第19話 奇跡が止まった日
王都では、混乱が続いていた。
奇跡が完全に止まってから、十日。
街は、少しずつ崩壊し始めていた。
「水が……汚い……」
井戸水を汲んだ女性が、顔を顰める。
浄化の祝福がないため、水は濁っている。
「飲めない……」
「どうすればいいの……」
人々の不安が募る。
*
市場では、物価が高騰していた。
「パン一個、五銅貨だと!?」
「高すぎる!」
「仕方ないだろう。豊穣の祝福がないんだ。作物が育たない」
商人が言い訳する。
「畑が全然実らないんだ。これでも安い方だ」
「でも……」
「嫌なら買うな」
商人は冷たく言った。
*
病院では、患者が溢れていた。
「医者! 医者を!」
「順番に! 順番に!」
看護師が必死に対応している。
でも、追いつかない。
「治癒の奇跡があれば、すぐに治るのに……」
医者が悔しそうに呟く。
「でも、聖女はいない……」
無力感が、医療現場を覆っていた。
*
聖堂では、緊急会議が開かれていた。
「状況は深刻だ」
枢機卿が重い声で言う。
「水不足、食料不足、医療崩壊。全てが連鎖している」
「このままでは、国が持ちません」
神官の一人が報告する。
「民衆の不満も、限界に達しています」
「分かっている……」
枢機卿は頭を抱えた。
「聖女様を……見つけなければ……」
*
「しかし」
若い神官が立ち上がった。
「我々にも、できることがあるはずです」
「何だと?」
「奇跡なしで、問題を解決する方法を」
彼は続ける。
「水が汚れているなら、濾過装置を作る。畑が育たないなら、肥料を改良する」
「そんなことで……」
「時間はかかりますが、可能です」
*
枢機卿は、しばらく考えた後――。
「やってみろ」
静かに言った。
「え……」
「お前の言う通りだ。我々も、何かしなければならない」
枢機卿は立ち上がった。
「全神官に伝えろ。奇跡なしで、人々を救う方法を考えよ、と」
「はい!」
*
その日から、聖堂は動き出した。
神官たちが街に出て、人々を手伝う。
「水を沸かせば、飲めるようになります」
「本当か!?」
「はい。試してみてください」
神官が実演する。
水を火にかけ、沸騰させる。
「こうすれば、不純物が減ります」
「なるほど……」
人々が納得する。
*
畑では、神官たちが農民と一緒に働いていた。
「この肥料を使ってください」
「これは……?」
「堆肥です。聖典に作り方が書いてありました」
神官が説明する。
「昔の人は、これを使っていたそうです」
「昔の人……」
農民は感心した。
「なるほどな。試してみるか」
*
病院では、神官たちが看護を手伝っていた。
「水を持ってきました」
「ありがとう」
医者が感謝する。
「君たち、本当に助かるよ」
「いえ、当然のことです」
神官は微笑んだ。
「これも、神に仕える道ですから」
*
しかし、全てが順調なわけではなかった。
保守派の神官、ガブリエルは、この動きを快く思っていなかった。
「愚か者どもめ……」
彼は窓から、街で働く神官たちを見ていた。
「奇跡を捨てて、人の力に頼るなど……」
拳を握りしめる。
「これは、神への冒涜だ……」
*
ガブリエルは、密かに計画を練っていた。
「聖女様を……連れ戻す……」
机の上には、フェルナ村の地図。
「リゼル様がいるのは、ここだ……」
ペンで印をつける。
「私が……直接行く……」
彼の目に、狂気が宿っていた。
「そして、聖女様を……取り戻す……」
*
翌日、ガブリエルは密かに聖堂を出た。
誰にも告げずに。
「待っていてください、聖女様……」
呟きながら、王都を出る。
「必ず……お連れします……」
彼の旅が、始まった。
*
一方、フェルナ村では。
リゼルは平和な日々を送っていた。
畑を手伝い、子供たちと遊び。
「楽しい……」
心から笑える。
「こんな生活……夢みたい……」
でも、その平和は――。
間もなく、終わりを告げる。
*
ある日の午後。
リゼルは丘で昼寝をしていた。
「気持ちいい……」
草の上に寝転がる。
風が心地よい。
「ずっと、こうしていたい……」
目を閉じる。
その時――。
「リゼル様……」
低い声が聞こえた。
*
「え……?」
リゼルは跳ね起きた。
目の前に、黒いローブを着た男が立っていた。
「あなた……」
「お久しぶりです、聖女様」
男はフードを取った。
そこには――ガブリエルの顔。
「ガブリエル……!」
リゼルは後ずさった。
「どうして……ここに……」
「お迎えに上がりました」
ガブリエルは冷たく微笑んだ。
「さあ、王都へ戻りましょう」
*
「嫌です……!」
リゼルは叫んだ。
「私は……もう聖女じゃありません!」
「いいえ」
ガブリエルは首を振った。
「あなたは聖女です。永遠に」
「違います!」
「では、力ずくでも……」
ガブリエルが一歩、踏み出す。
「やめて……!」
リゼルは逃げようとした。
*
しかし、ガブリエルは素早かった。
リゼルの腕を掴む。
「離して……!」
「無駄です」
「誰か……!」
リゼルは叫んだ。
「助けて……!」
その声が、村まで届くことを祈って。
*
村では、トムが異変に気づいた。
「今の声……リゼルか!?」
「丘の方から……!」
「行くぞ!」
村人たちが駆け出す。
リゼルを救うために。
*
丘では、リゼルが必死に抵抗していた。
「離して……お願い……」
「無理です。あなたは、王都に戻らなければならない」
「嫌……嫌です……!」
リゼルは涙を流した。
「お願い……自由にさせて……」
「自由……?」
ガブリエルは嘲笑した。
「聖女に自由など、必要ありません」
*
その時だった。
「リゼルから手を離せ!」
トムの声が響いた。
村人たちが、丘に駆け上がってくる。
「村人……」
ガブリエルは舌打ちした。
「邪魔を……」
「リゼルは、俺たちの仲間だ!」
トムが叫ぶ。
「渡すわけにはいかない!」
*
ガブリエルは、リゼルを離した。
「今日は……諦めます」
彼は後ずさる。
「しかし、また来ます」
「来るな!」
「必ず……必ずお連れします……」
ガブリエルは森の中へ消えていった。
*
リゼルは、トムに抱きかかえられた。
「大丈夫か、リゼル」
「トムさん……」
リゼルは泣き崩れた。
「怖かった……」
「もう大丈夫だ」
トムは優しく言った。
「俺たちが守る」
「ありがとう……ございます……」
村人たちが、リゼルを囲む。
「大丈夫だ、リゼル」
「俺たちがいる」
その温かさに、リゼルは救われた。
*
しかし、心の中では分かっていた。
これで終わりじゃない。
ガブリエルは、また来る。
「どうすれば……」
リゼルは不安に震えていた。
(第19話・終)




