●2日目:石畳と潮風の調べ ~小樽へ~
朝もやが晴れ始めた札幌の空の下、真中清風と水上爽香は、民宿「大通りの宿」を後にした。清風のメタリックレッドのロードバイクと、爽香のパールブルーのクロスバイクが、朝日に輝いている。
「爽香、今日は小樽まで30キロだ。山あり海ありの道のりになるぞ」
清風の声には、挑戦への期待が滲んでいた。
「楽しみだわ! 海の向こうに広がる小樽の街並み、想像しただけでワクワクする」
爽香の目は好奇心に輝いていた。
二人は軽やかなペダリングで、札幌の郊外へと向かった。やがて、街の喧騒が遠のき、代わりに木々のざわめきや小鳥のさえずりが耳に届き始める。
「清風、聞こえる? 自然の音楽みたい」
爽香が耳を澄ませながら言う。
「ああ、心地いいな。ところで、あそこに見えるのは……」
清風が指さす先には、なだらかな丘陵が広がっていた。
「丘の上で、小休止しない?」
爽香の提案に、清風は頷いた。
丘の頂上に到着すると、二人の目の前に予想外の光景が広がった。一面に咲き誇るラベンダー畑。紫色の絨毯が、朝日に照らされて輝いている。
「うわぁ……こんな美しい景色が、ここにあったなんて」
爽香の声が震える。清風も息を呑んだ。
「写真で見るのとは全然違うな。この香り、この色……」
二人は言葉を失い、ただその景色に見入った。風に乗ってラベンダーの香りが漂い、心を落ち着かせる。
丘を下り始めると、遠くに日本海が見えてきた。その青さに、二人は思わず声を上げた。
「海だ! 小樽まであと少しだな」
「わぁ、輝いてる! まるで私たちを歓迎してくれてるみたい」
坂を下る爽快感と、目の前に広がる大海原。二人の心は高揚感に満ちていた。
小樽に近づくにつれ、潮の香りが強くなってきた。やがて、レトロな街並みが見えてきた。
「あれが小樽か。想像以上にノスタルジックな雰囲気だな」
「まるで、タイムスリップしたみたい!」
小樽に到着すると、二人はまず運河沿いを散策することにした。石造りの倉庫群と運河の風景に、言葉を失う。
「清風、この景色、絵はがきみたい……」
爽香がつぶやく。清風も頷きながら答えた。
「ああ、歴史の重みを感じるな。ここで写真でも撮ろうか」
運河沿いで写真を撮っていると、地元らしき中年の男性が声をかけてきた。
「おや、自転車旅行かい? その立派な自転車を見るに、だいぶ遠出のようだが」
「はい、実は自転車で日本縦断の旅をしているんです」
清風が答えると、男性は目を輝かせた。
「へえ、そりゃすごい。ところで、お二人は小樽の隠れた名所をご存知かい?」
二人が首を傾げると、男性は秘密を打ち明けるように話し始めた。
「運河から少し入った路地に、『色硝子の小径』というのがあるんだ。観光客はあまり知らない場所でね。日が落ちる頃に行くと、ステンドグラスが美しく輝くんだよ」
爽香の目が輝いた。
「わぁ、素敵! ぜひ行ってみたいです」
男性は嬉しそうに微笑んだ。
「そうかい。じゃあ、この地図を差し上げよう。小樽の隠れた名所が載ってるんだ」
二人は感謝の言葉を述べ、男性と別れた。
「なんて親切な人なんだろう」
爽香が感動した様子で呟く。
「ああ、地元の人ならではの情報だな。これで小樽をもっと深く楽しめそうだ」
昼食時、二人は地元で評判の海鮮丼の店に立ち寄った。店内に入ると、新鮮な魚介の香りが鼻腔をくすぐる。
「いらっしゃい! お二人とも自転車旅行かい?」
女将さんが笑顔で声をかけてきた。
「はい、日本縦断の旅の途中なんです」
爽香が答えると、女将さんは驚いた様子で二人を見つめた。
「まあ、大したもんだ! そうだねえ、うちの特製海鮮丼を食べて、元気つけていっとくれ」
二人は感謝しながら、その海鮮丼を堪能した。新鮮なウニ、イクラ、ホタテが彩り豊かに盛り付けられている。
「うまい! これぞ北海道の味だな」
清風が感動した様子で言う。爽香も頷きながら口に運ぶ。
「ねえ清風、私たちの旅って、毎日が新しい発見の連続ね」
清風は爽香の言葉に深く頷いた。
午後、二人は先ほどの男性に教えてもらった「色硝子の小径」を訪れた。狭い路地に入ると、両側の壁一面にステンドグラスが嵌め込まれている。
「わぁ……まるで、虹の中を歩いているみたい」
爽香が感動して声を上げる。清風も息を呑む。
「これは凄い。観光ガイドには載ってない場所だからこそ、こんな風に静かに楽しめるんだな」
