第41話 青い石と森の異変
その夜、リゼルは机の上に置いた「青い石」をじっと見つめていた。
レオが森で拾ってきた、透き通るような青色の石。 ランプの灯りを受けて淡く輝くその姿は、ただの鉱石には見えなかった。まるで、石そのものが呼吸しているかのように、微かな明滅を繰り返しているのだ。
『……温かい』
指先で触れると、じんわりとした熱が伝わってくる。 それは懐炉のような物理的な熱さではなく、もっと内側、心臓の鼓動に直接響くような、不思議な温もりだった。
かつて聖女として、数えきれないほどの宝石や聖遺物に触れてきたリゼルだが、こんな感覚は初めてだった。 神聖な気配とも違う。魔力とも少し違う。 もっと原始的で、土や水に近い、自然そのものの息吹のような……。
『不思議な石ね……』
リゼルは石を木箱にしまい、ベッドに横になった。 窓の外では、風が木々を揺らしている。 いつもの穏やかな村の夜のはずなのに、なぜか今夜は、その風の音がどこか悲鳴のように聞こえてならなかった。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような不安が残る。 王都との確執は終わり、自由を手に入れたはずなのに。 この石がもたらした「予感」は、リゼルの安眠を少しだけ妨げた。
*
翌朝、リゼルが学校へ行くと、子供たちはいつも通り元気だった。
『先生、おはよう!』 『おはようございます』
挨拶を交わし、教室の窓を開ける。 爽やかな朝の空気が流れ込んでくるが、リゼルはふと鼻を動かした。
(……何の匂いかしら?)
風に乗って、微かに焦げ臭いような、あるいは何かが腐ったような、異質な臭いが漂ってきたのだ。 畑で野焼きでもしているのだろうか。 しかし、今は収穫の時期でも、土作りの時期でもない。
『先生、どうしたの?』
少女の一人が、不思議そうにリゼルの顔を覗き込む。
『ううん、なんでもないわ。さあ、席について』
リゼルは気を取り直し、教卓に立った。 今日の授業は「植物の観察」だ。 教室の裏にある花壇で、それぞれの育てている花の様子をスケッチする予定だった。
『わーい! 外だ!』 『僕の花、もう蕾がついたよ!』
子供たちは歓声を上げて教室を飛び出していく。 リゼルも画用紙を持って後に続いた。
花壇には、色とりどりの花が咲き誇っていた。 リゼルと子供たちが、土作りから始めて大切に育ててきた花たちだ。 奇跡の力ではなく、水と太陽と、日々の世話で育った命。その力強さは、いつ見てもリゼルの心を勇気づけてくれる。
ところが――。
『あれ……?』
一人の少年が、花壇の隅で声を上げた。 レオだ。
『どうしたの、レオ?』 『先生、見て。ここの花だけ、なんか変なんだ』
リゼルが駆け寄ると、花壇の端に植えられた白い花が、茶色く変色して萎れていた。 ただ枯れただけではない。 茎は黒ずみ、葉は灰のようにカサカサになり、触れるとボロボロと崩れ落ちてしまった。
『……病気かしら?』
リゼルは眉をひそめた。 野菜や花には病気がつきものだ。だが、昨日の夕方に見回った時には、何の問題もなかったはずだ。 たった一晩で、ここまで完全に生命力を失うなんてことがあるだろうか。
『先生、こっちも!』 『あ、こっちの草も変だよ!』
他の子供たちも次々と声を上げる。 よく見ると、花壇の周辺の雑草までもが、同じように黒く変色し、灰のように崩れていた。 まるで、そこだけ「死」が伝染したかのように。
『みんな、触らないで! 離れて!』
リゼルの鋭い声に、子供たちがビクッとして後ずさる。 これは、ただの病気じゃない。 リゼルは黒ずんだ土に手をかざした。 聖女としての力はもう使えないが、長年「奇跡」を扱ってきた感覚が、警鐘を鳴らしている。
――ここには、何も「ない」。
土の栄養も、水分も、微生物の営みも。 本来あるべき自然のエネルギーが、根こそぎ奪われているような感覚。 真空のような、虚無の気配。
『……枯渇、してる?』
その時、リゼルのポケットの中で、あの「青い石」が熱を帯びた。 ドクン、と強く脈打つような衝撃。 驚いてポケットを押さえると、石の熱は、花壇の「死んだ土」と共鳴しているように感じられた。
『リゼル!』
校舎の方から、トムさんの緊迫した声が響いた。 振り返ると、彼は顔色を変えて走ってくるところだった。
『トムさん、どうしたんですか?』 『森だ! 森が大変なことになってる!』
トムさんは息を切らせながら、村の北側に広がる森を指差した。
『朝、薪を拾いに行ったら……木が、一晩で全滅してやがった』 『全滅……!?』 『ああ。真っ白になって、立ってるだけで崩れちまうんだ。今まで見たこともねぇ光景だ』
リゼルの背筋に冷たいものが走る。 花壇の異変。そして森の異変。 それは偶然ではない。何かが、始まっている。
『……子供たちを家へ帰します。私も、森へ行きます』 『お前もか? だが、危険かもしれんぞ』 『だからこそ、確かめなきゃいけないんです。これが「何」なのか』
リゼルは拳を握りしめた。 自由を手に入れ、平和な日常を手に入れた。 けれど、世界そのものが悲鳴を上げているのなら、耳を塞いでいるわけにはいかない。
*
