パンダと目が合う電車の中
私と同じTシャツを着ている人が目の前にいた。人で混み合った電車の中。運良く椅子に座れた私は、スマホを触って、友達にLINEを返している最中だった。
「今、起きた」「おそ」と、テンポよく、中身のない会話をしていた。背中に当たる陽の光があたたかく、目を閉じたら、そのまま眠ってしまいそうだった。
そしたら、急に「知佳は死にたいって思ったことある?」とLINEが届いた。何の前触れもなく、話題が変わった。緊張感が走る。
これは真面目な回答をしなきゃだなと思って、気合いを入れるために背筋を伸ばした。目の前に立っていたお兄さんの、Tシャツのワンポイントマークに目が引き寄せられる。
そこには、丸っとしたフォルムのパンダが描かれていた。私とお揃いだ。
えっ。嘘。恥ずかしい。死についての考えが、一瞬にして頭から消えた。
私は、パンダが描かれたTシャツの上から、シアー素材の黒ブラウスを羽織っていた。お兄さんはTシャツ1枚で着ている。
センスが良いと思って選んだ、パンダのTシャツを着ているのが急に恥ずかしくなった。近くにいる、お姉さん二人がくすくすと囁き合っている。会話の内容に笑っていただけだと思うけど、私たちのことを馬鹿にしていたらどうしよう。
恥ずかしいを通り越して腹が立ってきた。私は今から友達の『死にたいって思ったことある?』の質問に真面目に答えなければならないのに。
ネットに書いてあるような、ありふれた文章ではなく、自分の言葉で伝えなければならない。それなのに、お兄さんのパンダが私の気持ちを台無しにさせた。目の前の人とTシャツがお揃いだという事実に圧倒されて、友達に対する気持ちの余裕がなくなる。
今までチェックのスカートを履いていても、水色のカーディガンを着ていても、街で同じ服を着ている人を見かけたことはなかった。なのに、今こうして偶然引き寄せあっているのは、どうしてだろう。偶然に過ぎないと思うけど、理由を見つけたくなる。
パンダ同士の目と目が合う。野生のパンダだったら、取っ組み合いの喧嘩をすることもあるのだろうか。穏やかな性格をしているように見えるけど、身の危険を感じたら、牙を剥き出して、相手にかかっていくこともあるのかもしれない。私は羽織っていた黒いブラウスの襟元を、さりげなく真ん中に引き寄せて、パンダを見えにくくした。
LINEの文面を考えてみる。「死にたいと思ったことかぁ。何かやらかしたり、夜ずっと起きている時は、少し思うこともあるかも」うん。これはどうだろう。嘘ではないし、凛子の話を否定してもいない。
だけど、ナイーブな話題だからヘマしないように、電車を降りた後に送ろう。周りに人がいると、どうしても焦ったような文面になってしまう。テキトーに書いたものだと知ったら「あぁ、この人に相談するのは次からやめておこう」と心の中で線引きをされてしまう。
私はスマホをしまって、まっすぐ前を見た。
パンダのTシャツを着ている人同士が偶然出会う確率って何%くらいなんだろう。しかも、このTシャツは、あまり名が知られていない通販サイトで買ったものだ。偶然にしては出来すぎている。
あっ。そういえば、この路線には、動物園の近くにとまる駅がある。そこにはパンダもいる。
もしかすると、お兄さんの目的地はそこかもしれない。動物園に行くために、パンダTシャツを選んで着てきたんだ。
アイドルのコンサートにうちわを持っていく人がいるように、パンダに会う時にパンダのTシャツを着る人がいてもいいよね。
車内が派手に揺れると、誰も触っていない吊り革も右左に大きく動く。私のパンダは、半分以上黒いブラウスに隠れている。もう普通のTシャツを着ていると言っても過言ではなかった。
結論から言えば、お兄さんは動物園がある駅では降りなかった。微動だにせず、窓から見える景色をじっと眺めている。……どこで降りるんだろう。そんな陽気なTシャツを着て。
拍子抜けした私は、お兄さんの代わりに電車を降りた。急遽、予定を変更して、今からパンダを見に行くのも良いかもしれない。
ひとまず目についたベンチに座り、スマホを取り出した。凛子に先ほど考えたLINEメッセージを添削しながら送る。
その後、「今暇? せっかくなら動物園に行かない?」と続けて送った。私は黒いブラウスをずらして、パンダを見せる形にした。目をつぶると、涼しさを感じる風が肌にやさしく触れた。
返信が来るまで、ここでのんびりしていようかな。動物園にいるパンダは、今頃何をしているだろう。良い天気だから、もしかしたら寝ているかもしれない。パンダは死について考えることがないだろう。その分、いつでも笹を美味しく食べられるのは良いなぁと、頭の中のパンダに向かって嫉妬した。