第1話 聖女はもう疲れました
目の前が白く霞む。
膝が震える。
リゼル・アルティナは祈りの最中、静かに崩れ落ちた。
「聖女様ッ!」
誰かの叫び声が遠くに聞こえる。
大理石の床に倒れ込んだ彼女の視界に映るのは、ステンドグラスから差し込む夕日の残光だけだった。
ああ、綺麗――。
そんなことを思う余裕があるなんて、自分でも驚いた。
五年間、一度も休まず働き続けた聖女は、ようやく"眠る理由"を手に入れた。
「リゼル様、しっかりしてください!」
補佐官のミナが駆け寄り、リゼルの肩を揺さぶる。
だが、リゼルの意識はもう遠い。
眠りたい。
ただ、眠りたい――。
それだけを願って、彼女は目を閉じた。
*
リゼルが目を覚ましたのは、それから半日後のことだった。
「……ここは」
白い天井。消毒薬の匂い。
聖堂付属の医療室だと、すぐに分かった。
「お目覚めですか、聖女様」
低く威厳のある声が響く。
枢機卿エルヴィン・グラントが、ベッドの脇に立っていた。
「枢機卿様……すみません、倒れてしまって」
「いえ、構いません」
枢機卿は穏やかに微笑んだ。
だが、その目は笑っていない。
「少し、お休みになられたほうがいいでしょう」
「はい……」
「ただし」
枢機卿の声が冷たくなった。
「明後日の王族祝福式には、必ず出席していただきます」
リゼルの心臓が跳ねた。
「で、でも……」
「それから、来週の豊穣祭。再来週の辺境巡礼。全てあなたにしか行えない儀式です」
枢機卿は手元の書類を見ながら続ける。
「聖女様、あなたは神に選ばれた特別な存在。その責任の重さは、私などには計り知れません」
その言葉の裏にある意味を、リゼルは痛いほど理解していた。
――だから、休むな。
――お前の体調など、どうでもいい。
――働き続けろ。
「分かって……います」
リゼルは掠れた声で答えた。
「必ず、務めを果たします」
「それでこそ聖女様だ」
枢機卿は満足そうに頷き、部屋を出ていった。
扉が閉まった瞬間、リゼルは枕に顔を埋めた。
涙は出なかった。
もう、涙を流す気力さえ残っていない。
「私は……何のために生きているんだろう」
誰にも聞かれない独り言が、虚しく響いた。
*
リゼルが"聖女"として覚醒したのは、五年前のことだ。
村の小さな教会で祈りを捧げていた時、突然体が光に包まれた。
そして、神の声が聞こえた。
『汝、選ばれし者なり。その力を以て、人々を救いなさい』
最初は嬉しかった。
自分が特別な存在として認められた。
困っている人を助けられる。
でも、現実は違った。
奇跡は"業務"だった。
申請書を処理し、スケジュールをこなし、評価され、要求される。
「リゼル様、次の予定です」
ミナが扉を開け、また新しい書類の束を持って入ってくる。
「午前十時、商業組合の豊作祈願。十一時、貴族子息の病気治癒。午後一時、王太子殿下との会食――」
「待って」
リゼルは手を上げた。
「今日はもう、何も入れないで」
「ですが、枢機卿様が『聖女の予定は神のご意志より優先されるべきではない』と」
「神のご意志……」
リゼルは自嘲気味に笑った。
「神様は、私に休めって言ってくれないのかな」
「リゼル様……?」
「ううん、何でもない」
リゼルは首を振った。
「分かった。全部やるわ」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
嘘だった。
全然大丈夫じゃない。
でも、断ったら――。
枢機卿に何を言われるか。
神に見捨てられるんじゃないか。
人々に恨まれるんじゃないか。
そんな恐怖が、リゼルの心を縛っていた。
*
その日の午前十時。
リゼルは商業組合の前に立っていた。
「聖女様、今年もよろしくお願いします!」
「豊作の祝福を!」
商人たちが口々に頼み込む。
リゼルは笑顔を作り、両手を掲げた。
「神よ、この地に豊穣を」
体から光が溢れ出す。
畑が光に包まれ、作物が一斉に芽吹く。
「おお……! ありがとうございます、聖女様!」
商人たちが歓声を上げる。
でも、その声がリゼルには遠かった。
頭が割れるように痛い。
視界が霞む。
「聖女様、次は――」
「ちょっと、待って」
リゼルはその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫……少しめまいがしただけ」
嘘だ。
全然大丈夫じゃない。
でも、立ち上がらなきゃ。
