第10話 聖堂の鐘の音
翌朝、聖堂では鐘が鳴り響いていた。
重く、悲しげな音色。
「何の鐘だ?」
「知らないのか? 聖女喪失の鐘だよ」
街の人々が、聖堂を見上げる。
「聖女様が……本当にいなくなったのか」
「ああ。公式発表があった」
「これから、どうなるんだ……」
不安が広がっていく。
*
聖堂では、枢機卿が民衆の前に立っていた。
「皆様にお知らせがあります」
重々しい声。
「聖女リゼル・アルティナは……聖堂を去られました」
どよめきが起こる。
「嘘だろ!」
「本当に逃げたのか!」
「理由は! なぜだ!」
人々が口々に叫ぶ。
「理由は……」
枢機卿は言葉に詰まった。
「過労による……心身の疲弊です」
*
「過労……だと?」
「聖女様が、過労で……?」
人々は信じられない顔をしている。
「そんなはずが……」
「だって、聖女様は神に選ばれた特別な存在だろ?」
「疲れるなんてことが……」
でも、一人の老人が言った。
「いや……あの方、最近痩せておられた」
「そういえば……」
「顔色も悪かったな」
「倒れたって話も聞いた」
人々が気づき始める。
「もしかして……本当に限界だったのか?」
*
枢機卿は深く頭を下げた。
「聖女様を……守れなかった責任は、私にあります」
会場が静まり返る。
「私は……聖女様を道具のように扱ってしまいました」
枢機卿の声が震える。
「休ませることもなく……ただ、働かせ続けた」
「枢機卿様……」
「だから……聖女様は逃げられたのです」
涙が零れた。
「全て……私の責任です」
*
人々は、呆然としていた。
「枢機卿が……泣いている……」
「まさか、そこまで……」
「聖女様……どれだけ辛かったんだ……」
やがて、一人の女性が言った。
「私たちも……悪かったのかもしれない」
「え?」
「だって、私たち……何でも聖女様に頼んでたじゃない」
女性は俯いた。
「病気も、豊作も、何もかも」
「それは……」
「聖女様だって、人間なのに」
女性は涙を流した。
「休む時間も与えず……ただ、奇跡を求め続けた」
*
その言葉が、人々の心に突き刺さった。
「俺たちも……」
「聖女様を……追い詰めたのか……」
罪悪感が広がっていく。
「どうすればいいんだ……」
「もう、奇跡は起きないのか……」
絶望が、街を覆う。
その時――。
「待ってください!」
若い神官が前に出た。
「私たちには、まだできることがあります!」
「できること……?」
「はい!」
神官は力強く言った。
「奇跡がなくても、私たちは生きていけます!」
*
「何を言って……」
「聞いてください!」
神官は続ける。
「昔は、聖女様なんていませんでした。それでも、人は生きてきたんです!」
「それは……そうだが……」
「なら、また自分たちの力で生きればいい!」
神官の声が響く。
「病気なら、医者に頼る。畑なら、自分たちで耕す。水なら、井戸を掘る!」
「でも……」
「確かに大変です。時間もかかります」
神官は真剣な顔で言った。
「でも、できないことじゃない!」
*
人々は、顔を見合わせた。
「そういえば……俺の爺さんは、奇跡なしで畑を耕してたな」
「うちの婆さんも、薬草で病気を治してた」
「昔の人は……すごかったんだな」
少しずつ、希望が生まれ始める。
「なら……俺たちにもできるか?」
「やってみるしかないだろう」
「ああ……そうだな」
人々が、前を向き始めた。
*
枢機卿は、その様子を見て微笑んだ。
「そうか……これが、聖女様が望んでいたことなのかもしれない……」
隣にいたミナが言った。
「きっと、そうです」
「ミナ……」
「リゼル様は……人々が自分で生きることを望んでおられました」
ミナは遠くを見た。
「だから、逃げられたんです」
「なるほど……」
枢機卿は深く頷いた。
「なら、私たちは……彼女の意志を尊重しなければならない」
*
その日から、聖堂は変わり始めた。
神官たちが街に出て、人々を手伝うようになった。
病人の看護。
畑仕事の手伝い。
井戸掘りの支援。
「奇跡は起こせません。でも、手はあります」
神官たちの言葉に、人々は涙した。
「ありがとう……」
「いえ、当然のことです」
新しい絆が、生まれ始めていた。
*
一方、リゼルは村を出て、再び旅を続けていた。
「あと一日……」
故郷まで、あと一日。
「もうすぐ……」
疲れた体を引きずりながら、歩き続ける。
その時、背後から馬のいななきが聞こえた。
