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聖女は退職したい  作者:
第1章 崩壊と逃避
3/6

第3話 奇跡の残業

 王都を出て三日目。

 リゼルは小さな宿場町に辿り着いていた。

 雨は降り続いている。

 空は鉛色に曇り、太陽の光は見えない。

「寒い……」

 濡れた服が体に張り付く。

 リゼルは震えながら、宿屋の扉を叩いた。

「すみません、一泊お願いします」

「いらっしゃい」

 宿屋の主人は陽気な中年男性だった。

「一泊三銅貨だよ。この雨の中、大変だったろう」

「ええ、まあ……」

 リゼルは懐から小銭を取り出す。

 聖女時代は、お金を使うことなんてなかった。

 全て聖堂が用意してくれていた。

「これで……足りますか?」

「ああ、ちょうどだ。じゃあ、二階の奥の部屋を使ってくれ」

「ありがとうございます」

 案内された部屋は小さかった。

 ベッドと椅子と小さな机だけ。

 でも――。

「私だけの、部屋……」

 聖堂の執務室とは違う。

 誰も命令してこない。

 誰も予定を押し付けてこない。

「自由……」

 リゼルはベッドに倒れ込んだ。

 柔らかい。

 温かい。

「幸せ……」

 涙が溢れた。


 *

 夜、宿屋の食堂で夕食を取っていると、隣のテーブルから話し声が聞こえてきた。

「なあ、聞いたか? 王都で奇跡が起きなくなったらしいぜ」

「マジかよ。聖女様がいなくなったとか……」

 リゼルの手が止まった。

「聖女が裏切ったんだとさ。神に背いて、どっか逃げたって」

「ひでぇな。あんだけ崇められてたのに」

「でも、よく考えたら奇跡って便利すぎたよな。俺たち、何でも聖女様に頼ってたし」

「それはそうだけど……」

 リゼルはスープを啜った。

 味がしない。

「裏切り者、か……」

 予想していたことだ。

 聖女が辞めるなんて、前例がない。

 きっと彼女は"神への反逆者"として語られるだろう。

「でも……仕方ない」

 リゼルは小さく呟いた。

「私は、私を守っただけ」


 *

 翌朝、リゼルは宿を出た。

 雨はまだ降り続いている。

「故郷まで、あと五日……」

 生まれ育った村。

 そこに帰れば、少しは休めるだろうか。

「頑張ろう」

 街道を歩き始める。

 でも、その道のりは険しかった。


 *

 昼過ぎ、街道沿いの村に差し掛かった時だった。

「通行止めだ」

 村人たちが橋の手前で立ち往生していた。

「どうしたんですか?」

 リゼルが声をかけると、村人の一人が答えた。

「川が氾濫しかけてる。このままじゃ橋が流される」

「氾濫……」

「ああ。聖女様の治水の祝福があれば、すぐ収まるんだけどな」

 村人は溜め息をついた。

「でも、もう聖女様はいないからな」

 リゼルは息を呑んだ。

 治水の祝福――それは彼女が定期的に各地の川に施していた奇跡だ。

 川の氾濫を防ぎ、水を清める。

「私が……やめたから……」

 罪悪感が胸を締め付ける。

 でも――。

「いや……」

 リゼルは首を振った。

「私が全部背負う必要はない」

 深呼吸をして、村人に尋ねる。

「すみません、迂回路はありませんか?」

「あるにはあるが、三日はかかる。しかも山道で危険だ」

「分かりました。ありがとうございます」

 リゼルは踵を返した。

 ――今すぐここで祝福を使えば、川は収まる。

 ――でも、それをしたら私だとバレる。

「ごめんなさい……」

 呟いて、山道へ向かう。

 背後から、村人たちの溜め息が聞こえた。


 *

 山道は険しかった。

 雨で地面はぬかるみ、何度も足を滑らせた。

「っ……!」

 転んで、手のひらを擦りむく。

 血が滲んだ。

「痛い……」

 以前なら、こんな傷はすぐに自分で癒していた。

 でも今は――。

「治癒の奇跡、使ったらバレるよね」

 リゼルは苦笑して、ハンカチで血を拭った。

「普通の人は、こうやって生きてるんだもんね」

 傷の痛みが、妙に新鮮だった。


 *

 山道を半日歩いた頃、日が暮れ始めた。

「どこかで休まないと……」

 辺りを見回すと、小さな洞窟が見えた。

「あそこで一晩……」

 洞窟に入り、荷物を下ろす。

 濡れた服を脱ぎ、予備の服に着替える。

「寒い……」

 震える体を抱きしめる。

 聖堂にいた時は、いつも暖かい部屋が用意されていた。

 食事も、服も、全てが揃っていた。

「贅沢だったんだな、私……」

 でも、その代償は――。

「自由がなかった」

 リゼルは洞窟の奥に座り込んだ。


 *

 夜、リゼルは眠れなかった。

 寒さもあったが、それ以上に――心が落ち着かない。

「本当に……これでよかったのかな」

 自問する。

「私が辞めたせいで、困ってる人がたくさんいる」

「川は氾濫して、病気は治らなくて、作物も枯れて」

「全部……私のせい……」

 罪悪感が押し寄せてくる。

「でも……」

 リゼルは自分の手を見た。

 傷だらけの手。

 もう、聖女の手ではない。

「私だって、人間なんだ」

 呟いた瞬間、涙が溢れた。

