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第40話 崩れゆく権威と、朝の紅茶

その朝、リゼルが目を覚ました時、世界は驚くほど静かだった。


 いつもなら、夜明けとともに聞こえるはずの小鳥のさえずりさえ、遠慮がちに聞こえる。  カーテンの隙間から差し込む光は、昨日までと同じはずなのに、どこか違って見えた。  それはきっと、私の心が知っているからだ。  もう、逃げなくていいのだと。  怯えながら夜を過ごし、物音ひとつに心臓を縮み上がらせる日々は、終わったのだと。


「……終わったんだ」


 ベッドの上で、小さく呟いてみる。  声に出すと、実感がじわりと胸に広がった。  指先が微かに震える。恐怖ではない。これは、安堵の震えだ。  私はゆっくりと体を起こし、窓を開けた。


 冷たく澄んだ朝の空気が、部屋いっぱいに流れ込んでくる。  村の入り口の方角を見ると、昨日到着した正規軍の陣営が動いているのが見えた。銀色の鎧が朝日に反射して輝いている。  それとは対照的に、縄で縛られ、項垂れて歩く聖騎士たちの姿があった。  かつては「神の剣」と呼ばれ、私も含めて誰もが畏怖した彼らが、今はただの罪人として連行されていく。  その光景は、「権威」というものがどれほど脆く、儚いものかを物語っていた。


 *


 着替えを済ませて外に出ると、既にトムさんが起きていた。  彼は腕組みをして、撤収していく軍を見送っている。


「おはようございます、トムさん」 「おう、リゼルか。早いな」


 トムさんは振り返り、いつもの無骨な笑顔を見せたが、その目には少し複雑な色が浮かんでいた。


「あいつら、本当に行っちまうんだな」 「はい。王都で裁きを受けるそうです」 「ふん……まあ、自業自得ってやつか。村の畑を荒らしたんだ、たっぷりと絞られてくりゃいい」


 悪態をつきながらも、トムさんの声には安堵が混じっていた。  彼もまた、私を守るために体を張り、恐怖と戦ってくれていたのだ。  その事実に、改めて感謝の念が湧き上がる。


「あの、トムさん」 「ん?」 「本当に……ありがとうございました。私、この村に来て、本当によかったです」


 深々と頭を下げると、トムさんは照れくさそうに鼻をこすった。


「よせよ。俺たちは、仲間を守っただけだ。それに……」


 彼は言葉を切り、少し真面目な顔つきになった。


「お前が教えてくれたんだ。『自分たちの手で守る』ってことをな。奇跡に頼らなくても、俺たちは鍬を持って戦える。それを証明できたのが、何よりの収穫だ」


 その言葉は、どんな勲章よりも私の胸に響いた。


 そこへ、正規軍の隊長が歩み寄ってきた。  彼は兜を小脇に抱え、姿勢を正して敬礼した。


『リゼル様。撤収の準備が整いました』 『お疲れ様です。……あの、彼らはどうなるのでしょうか』


 視線の先には、馬車に乗せられる聖騎士団長の姿があった。  昨日の傲慢な態度はどこへやら、今は魂が抜けたように虚ろな目をしている。


『国家反逆罪、及び王命不服従。極刑は免れないでしょう』


 隊長の声は冷徹だった。


『彼らを唆した貴族たちも同様です。王都に戻り次第、大規模な粛清が始まります』 『粛清……』


 重い響きだった。  私の自由と引き換えに、多くの血が流れるかもしれない。  そのことに胸を痛める私を見て、隊長は表情を和らげた。


『リゼル様。どうかご自分を責めないでください。これは、腐敗した膿を出し切るための、必要な痛みです』 『……はい』 『陛下は仰いました。「新しい時代には、新しい礎が必要だ」と。あなたは、そのきっかけを作ったに過ぎません』


 隊長はもう一度敬礼すると、馬に跨った。


『どうか、この村で健やかにお過ごしください。今の王都よりも、ここはずっと平和で、美しい』 『ありがとうございます。あなたも、どうかご無事で』


 蹄の音が遠ざかっていく。  土煙が晴れた後には、いつもの静かなフェルナ村の風景だけが残っていた。  けれど、空気の味は昨日とは決定的に違っていた。  それは、本当の意味での「自由」の味だった。