「!」
リゼルは振り返る。
そこには――聖騎士団の旗を掲げた馬車。
「まずい……!」
リゼルは慌てて、道脇の茂みに隠れた。
*
馬車が通り過ぎる。
中から、騎士たちの会話が聞こえる。
「聖女様は、この辺りを通られたはずだ」
「早く見つけないと」
「ああ。枢機卿様の命令は絶対だ」
リゼルの心臓が早鐘を打つ。
「見つかったら……」
連れ戻される。
また、あの地獄に。
「嫌だ……」
リゼルは拳を握りしめた。
「絶対に……嫌だ……」
*
馬車が遠ざかるのを待って、リゼルは茂みから出た。
「もう、街道は使えない……」
森の中を行くしかない。
「迂回して……」
リゼルは森に入った。
木々が鬱蒼と茂り、道なき道を進む。
「大丈夫……もう少し……」
必死に歩く。
でも、足が重い。
「もう……限界……」
木の根に足を取られ、転ぶ。
「っ……!」
手のひらを擦りむく。
「痛い……」
血が滲む。
�*
その時、頭上から声がした。
「大丈夫?」
「!」
リゼルは顔を上げる。
木の枝に、少年が座っていた。
十歳くらいだろうか。
「君……誰?」
「俺? この森に住んでるんだ」
少年はひょいと飛び降りた。
「怪我してるね。見せて」
「え、ええ……」
少年はリゼルの手を取り、葉っぱで血を拭った。
「この葉っぱ、止血効果があるんだ」
「そうなの……?」
「うん。ばあちゃんに教わった」
少年は笑った。
「ねえ、どこ行くの?」
「え……その……」
「逃げてるの?」
少年の鋭い質問に、リゼルは動揺した。
「な、なんで……」
「だって、怯えた顔してるもん」
少年は真剣な顔で言った。
「大丈夫。俺、誰にも言わない」
*
リゼルは、少し考えて――。
「……うん。逃げてる」
正直に答えた。
「やっぱり。何から?」
「仕事……かな」
「仕事? 大人って大変だね」
少年は首を傾げた。
「でも、逃げていいの?」
「……分からない」
リゼルは俯いた。
「でも、逃げないと……壊れちゃうから」
「壊れる?」
「うん。心が、体が……全部」
リゼルの目に涙が浮かぶ。
「だから……逃げた」
*
少年は、しばらくリゼルを見つめていた。
そして――。
「いいと思うよ」
「え?」
「逃げること。壊れるくらいなら、逃げた方がいい」
少年は笑った。
「ばあちゃんが言ってた。『生きることが一番大事』って」
「生きること……」
「うん。だから、逃げていいんだよ」
少年の言葉が、リゼルの心を温めた。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
少年は手を差し出した。
「俺、レオ。君は?」
「リゼ……」
リゼルは一瞬迷ったが――。
「リゼルよ」
「リゼル。いい名前だね」
*
「ねえ、リゼル」
「何?」
「どこ行くの?」
「南の村」
「南? じゃあ、俺の家の方だ」
レオは目を輝かせた。
「案内してあげる!」
「本当? でも、迷惑じゃ……」
「迷惑じゃないよ。森の道、危ないし」
レオは歩き出した。
「ついてきて」
「ありがとう、レオ」
リゼルは立ち上がり、レオの後を追った。
*
森の中を歩きながら、レオは色々話してくれた。
「あの木はね、実がなるんだ。秋になると甘くて美味しいよ」
「へえ」
「それから、あっちの川には魚がいっぱい」
「楽しそうね」
「うん! 森って楽しいよ」
レオの無邪気な笑顔が、リゼルの心を癒した。
「レオは……学校とか行かないの?」
「学校? ないよ、この辺には」
「そうなの……」
「でも、ばあちゃんが字を教えてくれる」
レオは誇らしげに言った。
「俺、もう本が読めるんだ」
「すごいわね」
「へへ」
*
やがて、森を抜けた。
そこには、小さな村が見えた。
「あれが、俺の村」
「ありがとう、レオ。助かったわ」
「ううん。楽しかったよ」
レオは笑った。
「リゼル、元気でね」
「レオも」
二人は手を振り合って、別れた。
*
村に入ったリゼルは、小さな宿屋を見つけた。
「ここで……一晩」
宿屋に入り、部屋を借りる。
ベッドに倒れ込む。
「疲れた……」
でも、心は軽かった。
「レオに会えて……良かった」
あの少年の笑顔が、リゼルに希望を与えてくれた。
「子供は……純粋ね」
窓の外を見る。
夕日が沈んでいく。
「明日……故郷に着く」
リゼルは目を閉じた。
「もう少し……」
そして、安らかに眠りについた。
(第10話・終)




