●4日目:果実の香りと醸造の調べ ~余市へ~
まだ朝陽も登っていない夜と早朝の境、真中清風と水上爽香は余市に向かっていた。
「爽香、今日は富良野から余市まで160キロだ。かなりハードだけど頑張ろう!」
清風の声には、挑戦への期待が滲んでいた。
「了解! 私、昨日の美瑛牛ステーキでパワー全開よ!」
爽香は明るく笑いながら答えた。その笑顔に、清風の心も軽くなる。
二人は軽やかなペダリングで、美瑛の街を後にした。やがて、なだらかな丘陵地帯が広がり始める。朝露に濡れた草原が、朝日に輝いて美しい。
「ねえ清風、あそこに見える花畑、素敵! 写真撮ってもいい?」
爽香が興奮気味に声を上げた。
「もちろんさ。僕も一緒に撮ろう」
清風は優しく微笑んだ。二人は自転車を止め、花畑をバックに写真を撮った。爽香の笑顔と、色とりどりの花々が、朝日に照らされて輝いている。
道中、二人は美しい風景に何度も足を止めた。ラベンダー畑の紫色のじゅうたん、黄金色に輝く麦畑、そして遠くに見える日本海。北海道の大自然が、二人の心を癒していく。
昼頃、二人は小さな峠に差し掛かった。
「ふう……結構きついな」
清風が少し息を切らしながら言う。
「でも、頂上に着いたら絶対に素敵な景色が待ってるはず!」
爽香の前向きな言葉に励まされ、清風も再び力強くペダルを踏み始めた。
頂上に到着すると、二人の目の前に予想以上の絶景が広がった。遠くに日本海が見え、その手前には果樹園が広がっている。青い空と白い雲、そして緑の大地が織りなす風景は、まさに絵画のようだった。
「うわぁ……」
二人は同時に息を呑んだ。言葉を失い、ただその景色に見入る。風に乗って、果実の甘い香りが漂ってくる。
「清風、あれが余市の果樹園かな? りんごの香りがしてきたわ」
爽香の目が輝いていた。清風は静かに頷き、爽香の肩に手を置いた。
「ああ、きっとそうだ。余市は果物の名産地だからね。これから楽しみが増えたよ」
二人は長い間、その絶景を眺めていた。やがて、清風が腕時計を見て言った。
「そろそろ行こうか。ニッカウヰスキー余市蒸溜所まではまだ距離があるからな」
爽香は少し名残惜しそうにしながらも、頷いた。
下り坂を進む爽快感と、目の前に広がる果樹園の風景。二人の心は高揚感に満ちていた。
午後、二人はニッカウヰスキー余市蒸溜所に到着した。レンガ造りの建物が、威風堂々と立っている。
「わぁ、まるでスコットランドにタイムスリップしたみたい!」
爽香が感動した様子で声を上げた。
「ああ、ウイスキーの父と呼ばれた竹鶴政孝さんが、本場さながらの蒸溜所を作ったんだよ」
清風が説明を加えた。
二人は自転車を降り、蒸溜所の見学ツアーに参加することにした。ガイドの女性が、にこやかに二人を迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お二人は自転車旅行中ですか?」
「はい、実は日本縦断の旅の途中なんです」
清風が答えると、ガイドの女性は目を丸くした。
「まあ、素晴らしい! それじゃあ、余市の魅力をたっぷりお伝えしなくちゃね」
ツアーが始まると、ガイドの女性は熱心にウイスキー造りの工程を説明してくれた。大きな蒸溜器や樽が並ぶ様子は圧巻で、二人は興味深く見入った。
「ねえ清風、このウイスキーの香り、なんだか旅の思い出みたいだね」
爽香がつぶやいた。
「そうだね。樽の中で何年も熟成されるウイスキーみたいに、僕たちの思い出も時間とともに深まっていくんだろうな」
清風の言葉に、爽香は優しく微笑んだ。
ツアーの最後に、ウイスキーのテイスティングがあった。
「お二人はサイクリング中だから、ほんの少しだけね」
ガイドの女性が気遣ってくれた。
グラスに注がれた琥珀色の液体を、二人は恐る恐る口に含んだ。
「うわ、強いけど……なんだか温かい感じがするね」
爽香が顔をしかめながらも言った。
「ああ、まるで旅の疲れが溶けていくようだ」
清風も頷いた。
蒸溜所を後にした二人は、近くの果樹園に立ち寄ることにした。りんごやぶどうが実る様子は、まさに実りの秋を感じさせた。
「いらっしゃい! ちょうど今が旬の時期だよ」
果樹園のおじさんが、にこやかに二人を迎えてくれた。
「二人とも、自由に食べていっていいからね。特に、あそこのシナノゴールドは絶品だよ」
おじさんに勧められたりんごを、二人で分け合って食べた。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。