「休んだって……いいよね……」

 誰にも聞かれない独り言が、洞窟に響く。

「神様……」

 天を仰ぐ。

「私は……間違ってますか」

 答えは返ってこない。

 神は、いつも沈黙している。


 *

 翌朝、雨が止んでいた。

「やっと……」

 リゼルは洞窟を出た。

 空はまだ曇っているが、雨は降っていない。

「進もう」

 山道を下り始める。

 足は痛いし、体は重い。

 でも――。

「自由って、こういうことなんだ」

 リゼルは小さく笑った。

 辛くても、苦しくても。

 これは自分で選んだ道。

「頑張ろう」


 *

 山を越えたのは、昼過ぎのことだった。

 眼下に、小さな村が見える。

「着いた……」

 リゼルは安堵の息を吐いた。

 村への道を下りていくと、畑で作業をしている老婆が声をかけてきた。

「あんた、旅人かい?」

「はい」

「大変だったろう。よく来たね」

 老婆は優しく笑った。

「うちで休んでいきな。スープくらいなら出せるよ」

「本当ですか? ありがとうございます!」

 リゼルの目に涙が浮かぶ。

 久しぶりの――人の温かさ。


 *

 老婆の家は小さかった。

 でも、暖炉の火が温かく、スープの香りが満ちている。

「さあ、食べな」

「いただきます……」

 スープを一口飲んだ瞬間、リゼルは泣き出した。

「どうしたんだい?」

「あ、いえ……美味しくて……」

「そうかい。ならよかった」

 老婆は優しく笑った。

「あんた、疲れてるね。ゆっくり休んでいきな」

「ありがとうございます……」

 リゼルは涙を拭った。


 *

 その夜、老婆の家に泊めてもらったリゼルは、久しぶりにぐっすり眠った。

 夢も見ない。

 ただ、深い眠り。

「気持ちいい……」

 翌朝、目を覚ましたリゼルは、体が軽くなっているのを感じた。

「休むって……こういうことなんだ」

 窓の外を見る。

 朝日が昇っている。

 雲の隙間から、光が差し込んでいる。

「綺麗……」

 リゼルは微笑んだ。


 *

 朝食を終えた後、リゼルは老婆に尋ねた。

「この村、奇跡がなくても大丈夫なんですか?」

「奇跡? ああ、聖女様のね」

 老婆は笑った。

「奇跡なんてなくても、日は昇るよ」

「え……」

「昔はね、聖女様なんていなかった。それでも人は生きてきたんだ」

 老婆は窓の外を見る。

「確かに便利だったよ。病気もすぐ治るし、作物もよく育つ」

「でも?」

「でも、人は弱くなった」

 老婆は静かに言った。

「奇跡に頼りすぎて、自分で考えることを忘れちゃったんだ」

 リゼルの胸に、何かが引っかかった。

「自分で……考える……」

「そうさ。奇跡がなくなって、最初は困った。でもね」

 老婆は微笑んだ。

「人は、また自分の力で生きることを思い出すよ」


 *

 その言葉が、リゼルの心を少しだけ軽くした。

「ありがとうございます」

「何がだい?」

「色々……教えてくれて」

「あたしは何も教えてないよ。ただ、思ったことを言っただけさ」

 老婆は笑った。

「さあ、行きな。あんたの帰る場所が待ってるだろう」

「はい!」

 リゼルは深くお辞儀をして、村を後にした。


 *

 村を出て、再び街道を歩く。

 空は晴れ始めていた。

「奇跡がなくても……人は生きていける」

 老婆の言葉を反芻する。

「なら、私が辞めたことも……間違いじゃないのかな」

 少しだけ、心が軽くなった。

「神様」

 空を見上げる。

「私、少しだけ分かってきた気がします」

 風が優しく吹いた。

「奇跡は、誰かを救うため『だけ』のものじゃない」

「自分を救うことも……大切なんですよね」

 答えは返ってこない。

 でも、それでいいと思えた。


 *

 その日の夕方、リゼルは次の町に到着した。

 そこで、衝撃的な噂を耳にする。

「聖女が逃げたせいで、王都が大変らしいぞ」

「奇跡が完全に消えて、混乱してるって」

「枢機卿が血相を変えて、聖女を探してるらしい」

 リゼルの心臓が跳ねた。

「追われてる……」

 やはり、このまま逃げ切れるとは思っていなかった。

 いずれ、騎士団が来る。

「でも……」

 リゼルは拳を握りしめた。

「もう、戻らない」

 自分に誓う。

「絶対に、戻らない」


 *

 その夜、宿屋の部屋で、リゼルは日記を書き始めた。

『今日で、王都を出て五日目』

『追手が来るのは時間の問題だと思う』

『でも、私は戻らない』

『これは、私の人生だから』

 ペンを置いて、窓の外を見る。

 月が綺麗だ。

「神様、見てますか」

 呟く。

「私、逃げてます。聖女を辞めて、自分の人生を取り戻そうとしています」

 沈黙。

「怒ってますか?」

 また沈黙。

「でも……もう、戻れないんです」

 リゼルは涙を拭った。

「ごめんなさい」

 窓を閉め、ベッドに横になる。

「明日も……頑張ろう」

 そう呟いて、リゼルは眠りについた。


(第3話・終)

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