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●5日目:地獄の釜から湧き出る希望 ~登別、魂の温泉郷へ~

 朝靄が晴れ始めた余市の空の下、真中清風と水上爽香は、民宿「海の宿」を後にした。清風のメタリックレッドのロードバイクと、爽香のパールブルーのクロスバイクが、朝日に輝いている。


「爽香、今日は余市から登別まで180キロだ。硫黄の香りに包まれる温泉地獄谷が待ってるぞ!」


 清風の声には、冒険心が滲んでいた。


「うん! 登別に行ったら寄りたいところがあるの」


 爽香は地図を指さした。そこには「のぼりべつクマ牧場」と書かれていた。


 二人は軽やかなペダリングで、余市の街を後にした。やがて、見渡す限りの果樹園が広がる丘陵地帯に差し掛かる。


「わぁ、清風見て! りんごの花が満開だよ」


 爽香が歓声を上げた。一面に広がる薄紅色の花々が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。


「綺麗だな。まるで春の雪みたいだ」


 清風も感動した様子で言葉を漏らす。二人は自転車を止め、しばし景色を楽しんだ。甘い花の香りが鼻をくすぐり、ミツバチの羽音が耳に心地よい。



 クマ牧場に到着すると、意外な光景が二人を迎えた。


「えっ、こんなに近くでクマが見られるの?」


 爽香が目を丸くする。柵越しではあるが、大きな体のヒグマが悠々と歩き回っている。


「ヒグマは北海道の象徴的な動物だからね。でも、こんなに間近で見るのは初めてだ」


 清風も驚いた様子で言った。


 突然、クマの一頭が二人の方を向いて立ち上がった。その迫力に、思わず二人は後ずさりする。


「きゃっ!」


 爽香が清風の腕にしがみついた。


「大丈夫だよ、柵があるから」


 清風が爽香を抱きしめる。その瞬間、クマは前足を振り上げ、まるでダンスをするように動き始めた。


「あれ? なんだか……可愛い?」


 爽香が恐る恐る顔を上げる。クマの愛嬌のある動きに、二人は思わず笑みがこぼれた。


 牧場を後にした二人は、再び自転車に乗って登別市内へと向かう。道中、緑豊かな山々と青い海岸線が交互に現れ、絶景の連続だった。


 昼頃、二人は小さな漁村に差し掛かった。


「ふう……お腹が空いたね」


 清風が言う。


「あ、あそこ! 地元の人で賑わってる食堂があるよ」


 爽香が指さす先には、小さな食堂があった。二人は自転車を停め、中に入った。


「いらっしゃい! 珍しい顔だねぇ」


 年配の女将さんが笑顔で迎えてくれた。


「今日のおすすめは何ですか?」


 清風が尋ねると、女将さんは目を細めた。


「そうだねぇ、あんたたち自転車で来たんだろ? だったら、うちの特製『漁師の力飯』がいいよ。体力つくからね」


 二人が頷くと、程なくして大きな丼が運ばれてきた。炊き込みご飯の上に、新鮮な魚の刺身、焼き魚、そして季節の山菜が彩り豊かに盛り付けられている。


「うわぁ、すごい!」


 爽香が目を輝かせる。一口食べると、海の幸と山の幸が口の中で調和し、驚くほど美味しい。


「こりゃすごいや。こんな美味しい料理が食べられるなんて、自転車旅の醍醐味だね」


 清風も感動した様子で言う。


 食事を終え、再び自転車に乗った二人。しかし、数キロ走ったところで、突然爽香の自転車から異音がした。


「あれ? なんか変な音がする……」


 爽香が不安そうに言う。清風が確認すると、チェーンが外れかけていた。


 道路脇の木陰で、清風は爽香の自転車を上下逆さまにして置いた。熱心な眼差しで自転車のメカニズムを見つめる清風の姿に、爽香は釘付けになった。


「大丈夫、すぐに直せるよ」


 清風の声には自信が満ちていた。彼はポケットから小さな工具セットを取り出し、手際よく必要な道具を選び始めた。


 爽香は、清風の動きを食い入るように見つめていた。彼の手つきは慣れており、まるでプロの整備士のようだった。清風はまず、チェーンの外れた部分を丁寧に拭き取り、潤滑油を軽く塗布した。