「うまい! こんなジューシーなりんご、初めて食べたかも」
清風が感動した様子で言う。爽香も頷きながら口に運ぶ。
「ねえ清風、私たちの旅って、毎日が新しい発見の連続ね」
清風は爽香の言葉に深く頷いた。
夕暮れ時、二人は余市の街に戻ってきた。海沿いの居酒屋に入ると、温かい雰囲気が二人を包み込んだ。
「いらっしゃい! お二人さん、どこからいらしたの?」
女将さんが親しげに話しかけてきた。
「美瑛から自転車できたんです。日本縦断の旅の途中なんです」
爽香が答えると、店内がざわめいた。
「まあ! それは大変だったでしょう。こりゃあ、余市の特産品をいっぱい御馳走しないといけないね!」
女将さんが笑顔で言うと、余市産のワインと、新鮮なつぶ貝の刺身が運ばれてきた。
「ねえ清風、今日一日、どうだった?」
爽香が少し疲れた表情で、でも目を輝かせながら尋ねた。清風は少し考えてから答えた。
「正直、アップダウンの連続で体力的にはきつかったよ。でも……」
彼は爽香の目をまっすぐ見つめて続けた。
「今日見た景色と、ウイスキーや果物の香り、そして爽香と過ごした時間は、かけがえのない宝物になったと思う」
爽香の目に涙が浮かんだ。
「私も同じ気持ち! 清風と一緒だから、この長い距離も乗り越えられたんだと思う」
二人は笑顔で見つめ合い、ワインのグラスを合わせた。窓の外では、余市の夜空に星々が輝き始めていた。それは、まるで二人の旅の前途を祝福しているかのようだった。
◆
その夜、二人は民宿「海の宿」に泊まることにした。
夕食を終えた清風と爽香は、女将から家族風呂への案内を受けた。木の香りが漂う脱衣所で、二人は少し照れくさそうに視線を合わせた。
「ねえ清風、家族風呂なんて久しぶりだね」
爽香が小声で言った。頬が少し赤くなっている。
「ああ、でも今日の疲れを癒すにはぴったりだと思うよ」
清風も少し照れながら答えた。
湯船に浸かると、温かい湯が疲れた体を優しく包み込んだ。窓の外には、星空が広がっている。波の音が、かすかに聞こえてくる。
「あぁ……気持ちいい」
爽香が目を閉じて呟いた。清風も深く息を吐き出した。
「本当だね。自転車で巡る旅も素晴らしいけど、こうしてゆっくり湯に浸かるのも大切だね」
清風が言うと、爽香は目を開けて微笑んだ。
「そうね。体を休めることで、また明日への活力が湧いてくる気がする」
二人は黙ったまま、しばらく湯の温もりを楽しんだ。やがて爽香が、ふと思い出したように言った。
「ねえ清風、覚えてる? 私たちが初めて温泉旅行に行った時のこと」
清風は懐かしそうに笑った。
「ああ、もちろん。爽香が温泉卵を作ろうとして、かごごと湯船に落としたんだっけ」
「もう、余計な事は思い出さないでよ!」
爽香が赤面しながら清風の肩を軽く叩いた。二人は顔を見合わせて笑い合った。
湯船に浸かりながら、二人は今日の出来事を振り返った。美瑛の丘陵、余市の果樹園、ウイスキー蒸溜所……思い出を語るたびに、心が温かくなっていく。
「今日も素敵な一日だったね」
爽香がつぶやいた。清風は静かに頷いた。
「ああ、爽香と一緒だからこそ、こんなに充実した日々を過ごせるんだと思う」
清風の言葉に、爽香は優しく微笑んだ。二人の指が、湯の中でそっと絡み合う。爽香が目を閉じると清風は優しいキスをその唇に落とした。
窓の外では、満天の星空が二人を見守っている。波の音と、湯船から立ち上る湯気の音だけが、静かな空間に響いている。明日への期待と、今この瞬間の幸せが、二人の心を満たしていった。
やがて二人は湯船から上がり、館内着に着替えた。廊下を歩きながら、爽香が清風の腕にそっと寄り添った。
「ねえ清風、明日もきっと素敵な一日になるよね」
「ああ、そうだね。爽香と一緒なら、どんな道のりも楽しい冒険になるさ」
二人は笑顔で見つめ合い、部屋へと向かった。明日への期待と、今日の思い出が、心地よい疲労感と共に二人を包み込んでいった。
部屋に戻った二人は、疲れた体を布団に横たえながらも、興奮冷めやらぬ様子だった。
「ねえ清風、明日はどんな香りの風が吹くのかな」
爽香が窓の外の星空を見上げながら呟いた。
「さあ、それは明日になってみないとわからないさ。でも、きっと今日以上に心に残る香りになるはずだよ」
清風の言葉に、爽香は頷いた。二人の心には、これから続く旅路への期待が、ウイスキーのように熟成されていくのを感じていた。
窓の外では、余市の夜空に輝く星々が、二人の旅の無事を祈るかのように、静かに瞬いていた。果実の香りと潮の香りが混ざる風が、そっと窓を通り抜けていった。