表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女は退職したい  作者:
第1章 崩壊と逃避
10/17

第10話 聖堂の鐘の音

 翌朝、聖堂では鐘が鳴り響いていた。

 重く、悲しげな音色。

「何の鐘だ?」

「知らないのか? 聖女喪失の鐘だよ」

 街の人々が、聖堂を見上げる。

「聖女様が……本当にいなくなったのか」

「ああ。公式発表があった」

「これから、どうなるんだ……」

 不安が広がっていく。


 *

 聖堂では、枢機卿が民衆の前に立っていた。

「皆様にお知らせがあります」

 重々しい声。

「聖女リゼル・アルティナは……聖堂を去られました」

 どよめきが起こる。

「嘘だろ!」

「本当に逃げたのか!」

「理由は! なぜだ!」

 人々が口々に叫ぶ。

「理由は……」

 枢機卿は言葉に詰まった。

「過労による……心身の疲弊です」


 *

「過労……だと?」

「聖女様が、過労で……?」

 人々は信じられない顔をしている。

「そんなはずが……」

「だって、聖女様は神に選ばれた特別な存在だろ?」

「疲れるなんてことが……」

 でも、一人の老人が言った。

「いや……あの方、最近痩せておられた」

「そういえば……」

「顔色も悪かったな」

「倒れたって話も聞いた」

 人々が気づき始める。

「もしかして……本当に限界だったのか?」


 *

 枢機卿は深く頭を下げた。

「聖女様を……守れなかった責任は、私にあります」

 会場が静まり返る。

「私は……聖女様を道具のように扱ってしまいました」

 枢機卿の声が震える。

「休ませることもなく……ただ、働かせ続けた」

「枢機卿様……」

「だから……聖女様は逃げられたのです」

 涙が零れた。

「全て……私の責任です」


 *

 人々は、呆然としていた。

「枢機卿が……泣いている……」

「まさか、そこまで……」

「聖女様……どれだけ辛かったんだ……」

 やがて、一人の女性が言った。

「私たちも……悪かったのかもしれない」

「え?」

「だって、私たち……何でも聖女様に頼んでたじゃない」

 女性は俯いた。

「病気も、豊作も、何もかも」

「それは……」

「聖女様だって、人間なのに」

 女性は涙を流した。

「休む時間も与えず……ただ、奇跡を求め続けた」


 *

 その言葉が、人々の心に突き刺さった。

「俺たちも……」

「聖女様を……追い詰めたのか……」

 罪悪感が広がっていく。

「どうすればいいんだ……」

「もう、奇跡は起きないのか……」

 絶望が、街を覆う。

 その時――。

「待ってください!」

 若い神官が前に出た。

「私たちには、まだできることがあります!」

「できること……?」

「はい!」

 神官は力強く言った。

「奇跡がなくても、私たちは生きていけます!」


 *

「何を言って……」

「聞いてください!」

 神官は続ける。

「昔は、聖女様なんていませんでした。それでも、人は生きてきたんです!」

「それは……そうだが……」

「なら、また自分たちの力で生きればいい!」

 神官の声が響く。

「病気なら、医者に頼る。畑なら、自分たちで耕す。水なら、井戸を掘る!」

「でも……」

「確かに大変です。時間もかかります」

 神官は真剣な顔で言った。

「でも、できないことじゃない!」


 *

 人々は、顔を見合わせた。

「そういえば……俺の爺さんは、奇跡なしで畑を耕してたな」

「うちの婆さんも、薬草で病気を治してた」

「昔の人は……すごかったんだな」

 少しずつ、希望が生まれ始める。

「なら……俺たちにもできるか?」

「やってみるしかないだろう」

「ああ……そうだな」

 人々が、前を向き始めた。


 *

 枢機卿は、その様子を見て微笑んだ。

「そうか……これが、聖女様が望んでいたことなのかもしれない……」

 隣にいたミナが言った。

「きっと、そうです」

「ミナ……」

「リゼル様は……人々が自分で生きることを望んでおられました」

 ミナは遠くを見た。

「だから、逃げられたんです」

「なるほど……」

 枢機卿は深く頷いた。

「なら、私たちは……彼女の意志を尊重しなければならない」


 *

 その日から、聖堂は変わり始めた。

 神官たちが街に出て、人々を手伝うようになった。

 病人の看護。

 畑仕事の手伝い。

 井戸掘りの支援。

「奇跡は起こせません。でも、手はあります」

 神官たちの言葉に、人々は涙した。

「ありがとう……」

「いえ、当然のことです」

 新しい絆が、生まれ始めていた。


 *

 一方、リゼルは村を出て、再び旅を続けていた。

「あと一日……」

 故郷まで、あと一日。

「もうすぐ……」

 疲れた体を引きずりながら、歩き続ける。