「清風。すごい手慣れてるね」


 爽香が感心した様子で声をかけた。


 清風は作業を続けながら微笑んで答えた。


「ああ。自転車って、ちょっとした知識があれば自分で直せることが多いんだ」


 彼の手がチェーンを巧みに操り、歯車にかけていく。その動きは流れるように滑らかで、まるで芸術作品を作り上げているかのようだった。


 爽香は清風の横顔を見つめていた。真剣な表情、集中した眼差し、そして自信に満ちた態度。それらすべてが、彼女の心を熱くさせていった。


「よし、これでOKだ」


 清風が満足げに言った。彼は立ち上がり、ペダルを回してチェーンの動きを確認する。


 爽香は思わず拍手をした。


「すごい! まるでプロの整備士みたい」


 清風は照れくさそうに頭を掻きながら答えた。


「いや、そんな大したことじゃないよ。爽香の自転車がちゃんと直って良かった」


「ねえ、清風」


「ん? どうした?」


「私ね、清風のそういうところが大好き。何があっても冷静で、すぐに対応できる。私も見習わなきゃね」


 清風は少し照れくさそうに笑った。


「いや、爽香だって十分すごいよ。いつも前向きで、周りを明るくする。それに、こうして僕の足りないところを言葉にしてくれる。お互い、補い合えてるんだと思う」


 二人は顔を見合わせ、笑顔になった。


 夜になって登別に到着。遠くから硫黄の匂いが漂ってくる。


「あれが地獄谷かな?」


 爽香が指さす先には、白い湯気が立ち上っていた。


「ああ、まるで地獄の釜みたいだね」


 清風が答える。しかし、その表情は恐れではなく、興奮に満ちていた。


 地獄谷に近づくにつれ、周囲の景色が一変する。赤茶けた地面、立ち上る白い湯気、そしてあちこちから聞こえるゴボゴボという音。


「うわぁ……まるで別世界ね」


 爽香が息を呑む。


「ここが『鬼山地獄』か。温泉の源泉があるんだよね」


 清風が説明を加えた。


 二人は自転車を降り、遊歩道を歩き始めた。様々な色や形の噴気孔、鮮やかな青緑色の池、そして至る所から立ち上る湯気。その光景は、まさに地獄そのものだった。


「ねえ清風、怖いけど……なんだか心が洗われるような気がする」


 爽香がつぶやく。


「そうだね。ここは地獄と呼ばれてるけど、実は再生の場所なのかもしれない」


 清風の言葉に、爽香は深く頷いた。


 二人は温泉宿「地獄の釜」にチェックインした。露天風呂に浸かりながら、今日の出来事を振り返る。


「ねえ清風、今日一日どうだった?」


 爽香が尋ねた。清風は少し考えてから答えた。


「正直、予想以上に大変だったよ。でも、クマとの出会い、漁村での食事、そして今このお湯。全てが新鮮で、心に残る体験だった」


 爽香は清風の手を握った。


「私もよ。特に、チェーンが外れた時の清風の姿。あの時、改めてあなたのことを好きになったわ」


 二人は顔を見合わせ、優しく微笑んだ。湯けむりに包まれながら、静かに寄り添う。窓の外では、夕暮れの空に地獄谷の湯気が立ち上り、幻想的な風景を作り出していた。



 夜も深まり、二人は地元の居酒屋に繰り出した。

 店内は、仕事帰りのサラリーマンや観光客で賑わっている。


「いらっしゃい! お二人さん、どこからいらしたの?」


 女将さんが親しげに話しかけてきた。


「余市から自転車できたんです。日本縦断の旅の途中なんです」


 爽香が答えると、店内がざわめいた。


「まあ! それは大変だったでしょう。こりゃあ、登別の特産品をいっぱい食べて、元気つけていかなきゃね!」


 女将さんが笑顔で言うと、登別牛の炭火焼きと、地元の日本酒が運ばれてきた。


 肉を口に運ぶと、柔らかな食感と濃厚な旨味が広がる。日本酒は、ほのかに硫黄の香りがするが、不思議とマッチしている。


「ねえ、お二人さん」


 隣の席の年配の男性が話しかけてきた。


「登別には、こんな言い伝えがあるんだよ。地獄の釜の蓋が開いて、鬼が出てくる。でもね、その鬼は悪さをする鬼じゃなくて、人々の心の中にある邪念を祓う鬼なんだ」


 清風と爽香は興味深そうに聞き入った。


「つまりね、ここで温泉に入って、おいしいものを食べて、心も体も洗い清められるってわけさ」


 男性の話を聞いて、二人は顔を見合わせた。


「なるほど、だから地獄なのに、みんな笑顔なんですね」


 清風が感心した様子で言う。


「そうそう。君たちも、旅の疲れを癒して、新しい自分に生まれ変わるといい」


 男性の言葉に、二人は深く頷いた。



 その夜、宿に戻った二人は部屋の窓から夜の地獄谷を眺めていた。月明かりに照らされた湯気が、神秘的な雰囲気を醸し出している。


 窓の外では、登別の夜空に輝く星々が、二人の旅の無事を祈るかのように、静かに瞬いていた。硫黄の香りと森の香りが混ざる風が、そっと窓を通り抜けていった。それは、まるで明日への希望を運んでくるかのようだった。


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