 *


 一方、王都――。  重厚な扉が開かれ、謁見の間は凍りつくような緊張感に包まれていた。  玉座には国王が鎮座し、その横には王太子アレクシスが氷のような冷たい瞳で階下を見下ろしている。


 床に額を擦り付けているのは、数名の高位貴族たちだった。  皆、豪華な衣装を着ているが、その背中は小刻みに震え、脂汗が床に落ちている。


『へ、陛下……誤解でございます! 我々はただ、国の安寧を……!』


 恰幅の良い侯爵が、裏返った声で弁明する。


『聖女様をお連れすれば、奇跡が戻り、民の不安も解消されると……そう考えたまでのこと! 決して私利私欲などでは……!』 『黙れ』


 アレクシスの一言が、侯爵の言葉を断ち切った。  静かな、しかし絶対的な威圧感を持った声だった。


『国の安寧だと? よくも抜け抜けと。貴様らが守りたかったのは、国ではなく、自らの既得権益だろう』


 アレクシスは一歩前へ出た。  手には、束ねられた羊皮紙が握られている。


『ここには、貴様らが裏で行っていた不正の数々が記されている。奇跡の恩恵を独占し、民に高値で売りつけ、私腹を肥やしていた証拠だ』 『な、何を……でっち上げです! そのような……!』 『まだシラを切るか。聖騎士団を動かした資金の流れも、全て割れているのだぞ』


 羊皮紙が床に投げつけられた。  散らばった紙には、彼らの署名入りの命令書や、裏帳簿の写しが生々しく記されていた。  それを見た貴族たちの顔から、血の気が引いていく。


『……聖女は、道具ではない』


 国王が、重々しく口を開いた。


『彼女は一人の人間として、苦しみ、悩み、そして自らの足で歩むことを選んだ。それを力で捻じ伏せ、再び鎖に繋ごうとするその性根……余は、許し難い』 『陛下、慈悲を……! どうか慈悲をぉぉぉ!』 『慈悲などない。貴様らのような古き害悪がいる限り、この国は前に進めんのだ』


 王の手が上がった。  それを合図に、控えていた近衛兵たちが貴族たちを取り押さえる。


『連れて行け。地下牢で、己の罪と向き合うがいい』 『嫌だ! 私は侯爵だぞ! 離せ! 離せぇぇぇ!』


 見苦しい絶叫が、高い天井に木霊する。  引きずられていく彼らの姿は、かつての栄華など見る影もなかった。  それはまさに、一つの時代が音を立てて崩れ落ちる瞬間だった。


 その様子を、柱の陰から枢機卿エルヴィンが見つめていた。  彼もまた、かつては「聖女を道具」として扱っていた一人だ。  もし、ミナの言葉がなければ。もし、リゼルの苦しみに気づくのがもう少し遅ければ。  あそこで引きずられているのは、自分だったかもしれない。


「……枢機卿様」


 隣に控えるミナが、心配そうに声をかける。  エルヴィンは深く息を吐き、自戒を込めて答えた。


「私は……運が良かっただけだ。彼らと私の間に、どれほどの差があったというのだ」 「ですが、あなたは変わりました。自らの過ちを認め、変わることを選んだのです」


 ミナの言葉は、厳しくも温かかった。


「それができる人は、そう多くはありません」 「……そう言ってもらえると、救われるよ」


 エルヴィンは苦笑した。  王都の空は、どんよりとした雲に覆われている。  しかし、腐敗した貴族たちが一掃されたことで、その淀んだ空気は少しだけ澄んだように感じられた。  これからは、奇跡に頼らない、人の力による国作りが本格的に始まる。  その道のりは険しいが、決して暗くはないはずだ。


 *


 フェルナ村の午後は、穏やかな日差しに包まれていた。  リゼルは学校の黒板をきれいに拭き上げ、チョークを手に取った。  子供たちが、期待に満ちた目で席に着いている。  昨日までの不安そうな顔はもうない。  先生がどこにも行かないと分かった安心感が、教室全体を明るくしていた。


