第2話 枢機卿の命令
翌朝、リゼルは医療室を抜け出していた。
まだ体は重い。
頭痛も残っている。
でも、このまま寝ていたら――また"働け"と言われる。
「執務室に……戻らなきゃ」
ふらつく足で廊下を歩く。
すれ違う神官たちが、心配そうにリゼルを見る。
「聖女様、大丈夫ですか?」
「ええ、平気よ」
嘘だった。
全然平気じゃない。
でも、弱みを見せたら――。
"やっぱり使えない"と思われる。
"聖女失格"と言われる。
「頑張らなきゃ……」
自分に言い聞かせて、執務室の扉を開けた。
*
机の上には、また新しい書類が山積みになっていた。
「嘘……」
リゼルの顔が青ざめる。
「昨日、全部終わらせたのに……」
一番上の書類を手に取る。
『緊急・王都南地区の疫病発生につき、至急治癒の儀式を』
「疫病……?」
リゼルの手が震えた。
疫病の治癒は、最も大規模な奇跡だ。
一度に数百人を癒さなければならない。
今の状態でやったら――。
「死ぬかもしれない……」
呟いた瞬間、扉が開いた。
「リゼル様、お目覚めになられましたか」
枢機卿エルヴィンが入ってくる。
「はい……」
「では、すぐに準備を。南地区の疫病が深刻です」
「で、でも……」
「今すぐです」
枢機卿の声が冷たくなった。
「既に三十人が亡くなっています。一刻を争います」
「わかって……いますけど……」
「では、なぜ躊躇するのですか」
リゼルは言葉に詰まった。
「私……まだ、体が……」
「体調など、関係ありません」
枢機卿は冷たく言い放った。
「あなたは聖女です。人々を救うのが使命です」
「でも――」
「それとも」
枢機卿の目が細くなる。
「あなたは、三十人の命よりも、自分の体調の方が大事だと?」
リゼルの心臓が跳ねた。
「そんなこと……」
「なら、行きましょう。すぐに」
*
南地区に到着したのは、正午のことだった。
街は異様な静けさに包まれていた。
人々は家に閉じこもり、通りには誰もいない。
「ここが……疫病地区……」
リゼルは息を呑んだ。
「聖女様、中心の広場に患者を集めています」
案内された広場には、数百人の病人が横たわっていた。
高熱で苦しむ者。
咳き込む者。
既に意識を失っている者。
「ひどい……」
リゼルの足が竦む。
「聖女様、お願いします!」
「娘を助けてください!」
人々が口々に懇願する。
「わかって……います」
リゼルは広場の中央に立った。
深呼吸をする。
震える手を、必死に抑える。
「神よ……」
祈りを始めた瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。
「っ……!」
膝が折れそうになる。
でも――。
「頑張らなきゃ……!」
無理やり力を絞り出す。
「神よ、この地に癒しを――!」
体から光が溢れ出した。
*
光が広場全体を包む。
病人たちの体が、淡く輝き始める。
熱が下がり、咳が収まり、意識が戻っていく。
「治った……!」
「ありがとうございます、聖女様!」
人々の歓声が響く。
でも、リゼルには聞こえていなかった。
視界が真っ白に染まる。
膝が崩れる。
「――ぁ」
声にならない声を漏らして、リゼルは倒れた。
*
気がつくと、また医療室にいた。
「何度目……だろ……」
リゼルは虚ろな目で天井を見つめる。
「リゼル様! 良かった、目を覚まして!」
ミナが駆け寄ってくる。
「ミナ……」
「無茶しすぎです! あんな状態で大規模治癒なんて!」
「でも……みんな助かった……?」
「はい、全員無事です」
「なら……よかった」
リゼルは力なく笑った。
「私……役に立てたんだ」
「でも! リゼル様が倒れたら意味がないじゃないですか!」
ミナの目に涙が浮かぶ。
「お願いです……もう、無理しないでください」
「ミナ……」
リゼルはミナの手を握った。
「ありがとう。心配してくれて」
「当たり前です……私、リゼル様が……」
その時、扉が勢いよく開いた。
「聖女様、ご無事でしたか」
枢機卿が入ってくる。
「南地区の治癒、見事でした。王も大変お喜びです」
「それは……よかったです」
「ええ。では、次の予定ですが――」
「待ってください!」
ミナが枢機卿の前に立ちはだかった。
「リゼル様は今、療養中です! 新しい予定など入れられません!」
「ミナ、君は黙っていなさい」
枢機卿は冷たく言い放った。
「聖女の予定は、私が決める」
「ですが――」
「君にはまだ、聖女の責任の重さが理解できていないようだ」
枢機卿はリゼルに向き直った。
「聖女様、明後日の王族祝福式ですが――」