子供たちを家に帰した後、リゼルとトムさんは森へ向かった。 村はずれまでは、いつもの豊かな緑が続いていた。 しかし、森の入り口に差し掛かった瞬間、景色は一変した。
『これは……』
リゼルは言葉を失った。 そこには、「色」がなかった。 青々としていたはずの木々は、骨のように白く脱色し、葉は一枚も残っていない。 下草は灰色の粉となり、地面はひび割れている。 鳥の声も、虫の音もしない。 完全な静寂と、死の世界が広がっていた。
『ひどい……』
リゼルは、白骨化した木に触れた。 指先で押しただけで、大木が砂のように崩れ落ちる。 中身がスカスカになっているのだ。
『これじゃあ、薪にもなりゃしねぇ』
トムさんが、足元の灰を蹴りながら悔しそうに言った。
『昨日までは、確かに緑だったんだぞ。キノコだって生えてたし、ウサギだって走ってた。それが一晩でこれかよ……』 『……吸い取られたんです』 『あ?』 『この森の「命」そのものが、何かに吸い尽くされたような……そんな感じがします』
リゼルは、森の奥を見つめた。 灰色の世界は、奥へ行くほど濃くなっている。 そして、その中心と思われる方向から、奇妙な「歪み」のような気配を感じた。
『トムさん、この先は……』 『レオがよく遊んでる広場の方だな。……まてよ』
トムさんがハッとした顔をする。
『レオが昨日、「変な石を拾った」って言ってた場所も、確かあの辺りだ』 『!』
リゼルのポケットの中で、青い石が再び熱くなった。 今度は、火傷しそうなほどの熱量だ。 石が、呼んでいる。あるいは、帰ろうとしているのか。
『行ってみましょう』 『おい、大丈夫か? 変なガスでも出てるかもしれねぇぞ』 『口元を布で覆いましょう。でも、原因を突き止めないと、この現象は村まで広がってくるかもしれません』
花壇の異変を思い出し、リゼルは身震いした。 もし、あの現象が畑や、村人たちにまで及んだら――。 奇跡なしで生きることを選んだ村が、理不尽な力によって滅ぼされてしまう。 それだけは、絶対に阻止しなければならない。
『……分かった。俺が先に行く。何かあったら、すぐ逃げるぞ』 『はい』
二人は、灰の積もる死の森を慎重に進んだ。 足を踏み出すたびに、カサッ、カサッ、と乾いた音が響く。 かつて木漏れ日が揺れていた美しい森の面影は、どこにもない。
やがて、少し開けた場所に出た。 そこは、かつて小さな泉があった場所だ。 しかし今、泉の水は干上がり、底の泥までもが白い砂に変わっていた。
そして、その中央に――「それ」はあった。
『な……なんだ、あれは』
トムさんが掠れた声で呟く。 干上がった泉の中心に、空間が「割れて」いた。 黒い亀裂のようなものが空中に走り、そこからドス黒い靄のようなものが絶えず染み出している。 その靄が触れた端から、地面が白く変色していくのが見えた。
『世界の……傷……?』
リゼルの脳裏に、以前聞いた神様の言葉が蘇る。
『奇跡に頼りすぎた世界は、いずれ崩れる運命だった』 『君が辞めたことで、それが早まっただけ』
これが、その「崩壊」の正体なのか。 奇跡という人工呼吸器を外された世界が、自らの力で呼吸できずに、窒息しかけている姿。
『リゼル、離れろ! あれはヤバい!』
トムさんがリゼルの腕を引こうとした時だった。 黒い亀裂が、脈打つように大きく開いた。 そして、その中から――。
『ギ……ギギ……』
ガラスを爪で引っ掻くような、不快な音が響く。 靄が凝縮し、形を成していく。 それは不定形の泥のようでありながら、獣のような四肢を持ち、顔のない頭部には、赤く光る亀裂のような目が一つだけ開いていた。
魔物。 けれど、リゼルが知っているどの魔物とも違う。 命の気配がしない。ただ「食らう」ためだけに存在する、虚無の化身。
『嘘だろ……』
トムさんが後ずさる。 化け物は、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。 その赤い目が、リゼルのポケット――青い石の光を捉えた瞬間、化け物の体が大きく震えた。
『ギシャアアアアアアッ!!』
鼓膜をつんざく咆哮とともに、化け物が跳躍した。 狙いは、リゼル。
『リゼル!!』
トムさんが咄嗟に前に出て、持っていた斧を構える。 しかし、相手は実体があるのかどうかも分からない影の怪物だ。 斧が当たるのか? そもそも、人の力で倒せるのか?
――奇跡なしで生きる。 そう決めたのに。 こんな、理不尽な暴力の前では、人の力はあまりにも無力なのか。
(いいえ!)
リゼルは強く念じた。 ポケットから、熱を放つ青い石を取り出す。 使い方は分からない。 でも、この石がこの森の「何か」だったなら。 奪われた命の欠片だったなら。
『お願い……力を貸して! この森を守って!』
リゼルは祈った。 神にではなく、この大地に。 この石に宿る、名もなき命の光に。
瞬間。 青い石が、爆発的な輝きを放った。
『――ッ!?』
青白い閃光が森を染め上げ、迫りくる黒い影を呑み込んだ。
(第41話・終)
第41話を読んで頂きありがとうございます! 平穏な日常から一転、世界規模の「崩壊」の予兆が現れ始めました。 奇跡に頼らないと決めたリゼルたちが、この超常的な現象にどう立ち向かうのか、第2章への架け橋となる重要なエピソードです。




