第42話 代償と決断
視界が真っ白に染まる。 音も、時間さえも消し飛んだかのような、絶対的な光の中。
リゼルは感じていた。 手の中にある「青い石」から、奔流のようなエネルギーが流れ込んでくるのを。 それは、かつて大聖堂で祈りを捧げた時に降りてくる「上からの力(神の奇跡)」とは全く異質の感覚だった。
もっと荒々しく、重く、そして懐かしい。 足元の地面から、木々の根から、大気そのものから吸い上げられたような、世界そのものの脈動。
『いけぇぇぇぇぇッ!!』
リゼルは無意識に叫んでいた。 その叫びは、喉から出た声ではなく、魂の咆哮だった。
青い光の奔流が、黒い靄を、そしてあの異形の化け物を飲み込む。
『ギ、ギシャアァァ……ア、ア……』
化け物の断末魔が響いた。 だが、それも一瞬のこと。 圧倒的な光の質量に押し潰され、黒い影は霧散していく。 泥のような体は蒸発し、赤い亀裂のような目も、光の中に溶けて消滅した。
そして――。
カラン、と乾いた音がした。
光が収束する。 森に、再び静寂が戻ってきた。
『はぁ……はぁ……、はぁ……』
リゼルは膝から崩れ落ちた。 地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。 全身の力が抜け、指一本動かすのも億劫だった。
(な、なに……これ……)
凄まじい脱力感。 かつて、徹夜で治癒魔法を使い続けた時でさえ、ここまでの消耗はなかった。 まるで、自分の生命力そのものを燃料にして燃やし尽くしたような感覚。
『リゼル!』
トムさんが駆け寄ってくる。 彼は放心したように目を見開き、震える手でリゼルの肩を抱き起こした。
『おい、大丈夫か!? 今のは……一体……』 『トム……さん……』
リゼルは薄く目を開けた。 視界が霞む。 目の前には、ただ白く風化した地面が広がっているだけだ。 あの不気味な「空間の亀裂」も、化け物も、跡形もなく消えていた。
『消え……ました……ね……』 『ああ、消えた。お前が、消したんだ』
トムさんは、信じられないものを見る目でリゼルを見つめた。 そして、リゼルの手の中に握られたままの石に視線を落とす。
『その石……光が消えてるぞ』
言われて手元を見る。 あれほど熱を帯びていた青い石は、今は冷たく、灰色にくすんでいた。 表面には細かいヒビが無数に入り、今にも砕け散りそうだ。
『使い……すぎちゃった、かな……』
リゼルは弱々しく笑おうとして、ふっと意識が遠のいた。 トムさんが何かを叫んでいるのが聞こえたが、それは遠い水底の音のように響くだけだった。
*
次に目を覚ました時、リゼルは見慣れた天井を見上げていた。 自分の部屋だ。 窓の外はすでに暗い。夜になっているようだ。
『気がついたかい?』
ベッドの脇から、優しい声がした。 トムさんのお母さん、マサばあちゃんだ。 彼女は心配そうに覗き込みながら、濡れタオルでリゼルの額を拭いてくれた。
『ばあちゃん……私、どれくらい……』 『半日くらいだよ。トムが真っ青な顔をして、あんたを担いで帰ってきた時は、寿命が縮まるかと思ったよ』
マサばあちゃんはため息をついた。
『トムから聞いたよ。森で、化け物が出たって』 『……はい』 『あんたが、それを追い払ったってこともね』
リゼルは体を起こそうとしたが、まだ体が鉛のように重い。 マサばあちゃんが慌てて制する。
『無理するんじゃないよ。温かいスープがあるから、まずはそれを飲みな』
差し出されたスープからは、野菜の甘い香りがした。 一口飲むと、五臓六腑に染み渡るような温かさが広がる。 生きている、と実感した。
そこへ、ドアがノックされた。 入ってきたのは、トムさんと、村長のじいちゃんだった。
『リゼル、目が覚めたか』
トムさんは少しホッとした表情を見せたが、村長の顔は険しかった。
『体調はどうじゃ、リゼル』 『……まだ少しだるいですけど、大丈夫です。ご心配をおかけしました』 『いや、無事で何よりじゃ。……さて』
村長は椅子を引き寄せ、リゼルの枕元に座った。 その瞳には、真剣な光が宿っていた。
『トムから話は聞いた。森の木が一瞬で枯れ、空間が割れて、化け物が出たと』 『はい』 『そしてリゼル、お主が謎の力でそれを退けたとも聞いた。……あれは、「聖女の奇跡」なのか?』
その問いに、リゼルは首を横に振った。
『いいえ、違います。あれは……神様の力じゃありませんでした』
リゼルは、サイドテーブルに置かれた「変色した石」を見つめた。
『この石と……この土地の力が、反応したんです。私はただ、その引き金になっただけで……』 『ふむ……』
村長は長いあご髭を撫でた。
『わしらの知らぬ力が、この世界にはまだあるということか。……だが、問題はそこではない』
村長の声が低くなった。
『その化け物が、「また現れるかどうか」じゃ』
部屋の空気が張り詰めた。 トムさんが拳を握りしめる。
『あいつは、森の命を吸っていた。もしあんなのが村の中に現れたら……畑も、家畜も、俺たちも、一瞬で干からびちまう』 『……』
リゼルは想像した。 子供たちが、あの花のように一瞬で黒く崩れ落ちる光景を。 背筋が凍るような恐怖だった。