「――枢機卿様」
リゼルが口を開いた。
「なんでしょう」
「私……少しだけ、休ませてください」
震える声で告げる。
「一週間だけでいいんです。お願いします」
枢機卿の表情が変わった。
「休む……ですと?」
「はい……私、本当に限界で……」
「聖女が休むなどという前例はありません」
「でも――」
「それに」
枢機卿は冷たく続けた。
「あなたが休んでいる間に、何人の人が死ぬと思っているのですか」
リゼルの言葉が止まった。
「毎日、病気や災害で苦しんでいる人がいます。彼らを見捨てるおつもりですか」
「そんなつもりは……」
「なら、働いてください」
枢機卿の声が響く。
「それが、あなたの使命です」
*
枢機卿が去った後、ミナはリゼルを抱きしめた。
「ひどい……ひどすぎます……」
「ミナ、泣かないで」
「でも……!」
「大丈夫よ」
リゼルは優しく微笑んだ。
でも、その目は死んでいた。
「私、頑張るから」
「リゼル様……」
「だって、私は聖女だもの」
その言葉が、どこか機械的だった。
*
その夜、リゼルは一人で執務室にいた。
机の上には、また新しい申請書の山。
「明日までに……二十件……」
ペンを手に取る。
手が震えている。
「頑張らなきゃ……頑張らなきゃ……」
呪文のように繰り返す。
でも――。
「もう……無理……」
ペンを落とした。
そして、リゼルは机に突っ伏して泣いた。
「助けて……誰か……助けて……」
誰も答えない。
神も、答えない。
「私……どうすればいいの……」
その時だった。
窓の外から、また小鳥のさえずりが聞こえた。
リゼルは顔を上げる。
窓辺に、あの白い小鳥が止まっていた。
淡く光る羽。
小鳥はリゼルを見つめ、そして――窓の外へ飛んでいった。
「待って……」
リゼルは窓を開ける。
小鳥は夜空を舞い、遠くへ飛んでいく。
「私も……」
リゼルは呟いた。
「飛んでいきたい……」
その瞬間、決意が固まった。
「――逃げよう」
リゼルは引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。
半年前に書いて、でも出せなかった書類。
『退職届』
「これを……出そう」
震える手で、ペンを取る。
そして、最後の一文を書き加えた。
『私はもう、聖女としての務めを果たせません。長い間、ありがとうございました』
署名をして、日付を記入する。
そして――。
「これで、いい」
退職届を机の上に置いた。
インク壺を重しにして、風で飛ばないようにする。
「さよなら……聖女」
リゼルは白い聖女衣を脱ぎ、クローゼットにしまった。
代わりに、普通の旅装束を着る。
「これで……自由……」
窓の外を見る。
満月が輝いている。
「行こう」
リゼルは執務室を後にした。
誰にも見つからないように、裏口へ向かう。
聖堂の廊下を歩きながら、リゼルは思った。
――五年間、ありがとう。
――でも、もう無理。
――ごめんなさい。
「さよなら」
裏口の扉を開ける。
外は静かな夜。
月明かりが、道を照らしている。
「行こう……私の、人生へ」
リゼルは一歩、踏み出した。
そして、振り返らずに歩き始めた。
*
翌朝、大聖堂は大騒ぎになった。
「聖女様が消えた!」
「執務室に退職届が!」
「これは一体……!」
神官たちが慌てふためく。
枢機卿エルヴィンは、青ざめた顔でリゼルの執務室に立っていた。
机の上には、確かに退職届。
『私はもう、聖女としての務めを果たせません。長い間、ありがとうございました』
丁寧な文字。
でも、その裏には強い意志が感じられる。
「まさか……本当に逃げたのか……」
枢機卿の手が震えた。
「探せ! 何としても聖女様を連れ戻すのだ!」
騎士団が動き出す。
でも――。
「枢機卿様、大変です!」
神官が血相を変えて飛び込んできた。
「何事だ!」
「南の村で病が再発! でも、治癒の奇跡が効きません!」
「何だと!?」
「それだけではありません! 豊穣の祝福も、浄化の儀式も、全て――全ての奇跡が、起きなくなっています!」
枢機卿は呆然とした。
「まさか……聖女様がいなくなったら、神の加護まで消えるというのか……!?」
大聖堂に、絶望の声が響いた。
*
一方、王都の門を出たリゼルは、振り返ることなく歩き続けていた。
「ごめんなさい……でも、もう戻れない」
空は曇り始めていた。
雨が降りそうだ。
「でも……いいの」
リゼルは小さく微笑んだ。
「これが、私の選んだ道」
奇跡が消えた世界。
でも、リゼルは自分の人生を取り戻すために歩き続けた。
(第2話・終)