夕暮れ時、ステンドグラスに差し込む夕日の光が、幻想的な空間を作り出していた。
夜、二人は地元の居酒屋に足を運んだ。店内は、仕事帰りの地元の人々で賑わっている。
「いらっしゃい! お二人さん、どこからいらしたの?」
店主が親しげに話しかけてきた。
「札幌から自転車できたんです。日本縦断の旅の途中なんです」
清風が答えると、店内がざわめいた。
「へえ! それは凄い! こりゃあ、小樽の名物で歓迎しないとな!」
店主が笑顔で言うと、にしん漬けと地酒が運ばれてきた。
居酒屋の奥まった座敷で、清風と爽香は地元の人々に囲まれていた。煙管をくゆらせる年配の男性、白髪まじりの髪を後ろで束ねた女将さん、そして風雨に鍛えられた顔つきの漁師らしき男性。彼らの目には、郷土への深い愛情が宿っている。
「小樽がねえ、一番栄えてたのは大正から昭和初期のことだったんだよ」
煙管の男性が、懐かしむように目を細めて話し始めた。
「ここはね、『北のウォール街』って呼ばれてたんだ。日本銀行の支店も置かれて、北海道の経済の中心地だったんだよ」
清風と爽香は、驚きの表情を浮かべながら聞き入った。
「へえ、小樽がそんなに重要な街だったなんて……」
清風が感嘆の声を上げる。
すると、女将さんが優しく微笑みながら続けた。
「そうそう。でもね、それだけじゃないのよ。小樽は文化の街でもあったの。北一硝子を筆頭に、ガラス工芸が盛んで、音楽や文学も栄えたのよ」
爽香の目が輝いた。
「あ、だから街中にあんなに素敵なガラス細工の店があるんですね!」
女将さんは嬉しそうに頷いた。
「そうなの。私たちは、その伝統を今も大切に守り続けているのよ」
漁師らしき男性が、がっしりした腕を組みながら話に加わった。
「俺たちの先祖は、命がけでこの海と向き合ってきたんだ。ニシンの群来を追いかけ、荒波と戦いながら生きてきた。その気概が、小樽の魂なんだよ」
その言葉に、清風と爽香は思わず背筋を伸ばした。歴史の重みと、それを受け継ぐ人々の誇りが、ひしひしと伝わってくる。
「でもねえ」
煙管の男性が、少し寂しそうな表情で続けた。
「時代と共に、小樽の景色も変わってきたんだ。かつての賑わいは失われ、若い人たちは街を出ていく。それでも俺たちは、この街の魂を守り続けているんだよ」
居酒屋の薄暗い照明の下、男性の目に光るものが見えた気がした。清風は、胸に込み上げるものを感じながら尋ねた。
「その……僕たちにできることはありますか? 小樽の魂を、日本中に伝えるために」
その言葉に、居酒屋にいた人々の表情が和らいだ。女将さんが優しく答える。
「あなたたち二人が、小樽で感じたこと、見たこと、そして出会った人々のことを、旅の記憶として大切にしてくれれば、それが一番嬉しいわ」
漁師の男性も頷きながら付け加えた。
「そうだな。小樽の今を、あんたたちの目で見て、心で感じて、それを誰かに語ってくれ。それが、俺たちの街を守ることになるんだ」
清風と爽香は、互いに見つめ合い、深く頷いた。この瞬間、二人の旅の意味が、より深いものになったように感じた。
「必ず、小樽の魂を日本中に、いえ、世界中に伝えます!」
爽香が力強く宣言すると、居酒屋中から拍手が起こった。
その夜、清風と爽香は、小樽の人々の温かさと、街の奥深い歴史に触れ、心を揺さぶられた。かつて北海道の経済を支え、今もなおその誇りと伝統を守り続ける人々の思いが、二人の胸に深く刻まれた。
窓の外では、小樽の夜空に輝く星々が、まるでこの街の歴史を見守ってきたかのように、静かに瞬いていた。
◆
夜遅く、二人は民宿「運河の宿」に到着した。窓の外には、ガス灯に照らされた運河の風景が広がっている。
「ねえ清風、今日は本当に素敵な一日だったわ」
爽香がつぶやいた。
「ああ、小樽の魅力を肌で感じられたな。この街の歴史と、それを守り続ける人々の思い。忘れられない思い出になりそうだ」
清風の言葉に、爽香は頷いた。二人の心には、この日の体験が深く刻まれていた。
「明日はどんな出会いが待っているんだろう」
「さあ、それは明日のお楽しみだ。でも、きっと今日以上に心に残る日になるはずさ」
清風の言葉に、爽香は笑顔で応えた。二人の心には、これから続く旅路への期待が、さらに大きく膨らんでいた。
窓の外では、小樽の夜空に輝く星々が、二人の旅の前途を祝福するかのように、静かに瞬いていた。