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聖女は退職したい  作者:
第1章 崩壊と逃避
2/6

第2話 枢機卿の命令

 翌朝、リゼルは医療室を抜け出していた。

 まだ体は重い。

 頭痛も残っている。

 でも、このまま寝ていたら――また"働け"と言われる。

「執務室に……戻らなきゃ」

 ふらつく足で廊下を歩く。

 すれ違う神官たちが、心配そうにリゼルを見る。

「聖女様、大丈夫ですか?」

「ええ、平気よ」

 嘘だった。

 全然平気じゃない。

 でも、弱みを見せたら――。

 "やっぱり使えない"と思われる。

 "聖女失格"と言われる。

「頑張らなきゃ……」

 自分に言い聞かせて、執務室の扉を開けた。


 机の上には、また新しい書類が山積みになっていた。

「嘘……」

 リゼルの顔が青ざめる。

「昨日、全部終わらせたのに……」

 一番上の書類を手に取る。

『緊急・王都南地区の疫病発生につき、至急治癒の儀式を』

「疫病……?」

 リゼルの手が震えた。

 疫病の治癒は、最も大規模な奇跡だ。

 一度に数百人を癒さなければならない。

 今の状態でやったら――。

「死ぬかもしれない……」

 呟いた瞬間、扉が開いた。

「リゼル様、お目覚めになられましたか」

 枢機卿エルヴィンが入ってくる。

「はい……」

「では、すぐに準備を。南地区の疫病が深刻です」

「で、でも……」

「今すぐです」

 枢機卿の声が冷たくなった。

「既に三十人が亡くなっています。一刻を争います」

「わかって……いますけど……」

「では、なぜ躊躇するのですか」

 リゼルは言葉に詰まった。

「私……まだ、体が……」

「体調など、関係ありません」

 枢機卿は冷たく言い放った。

「あなたは聖女です。人々を救うのが使命です」

「でも――」

「それとも」

 枢機卿の目が細くなる。

「あなたは、三十人の命よりも、自分の体調の方が大事だと?」

 リゼルの心臓が跳ねた。

「そんなこと……」

「なら、行きましょう。すぐに」


 *

 南地区に到着したのは、正午のことだった。

 街は異様な静けさに包まれていた。

 人々は家に閉じこもり、通りには誰もいない。

「ここが……疫病地区……」

 リゼルは息を呑んだ。

「聖女様、中心の広場に患者を集めています」

 案内された広場には、数百人の病人が横たわっていた。

 高熱で苦しむ者。

 咳き込む者。

 既に意識を失っている者。

「ひどい……」

 リゼルの足が竦む。

「聖女様、お願いします!」

「娘を助けてください!」

 人々が口々に懇願する。

「わかって……います」

 リゼルは広場の中央に立った。

 深呼吸をする。

 震える手を、必死に抑える。

「神よ……」

 祈りを始めた瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。

「っ……!」

 膝が折れそうになる。

 でも――。

「頑張らなきゃ……!」

 無理やり力を絞り出す。

「神よ、この地に癒しを――!」

 体から光が溢れ出した。


 *

 光が広場全体を包む。

 病人たちの体が、淡く輝き始める。

 熱が下がり、咳が収まり、意識が戻っていく。

「治った……!」

「ありがとうございます、聖女様!」

 人々の歓声が響く。

 でも、リゼルには聞こえていなかった。

 視界が真っ白に染まる。

 膝が崩れる。

「――ぁ」

 声にならない声を漏らして、リゼルは倒れた。


 *

 気がつくと、また医療室にいた。

「何度目……だろ……」

 リゼルは虚ろな目で天井を見つめる。

「リゼル様! 良かった、目を覚まして!」

 ミナが駆け寄ってくる。

「ミナ……」

「無茶しすぎです! あんな状態で大規模治癒なんて!」

「でも……みんな助かった……?」

「はい、全員無事です」

「なら……よかった」

 リゼルは力なく笑った。

「私……役に立てたんだ」

「でも! リゼル様が倒れたら意味がないじゃないですか!」

 ミナの目に涙が浮かぶ。

「お願いです……もう、無理しないでください」

「ミナ……」

 リゼルはミナの手を握った。

「ありがとう。心配してくれて」

「当たり前です……私、リゼル様が……」

 その時、扉が勢いよく開いた。

「聖女様、ご無事でしたか」

 枢機卿が入ってくる。

「南地区の治癒、見事でした。王も大変お喜びです」

「それは……よかったです」

「ええ。では、次の予定ですが――」

「待ってください!」

 ミナが枢機卿の前に立ちはだかった。

「リゼル様は今、療養中です! 新しい予定など入れられません!」

「ミナ、君は黙っていなさい」

 枢機卿は冷たく言い放った。

「聖女の予定は、私が決める」

「ですが――」

「君にはまだ、聖女の責任の重さが理解できていないようだ」

 枢機卿はリゼルに向き直った。

「聖女様、明後日の王族祝福式ですが――」