次の予定がある。
次も、その次も――。
「聖女様、無理なさらず……」
「大丈夫です」
リゼルは強引に笑顔を作った。
「次、行きましょう」
ミナが心配そうに見ている。
でも、彼女も何も言えない。
それが、この世界のルールだった。
*
午後三時。
王城での会食を終えたリゲルは、ようやく執務室に戻ってきた。
「疲れた……」
椅子に座り込む。
机の上には、また新しい"奇跡申請書"が山積みになっていた。
「これ、全部……?」
「はい。明日までに処理をお願いします」
ミナが申し訳なさそうに言う。
「三十件ほどございます」
「三十件……」
一件処理するのに、平均三十分。
つまり、十五時間。
「今日中には終わらないわね」
「徹夜、ですね……」
「うん」
リゼルは深く息を吐いた。
「コーヒー、淹れてくれる?」
「はい、すぐに」
ミナが部屋を出ていく。
一人になった執務室で、リゼルは窓の外を見た。
夕日が沈んでいく。
人々は仕事を終えて、家に帰っていく。
「いいな……」
呟いた瞬間、涙が零れた。
「私も……帰りたい」
でも、ここが私の"職場"。
そして、聖女に"休日"なんてない。
「神様……」
リゼルは天井を見上げた。
「どうして、私を選んだんですか」
答えは返ってこない。
神は、いつも沈黙している。
*
その夜、リゼルは徹夜で申請書を処理した。
病気治癒の祈り――二十三件。
豊穣の祝福――五件。
浄化の儀式――二件。
全て、機械的にこなしていく。
「これで……二十九件」
あと一件。
最後の申請書を手に取った瞬間、リゼルの手が震えた。
『辺境伯家・三女の難病治癒のお願い』
内容を読む。
『娘は生まれつき心臓が弱く、もう長くはもちません。どうか、聖女様の奇跡で救ってください』
リゼルの胸が締め付けられた。
「また……子供……」
子供の治癒は、最もエネルギーを使う。
今の状態でやったら、また倒れるかもしれない。
でも――。
「やらなきゃ……」
リゼルは立ち上がった。
ふらつく足で、祈祷室へ向かう。
*
祈祷室の中央に跪き、リゼルは祈りを始めた。
「神よ、どうか……この子に……」
体から光が溢れ出す。
だが、いつもより弱い。
「もっと……もっと――!」
無理やり力を絞り出す。
頭が割れそうに痛い。
「お願い……!」
光が強くなる。
遠く離れた辺境の地で、少女の心臓が光に包まれる――。
そして。
「――っ」
リゼルの意識が途切れた。
*
翌朝、リゼルを発見したのはミナだった。
「リゼル様! リゼル様!」
祈祷室の床に倒れている聖女。
その顔は、真っ青だった。
「誰か! 医者を!」
ミナの悲鳴が聖堂中に響き渡る。
リゼルは再び、医療室に運ばれた。
*
目を覚ました時、枢機卿がまた立っていた。
「聖女様、ご無理をなさらないでください」
優しい言葉。
でも、その目は冷たい。
「ただし」
やはり、その言葉が続く。
「明日の王族祝福式には――」
「――嫌です」
リゼルは初めて、拒否した。
「え……?」
枢機卿の目が見開かれる。
「嫌です。もう、無理です」
リゼルは震える声で言った。
「私……もう、疲れました」
「何を言って……」
「限界なんです。このままじゃ、私……壊れちゃう」
涙が溢れた。
「お願いです。少しだけ、休ませてください」
長い沈黙。
そして、枢機卿は冷たく言い放った。
「甘えないでください」
「え……」
「あなたは神に選ばれた聖女です。疲れたなどと言うことは、神への冒涜です」
リゼルの心が凍りついた。
「そんな……」
「明日の儀式には、必ず出席してください。以上です」
枢機卿は背を向けて、部屋を出ていった。
*
一人残されたリゼルは、ベッドの上で膝を抱えた。
「もう……やだ……」
小さく呟く。
「もう……無理……」
心が、音を立てて壊れていく。
「私……どうすればいいの……」
その時だった。
窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえた。
リゼルは顔を上げる。
窓辺に、白い小鳥が止まっていた。
その羽は淡く光っている。
「あなたは……」
小鳥はリゼルを見つめ、そして飛び去った。
その姿を見送りながら、リゼルは思った。
――私も、飛んでいきたい。
この檻から、逃げ出したい。
「……そうだ」
リゼルは静かに立ち上がった。
「逃げよう」
その決意が、全てを変える。
(第1話・終)