【ホラー】溶けない氷
【ホラー】溶けない氷
第一章:それは、ただの氷だった
水上の空は、どこまでも白く、音がない。
雪は止んでいた。けれど、街を包む湿った冷気は、まだその季節の名残を手放そうとはしていない。
城戸理恵は、部屋の中で横になっていた。
高熱にうなされながら、何度も咳をしている。枕元には咳止めのシロップ。
その横に置かれたグラスの中には、水と、いくつかの氷。
理恵はゆっくりと右手を伸ばし、氷をひとつ、指先でつまんだ。
――ポリッ。
小さな音が、部屋の静寂を揺らす。
それは、氷を噛む音。
彼女にとっては、もう何年も続けてきた“当たり前の動作”だった。
薬の後味を消すための、ささやかな癖。
誰にも理解されないそのこだわりを、彼女は自分の中だけで守っていた。
そして、再び布団の中に沈み込む。
やがて――そのまま、城戸理恵が目を覚ますことはなかった。
第二章:捜査の始まり
警察が城戸家に到着したのは、午前九時を過ぎた頃だった。
隣近所の雪かきが一段落し、通報を受けた巡査が現場を確認すると、異変は明白だった。
「これは……ちょっと、事故ではないかもしれませんね」
警察は念のため、地元の司法解剖チームに連絡するとともに、民間協力者として榊原 信を呼び寄せた。
榊原は黒のコートに身を包んだ、静かな男だった。感情をあまり表に出さず、言葉は少ない。
けれど、その目は周囲の空気さえ見通すように鋭い。
2階の寝室に入り、彼はすぐに“それ”に気づいた。
「……あれ、まだ氷が残っているんですか?」
枕元のグラスには、少量の水。
そして――氷がひとつ、形を保ったまま浮かんでいた。
暖房が入っていた室内では、すでに他の氷は完全に溶けている。
にもかかわらず、そのひとつだけが“生き残って”いた。
「妙ですね。普通の氷なら、とっくに水に還っているはずですが……」
榊原はグラスを光にかざし、氷の質感を目で追った。
透明で、整った形。小さな気泡が内部に残っているようにも見える。
しかし、それは冷凍庫から取り出された普通の氷とは、どこか違っていた。
グラスに残された水に、甘いような、微かに薬臭い香り。
傍らには、咳止めシロップの瓶が置かれている。
「薬を飲んだあと、この氷を口に含んだ……というわけですね」
城戸悠馬――理恵の弟は、階下で警官に付き添われながら説明していた。
「姉ちゃん、いつも薬のあと、氷をひとつ噛んでたんです。
それが癖で……“これがないと落ち着かない”って」
「それは、どのくらい前から?」
「子どもの頃から、だと思います。
姉ちゃん、飲み薬が苦手だったんで、氷で“口直し”してたら、そのまま習慣になったって」
榊原は無言で頷く。
薬のあとに氷――その行為は、一見なんの変哲もない日常だ。
だが、そこに“仕組まれたもの”があるとすれば?
誰よりも姉の癖を知っていた人物。
そして、そのタイミングを正確に読める人物。
榊原は、グラスの氷をもう一度見つめた。
その表面は、**溶けていないのではなく、“溶けることを拒んでいる”**かのようだった。
第三話:記憶の中の弟
調査の合間、菜々子――理恵の旧友が、ぽつりと語る。
「理恵って、責任感が強すぎるくらいだったんですよ。
弟さんのことも、“私がちゃんとしないと”って、ずっと……」
ふと、彼女は懐かしむように笑った。
「小学生のころの悠馬くん、雪の中で遊ぶのが好きで……かまくら作ったり、雪玉投げたり。
でも、姉ちゃんの前だと、ぜんぶ黙っちゃうんですよね。
ただ、目だけは……姉の言葉を待ってる、そんな感じで」
その記憶は、雪の中の静寂と重なる。
音もなく降り積もる想いは、やがて――形になってしまうのかもしれない。
第四章:冷凍庫の違和感
榊原は、冷凍庫の扉をゆっくりと開いた。内部から、白く冷たい気配が押し寄せる。
その中に、いくつかの氷にまぎれて“別のもの”が存在していた。
指でつまむと、それは普通の氷よりわずかに硬く、しかし冷たすぎた。
見た目は美しい。気泡すらない、完璧な透明。
「これは……氷じゃない」
榊原の表情が微かに曇った。
彼は簡易検査機を取り出し、表面をこすり、カートリッジに挿入する。
数秒後、液晶に結果が表示された。
《成分検出:エチレングリコール系化合物/毒性あり》
やはり、中空構造の樹脂製“擬似氷”だった。
「噛んだ時点で、中から毒物が滲み出す構造……」
榊原は表面をライトにかざす。
「比重は約0.91。水より軽い。だから、グラスに入れれば――浮く」
さらに榊原は、冷凍庫の中の氷を数えた。
普通の氷が3個、偽の氷が2個。
この数が語っていた。
犯人は、最後まで迷っていた。
第五章:告白
榊原と悠馬は、リビングの椅子に向かい合って座っていた。
「殺意がなかったと言うなら、なぜ“それ”を作った?」
榊原の問いに、悠馬は黙り込んだ。
けれど、やがて――ゆっくりと口を開いた。
「……怖かったんだ。姉ちゃんが、俺を置いていくって言ったとき。
“これからは自分の人生を考える”って、笑って……」
「俺の中では、ずっとあの人が“世界”だった。でも、その世界が急に消えるようなこと言われたら……俺、何も残らないと思った」
榊原は言葉を挟まず、
ただ、話を聞いていた。
「本当に、あの氷を入れるつもりじゃなかった。
最後まで手が止まってて、
一度は普通の氷を3つ入れて、やめようとした」
声が震える。
「でも、俺、手が勝手に――
最後の1つの“それ”を、グラスに、落としたんです」
「姉ちゃんが、噛んだときの音。
あの“カチリ”って音、俺、一生忘れられない……」
第六章:春の音と、溶けない氷
数日後。
菜々子が静かに遺品をまとめる中、榊原はひとつのケースを手にしていた。
中には、もうひとつ残っていた“擬似氷”。
それをそっと窓辺に置く。
外では、雪解け水が、屋根からポタリ、ポタリと音を立てていた。
「ねえ、理恵。
あの氷も……いつか本当に、溶けてくれるのかな」
榊原はそれを黙って見つめながら、城戸家を出た。呟くように、
「雪はやがて水になる。水は空にのぼり、雲になって――
また、雪になるかもしれない。
でも、“溶けないまま”の想いも、確かに存在するんだろうな」
◆完◆