『村長、どうしますか。皆には……』 『隠しておけることではない。今夜、集会を開く。皆で決めねばならん』
村長は立ち上がった。
『逃げるか、戦うか。……リゼル、お主も動けるなら来てくれ。お主の言葉が必要じゃ』 『はい。行きます』
リゼルはスープを飲み干し、気力を振り絞ってベッドから降りた。 足元はふらついたが、トムさんが支えてくれた。
*
村の広場には、松明が焚かれ、村人全員が集まっていた。 トムさんが見た「死の森」の惨状と、化け物の話を聞き、皆の顔色は蒼白だった。 子供たちは親にしがみつき、大人たちも不安げに囁き合っている。
『そんな……逃げるって言ったって、どこへ行くんだ?』 『王都も混乱してるって話だろ?』 『でも、ここにいたら殺されるかもしれねぇんだぞ!』
恐怖が伝染し、広場がパニックになりかけた時だった。
『皆、聞いてください!』
リゼルの声が響いた。 ざわめきが静まり、全員の視線がリゼルに集まる。 彼女は村長の横に立ち、深呼吸をしてから口を開いた。
『私は……あの化け物を見ました。あれは、確かに恐ろしい存在です。命を奪い、全てを無に帰す力を持っています』
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。
『でも、倒せない相手ではありません』
リゼルは毅然と言った。
『私の力で追い払うことはできました。ただ……私の力だけでは、次は守り切れるか分かりません。それに、あの「空間の亀裂」は、ここだけに起きている現象ではないかもしれません』
もし、神の加護が消えた影響で世界中に「穴」が開いているとしたら。 逃げた先にも、同じ地獄が待っているかもしれない。
『じゃあ、どうすりゃいいんだよ!』
若い男が叫んだ。
『俺たちには魔法もねぇ、剣だってまともに振れねぇんだぞ!』
その悲痛な叫びに、リゼルは静かに答えた。
『魔法がなくても、私たちには「知恵」があります』
リゼルはトムさんを見た。トムさんが力強く頷く。
『トムさんと話しました。あの化け物は、実体を持つ前に「黒い靄」として現れます。そして、その靄は風に弱く、強い光を嫌がる動きを見せました』 『光……?』 『はい。だから、村の周りに「光の柵」を作るんです』
リゼルは地面に落ちていた枝を拾い、土に図を描き始めた。
『村を囲むように鏡を設置して、昼間は太陽の光を集める。夜は、松明とカンテラの油を工夫して、常に強い光を外に向ける。そして、見張り台を作って、森の異変をいち早く察知する仕組みを作るんです』
それは、聖女の結界に比べれば、あまりにも原始的で、泥臭い対策だった。 しかし、村人たちの目から、絶望の色が消え始めていた。 「何もしないで待つ」のではなく、「自分たちでできることがある」という事実が、彼らに力を与えたのだ。
『鏡なら……家の姿見があるわ!』 『油なら、菜種から絞ったやつが蔵に山ほどある!』 『見張り台なら、俺たち大工組で明日には作ってやるよ!』
次々と声が上がる。 恐怖が、やる気へと変わっていく瞬間だった。
『やるぞ!』
トムさんが拳を突き上げた。
『俺たちの村だ! 俺たちの手で守るんだ! 聖女様におんぶに抱っこは、もう卒業だろ!』 『おう!!』
村人たちの歓声が夜空に響いた。 リゼルはその様子を見ながら、胸が熱くなるのを感じた。
これこそが、本当の「奇跡」かもしれない。 神に祈るのではなく、人が人を信じ、団結して困難に立ち向かう力。 それこそが、崩壊していく世界に残された、最後の希望なのだと。
*
集会が終わった後、リゼルは一人、広場の隅に腰掛けていた。 体はまだ重いが、心は不思議と晴れやかだった。
『先生』
小さな声がして、レオが近づいてきた。 彼は申し訳なさそうに俯いている。
『ごめんなさい……僕が、あんな石を拾ってきたから……』 『レオ……』 『森が死んじゃったのも、先生が倒れたのも、僕のせいだ……』
リゼルは苦笑して、レオの手を優しく握った。
『違うわ、レオ。あなたは命の恩人よ』 『え……?』 『あの石がなかったら、私はあの化け物に勝てなかった。あなたが石を見つけてくれたおかげで、村は守られたの』
リゼルは、ポケットから変色した石を取り出した。 今はただの灰色の石塊だ。
『この石は、きっと「警告」だったのよ。「備えなさい」って、森が教えてくれたの。だから、胸を張って』 『……うん!』
レオはようやく顔を上げ、涙目で笑った。 その笑顔を見て、リゼルは心の中で誓った。
(私は、この笑顔を守る)
聖女としてではなく。 一人の教師として、一人の人間として。 この「崩壊」が始まった世界で、最後まで足掻いてみせる。
夜空を見上げると、星々が不気味なほど鮮明に輝いていた。 その星の配置が、以前とは少しだけズレていることに気づいたのは、元聖女であるリゼルだけだったかもしれない。 世界の歪みは、確実に広がっている。 第1章の幕引きは近い。そしてそれは、より過酷な第2章への入り口でもあった。
(第42話・終)
村人たちの結束と、「人の力で対抗する」というテーマを強調しました。 ラストで「星の配置のズレ」という不穏な要素を入れ、世界規模の異変を示唆しています。