 その時、背後から馬のいななきが聞こえた。

「!」

 リゼルは振り返る。

 そこには――聖騎士団の旗を掲げた馬車。

「まずい……!」

 リゼルは慌てて、道脇の茂みに隠れた。


 *

 馬車が通り過ぎる。

 中から、騎士たちの会話が聞こえる。

「聖女様は、この辺りを通られたはずだ」

「早く見つけないと」

「ああ。枢機卿様の命令は絶対だ」

 リゼルの心臓が早鐘を打つ。

「見つかったら……」

 連れ戻される。

 また、あの地獄に。

「嫌だ……」

 リゼルは拳を握りしめた。

「絶対に……嫌だ……」


 *

 馬車が遠ざかるのを待って、リゼルは茂みから出た。

「もう、街道は使えない……」

 森の中を行くしかない。

「迂回して……」

 リゼルは森に入った。

 木々が鬱蒼と茂り、道なき道を進む。

「大丈夫……もう少し……」

 必死に歩く。

 でも、足が重い。

「もう……限界……」

 木の根に足を取られ、転ぶ。

「っ……!」

 手のひらを擦りむく。

「痛い……」

 血が滲む。


 �*

 その時、頭上から声がした。

「大丈夫?」

「!」

 リゼルは顔を上げる。

 木の枝に、少年が座っていた。

 十歳くらいだろうか。

「君……誰?」

「俺? この森に住んでるんだ」

 少年はひょいと飛び降りた。

「怪我してるね。見せて」

「え、ええ……」

 少年はリゼルの手を取り、葉っぱで血を拭った。

「この葉っぱ、止血効果があるんだ」

「そうなの……?」

「うん。ばあちゃんに教わった」

 少年は笑った。

「ねえ、どこ行くの?」

「え……その……」

「逃げてるの?」

 少年の鋭い質問に、リゼルは動揺した。

「な、なんで……」

「だって、怯えた顔してるもん」

 少年は真剣な顔で言った。

「大丈夫。俺、誰にも言わない」


 *

 リゼルは、少し考えて――。

「……うん。逃げてる」

 正直に答えた。

「やっぱり。何から?」

「仕事……かな」

「仕事? 大人って大変だね」

 少年は首を傾げた。

「でも、逃げていいの?」

「……分からない」

 リゼルは俯いた。

「でも、逃げないと……壊れちゃうから」

「壊れる?」

「うん。心が、体が……全部」

 リゼルの目に涙が浮かぶ。

「だから……逃げた」


 *

 少年は、しばらくリゼルを見つめていた。

 そして――。

「いいと思うよ」

「え?」

「逃げること。壊れるくらいなら、逃げた方がいい」

 少年は笑った。

「ばあちゃんが言ってた。『生きることが一番大事』って」

「生きること……」

「うん。だから、逃げていいんだよ」

 少年の言葉が、リゼルの心を温めた。

「ありがとう……」

「どういたしまして」

 少年は手を差し出した。

「俺、レオ。君は?」

「リゼ……」

 リゼルは一瞬迷ったが――。

「リゼルよ」

「リゼル。いい名前だね」


 *

「ねえ、リゼル」

「何?」

「どこ行くの?」

「南の村」

「南? じゃあ、俺の家の方だ」

 レオは目を輝かせた。

「案内してあげる!」

「本当? でも、迷惑じゃ……」

「迷惑じゃないよ。森の道、危ないし」

 レオは歩き出した。

「ついてきて」

「ありがとう、レオ」

 リゼルは立ち上がり、レオの後を追った。


 *

 森の中を歩きながら、レオは色々話してくれた。

「あの木はね、実がなるんだ。秋になると甘くて美味しいよ」

「へえ」

「それから、あっちの川には魚がいっぱい」

「楽しそうね」

「うん! 森って楽しいよ」

 レオの無邪気な笑顔が、リゼルの心を癒した。

「レオは……学校とか行かないの?」

「学校? ないよ、この辺には」

「そうなの……」

「でも、ばあちゃんが字を教えてくれる」

 レオは誇らしげに言った。

「俺、もう本が読めるんだ」

「すごいわね」

「へへ」


 *

 やがて、森を抜けた。

 そこには、小さな村が見えた。

「あれが、俺の村」

「ありがとう、レオ。助かったわ」

「ううん。楽しかったよ」

 レオは笑った。

「リゼル、元気でね」

「レオも」

 二人は手を振り合って、別れた。


 *

 村に入ったリゼルは、小さな宿屋を見つけた。

「ここで……一晩」

 宿屋に入り、部屋を借りる。

 ベッドに倒れ込む。

「疲れた……」

 でも、心は軽かった。

「レオに会えて……良かった」

 あの少年の笑顔が、リゼルに希望を与えてくれた。

「子供は……純粋ね」

 窓の外を見る。

 夕日が沈んでいく。

「明日……故郷に着く」

 リゼルは目を閉じた。

「もう少し……」

 そして、安らかに眠りについた。


(第10話・終)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