「――枢機卿様」

 リゼルが口を開いた。

「なんでしょう」

「私……少しだけ、休ませてください」

 震える声で告げる。

「一週間だけでいいんです。お願いします」

 枢機卿の表情が変わった。

「休む……ですと?」

「はい……私、本当に限界で……」

「聖女が休むなどという前例はありません」

「でも――」

「それに」

 枢機卿は冷たく続けた。

「あなたが休んでいる間に、何人の人が死ぬと思っているのですか」

 リゼルの言葉が止まった。

「毎日、病気や災害で苦しんでいる人がいます。彼らを見捨てるおつもりですか」

「そんなつもりは……」

「なら、働いてください」

 枢機卿の声が響く。

「それが、あなたの使命です」


 *

 枢機卿が去った後、ミナはリゼルを抱きしめた。

「ひどい……ひどすぎます……」

「ミナ、泣かないで」

「でも……!」

「大丈夫よ」

 リゼルは優しく微笑んだ。

 でも、その目は死んでいた。

「私、頑張るから」

「リゼル様……」

「だって、私は聖女だもの」

 その言葉が、どこか機械的だった。


 *

 その夜、リゼルは一人で執務室にいた。

 机の上には、また新しい申請書の山。

「明日までに……二十件……」

 ペンを手に取る。

 手が震えている。

「頑張らなきゃ……頑張らなきゃ……」

 呪文のように繰り返す。

 でも――。

「もう……無理……」

 ペンを落とした。

 そして、リゼルは机に突っ伏して泣いた。

「助けて……誰か……助けて……」

 誰も答えない。

 神も、答えない。

「私……どうすればいいの……」

 その時だった。

 窓の外から、また小鳥のさえずりが聞こえた。

 リゼルは顔を上げる。

 窓辺に、あの白い小鳥が止まっていた。

 淡く光る羽。

 小鳥はリゼルを見つめ、そして――窓の外へ飛んでいった。

「待って……」

 リゼルは窓を開ける。

 小鳥は夜空を舞い、遠くへ飛んでいく。

「私も……」

 リゼルは呟いた。

「飛んでいきたい……」

 その瞬間、決意が固まった。

「――逃げよう」

 リゼルは引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。

 半年前に書いて、でも出せなかった書類。

『退職届』

「これを……出そう」

 震える手で、ペンを取る。

 そして、最後の一文を書き加えた。

『私はもう、聖女としての務めを果たせません。長い間、ありがとうございました』

 署名をして、日付を記入する。

 そして――。

「これで、いい」

 退職届を机の上に置いた。

 インク壺を重しにして、風で飛ばないようにする。

「さよなら……聖女」

 リゼルは白い聖女衣を脱ぎ、クローゼットにしまった。

 代わりに、普通の旅装束を着る。

「これで……自由……」

 窓の外を見る。

 満月が輝いている。

「行こう」

 リゼルは執務室を後にした。

 誰にも見つからないように、裏口へ向かう。

 聖堂の廊下を歩きながら、リゼルは思った。

 ――五年間、ありがとう。

 ――でも、もう無理。

 ――ごめんなさい。

「さよなら」

 裏口の扉を開ける。

 外は静かな夜。

 月明かりが、道を照らしている。

「行こう……私の、人生へ」

 リゼルは一歩、踏み出した。

 そして、振り返らずに歩き始めた。


 *

 翌朝、大聖堂は大騒ぎになった。

「聖女様が消えた!」

「執務室に退職届が!」

「これは一体……!」

 神官たちが慌てふためく。

 枢機卿エルヴィンは、青ざめた顔でリゼルの執務室に立っていた。

 机の上には、確かに退職届。

『私はもう、聖女としての務めを果たせません。長い間、ありがとうございました』

 丁寧な文字。

 でも、その裏には強い意志が感じられる。

「まさか……本当に逃げたのか……」

 枢機卿の手が震えた。

「探せ! 何としても聖女様を連れ戻すのだ!」

 騎士団が動き出す。

 でも――。

「枢機卿様、大変です!」

 神官が血相を変えて飛び込んできた。

「何事だ!」

「南の村で病が再発! でも、治癒の奇跡が効きません!」

「何だと!?」

「それだけではありません! 豊穣の祝福も、浄化の儀式も、全て――全ての奇跡が、起きなくなっています!」

 枢機卿は呆然とした。

「まさか……聖女様がいなくなったら、神の加護まで消えるというのか……!?」

 大聖堂に、絶望の声が響いた。


 *

 一方、王都の門を出たリゼルは、振り返ることなく歩き続けていた。

「ごめんなさい……でも、もう戻れない」

 空は曇り始めていた。

 雨が降りそうだ。

「でも……いいの」

 リゼルは小さく微笑んだ。

「これが、私の選んだ道」

 奇跡が消えた世界。

 でも、リゼルは自分の人生を取り戻すために歩き続けた。


(第2話・終)

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