「さて、今日は少し難しい言葉を勉強しましょうか」


 リゼルは、白く滑らかな文字で黒板に書いた。


『自由と責任』


「先生、それなあに?」 「じゆうと……せきにん?」


 子供たちが首を傾げる。  リゼルは教卓に手をつき、一人一人の顔を見渡しながら優しく語りかけた。


「自由っていうのはね、誰にも命令されずに、自分の好きなことを選べるってこと。昨日の私みたいに、どこで暮らすか、何をするか、自分で決められることよ」 「うん、わかる!」 「僕も自由に遊びたい!」


 無邪気な声が上がる。  リゼルは微笑みながら、続けた。


「でもね、自由にはセットになっているものがあるの。それが『責任』よ」 「せきにん?」 「そう。自分で決めたことの結果は、自分で引き受けるってこと。例えば、遊ぶことを選んだら、勉強が遅れても文句は言えない。お菓子を食べ過ぎてお腹が痛くなっても、誰かのせいにしちゃいけない」


 子供たちは、少し考え込んだ。  まだ難しいかもしれない。  けれど、リゼル自身が聖女を辞めて、この村で生きることを選んだ時に、一番強く感じたことだった。  奇跡を起こさないという選択。それによって生じる混乱や批判。  そのすべてを受け止める覚悟がなければ、本当の自由は手に入らない。


「先生はね、この村で生きることを『自由』に選んだわ。だから、ここで起こるすべてのことに『責任』を持って、みんなと一緒に頑張りたいの」


 一人の少女が、手を挙げた。


「じゃあ、私も先生と一緒に頑張るのも、私の『自由』?」 「ええ、そうよ」 「じゃあ、私は先生の授業をちゃんと聞く『責任』を持つ!」


 その言葉に、リゼルは思わず吹き出してしまった。


「ふふっ、ありがとう。それはとっても素敵な責任ね」


 教室に笑い声が溢れる。  外からは、畑仕事をする村人たちの掛け声や、風に揺れる木々の音が聞こえてくる。  かつて大聖堂の分厚い壁の中で、静寂と孤独に包まれていた頃には、決して聞こえなかった「生きた音」だ。


 授業の後、リゼルは一人で校舎の裏手に回った。  そこには、子供たちと一緒に植えた花壇がある。  小さな芽が、土から顔を出していた。  まだ何の花かわからない、小さな緑の命。


「……大きくなあれ」


 リゼルはしゃがみ込み、指先で優しく土を撫でた。  祈りの光は出ない。  奇跡の力も流れない。  ただの、少し土で汚れた指先だ。  でも、この指で水をやり、雑草を抜き、陽の光を浴びせれば、この芽は確実に育つ。  それは神の力ではなく、私の時間が生み出す「確かな結果」だ。


「リゼルお姉ちゃん!」


 ふと、レオの声がした。  振り返ると、彼が息を切らして走ってくる。手には何か握りしめられている。


「どうしたの、レオ? そんなに急いで」 「これ! 森で見つけたんだ!」


 彼が差し出したのは、見たこともない奇妙な石だった。  淡い青色をしていて、どこか透き通っているようにも見える。  ただの石ころではない、不思議な気配が漂っていた。


「綺麗ね……でも、これ何かしら?」 「わかんない。でも、なんか温かいんだ。リゼルお姉ちゃんにあげる!」 「え、いいの?」 「うん! お守りにして!」


 レオはニカっと笑うと、また風のように去っていった。  手の中に残された青い石。  握りしめると、確かに微かな温もりを感じる。  まるで、鼓動のようなリズムで。


「……不思議な石」


 リゼルはその石をポケットにしまい、空を見上げた。  嵐は去った。  しかし、この世界にはまだ、私の知らない何かが眠っているような気がした。  崩れ去った古い時代の瓦礫の下から、新しい何かが芽吹こうとしている予感。  それが希望なのか、それとも新たな波乱なのか。  今はまだ、誰にもわからない。


(第40話・終)

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