第4話 祈りとノルマ表
――三ヶ月前の聖堂。
リゼルは執務室で、一枚の書類を見つめていた。
『奇跡実行管理表』
そこには、こう記されている。
日付|奇跡の種類|件数|達成率
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1日 |病気治癒 |15/20|75%
2日 |豊穣祝福 | 8/10|80%
3日 |浄化儀式 | 5/5 |100%
────────────────
「これ……何……?」
リゼルの手が震えた。
「奇跡を……数値化してる……?」
扉が開き、枢機卿が入ってくる。
「聖女様、先月の奇跡達成率が下がっています」
「達成率……?」
「ええ。目標件数に対して、実行件数が足りません」
枢機卿は冷たく言った。
「今月は、もっと効率的に動いていただく必要があります」
「効率的って……」
「一日あたり、最低二十件の奇跡を実行してください」
「に、二十件……!?」
リゼルの顔が青ざめる。
「無理です! 今でも一日十五件で限界なのに!」
「限界など、ありません」
枢機卿は書類を机に置いた。
「あなたは神に選ばれた聖女です。不可能はないはずです」
「でも……」
「それとも」
枢機卿の目が細くなる。
「あなたは、職務怠慢だとおっしゃるのですか」
リゼルは言葉に詰まった。
*
その日から、リゼルの"奇跡の残業"が始まった。
朝六時起床。
朝食を取る間もなく、祈祷室へ。
午前中に病気治癒を十件。
昼食は執務室で、申請書を処理しながら。
午後は豊穣祝福と浄化儀式。
夜は申請書の山と格闘。
「終わらない……」
深夜二時、リゼルは机に突っ伏した。
「まだ……あと五件……」
目が霞む。
頭が割れそうに痛い。
「でも……やらなきゃ……」
無理やり体を起こす。
*
翌朝、ミナが執務室を訪れると、リゼルは机で眠っていた。
「リゼル様……」
ミナは心配そうに肩を揺さぶる。
「はっ!」
リゼルが跳ね起きた。
「ミナ……? 今、何時……」
「朝の七時です」
「七時!? 寝過ごした!」
リゼルは慌てて立ち上がる。
「今日の予定は――」
「待ってください、リゼル様」
ミナが手を掴んだ。
「あなた、昨夜も徹夜したんですか?」
「え、ええ……まあ……」
「もう三日連続ですよ!」
ミナの声が震える。
「このままじゃ、体が持ちません!」
「大丈夫よ……私、聖女だから……」
「聖女だって人間です!」
ミナが叫んだ。
「お願いです……少し休んでください……」
「でも……ノルマが……」
「ノルマなんて!」
ミナは涙を流した。
「そんなものより、リゼル様の命の方が大事です!」
*
その時、扉が開いた。
「何を騒いでいるのですか」
枢機卿が入ってくる。
「枢機卿様……」
「ミナ、君は下がりなさい」
「ですが――」
「下がれ、と言っているのです」
枢機卿の声が冷たくなった。
ミナは悔しそうに唇を噛み、部屋を出ていった。
「聖女様」
枢機卿はリゼルに向き直った。
「昨日の達成率、六十五パーセントでしたね」
「はい……申し訳ございません……」
「何が原因ですか」
「時間が……足りなくて……」
「時間が足りない?」
枢機卿は冷笑した。
「それは、あなたの努力が足りないということですね」
「で、ですが……」
「言い訳は結構です」
枢機卿は新しい書類を置いた。
「今日から、一日二十五件に増やします」
「に、二十五件!?」
「ええ。国の要求が増えているのです。対応していただかなければ」
「無理です! そんなの、絶対に無理です!」
リゼルが初めて、大きな声を出した。
「私、人間なんです! 機械じゃないんです!」
「ならば」
枢機卿は冷たく言い放った。
「機械になりなさい」
リゼルの言葉が止まった。
「あなたは聖女です。感情など、必要ありません」
「そんな……」
「ただ、奇跡を起こせばいい。それが、あなたの存在意義です」
枢機卿は背を向けた。
「明日の報告を楽しみにしています」
扉が閉まる。
一人残されたリゼルは、その場に崩れ落ちた。
「機械に……なれって……」
涙が溢れた。
「私は……機械なの……?」
*
その日、リゼルは二十五件の奇跡を実行した。
いや、実行"させられた"。
朝から晩まで、休む間もなく祈り続けた。
病気を治し。
畑を祝福し。
水を浄化し。
全てが機械的だった。
「次……次……」
リゼルの目は虚ろだった。
もう、誰を救っているのかも分からない。
ただ、数をこなすだけ。
「あと……三件……」
夜の十一時。
リゼルは祈祷室で、最後の奇跡を実行していた。
「神よ……この地に……」
声が途切れる。
体から力が抜けていく。
「あと……少し……」
無理やり祈りを続ける。
そして――。
「終わった……」
二十五件、全て完了。
リゼルは床に倒れ込んだ。
「やった……ノルマ……達成……」
意識が遠のいていく。
「私……頑張った……よね……」
そのまま、気を失った。
*
翌朝、リゼルを発見したのはまたミナだった。
「リゼル様! しっかりしてください!」
医療室に運ばれるリゼル。
医者が診察し、首を振る。
「完全な過労です。このままでは、命に関わります」
「そんな……」
ミナは泣き崩れた。
「枢機卿様に、もう一度お願いしてみます……!」
*
しかし、枢機卿の答えは変わらなかった。
「聖女様には、明日から復帰していただきます」
「ですが、医者が命に関わると……!」
「それは、聖女様の問題です」
枢機卿は冷たく言った。
「国には、奇跡が必要なのです」
「でも……!」
「ミナ、君は黙っていなさい」
ミナは唇を噛んだ。
*
その夜、リゼルは一人で医療室のベッドに座っていた。
「もう……無理……」
呟く。
「このままじゃ……本当に死んじゃう……」
窓の外を見る。
月が綺麗だ。
「逃げたい……」
初めて、はっきりとそう思った。
「ここから……逃げ出したい……」
その時、窓辺に白い小鳥が止まった。
淡く光る羽。
「あなた……」
小鳥はリゼルを見つめ、そして飛び去った。
「待って……」
リゼルは窓を開ける。
小鳥は夜空を舞い、自由に飛んでいく。
「私も……あんな風に……」
その瞬間、決意が生まれた。
「逃げよう」
リゼルは立ち上がった。
「もう、限界だ」
医療室を抜け出し、執務室へ向かう。
そして、引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
『退職届』
「書こう」
ペンを取る。
そして――。
(第4話・終)