼルは走りながら、大地に意識を向けた。 王都の石畳の下、深く眠る土の力。 それを吸い上げ、足に纏わせる。
ドンッ! 爆発的な加速。 人間離れした速度で、リゼルはミナと影の間に割って入った。
『――消えなさい!』
至近距離からの光の放出。 影が弾け飛び、その衝撃波が周囲の敵を一掃した。
『きゃあっ!』
ミナが尻餅をつく。 土煙が晴れると、そこには青い光を纏ったリゼルが立っていた。
『……リゼル、様……?』
ミナが信じられないという顔で呟く。 リゼルは振り返り、優しく微笑んだ。
『久しぶりね、ミナ。……少し、逞しくなったでしょう?』
『う、うわぁぁぁぁん!』
ミナはリゼルに抱きつき、泣きじゃくった。 その温かさを感じながら、リゼルは確信した。 戻ってきてよかった。 ここからが、私の本当の戦いだ。
(第45話・終)
第1章「崩壊と逃避」完結! そして、息つく暇もなく第2章「癒しと再生」へ突入しました。 リゼルが「守られる側」から「守る側」へ、そして「聖女」から「戦士(のような存在)」へと覚醒しました。




