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二人同時に無職になったので思い切って日本縦断サイクリングの旅に出ることにしました!  作者: 霧崎薫


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10/21

●8日目:海と風と二つの心 ~むつ市へ~

 朝日が昇り始めた浅虫温泉の空の下、真中清風と水上爽香は、これから始まる長距離サイクリングに向けて準備を整えていた。清風のメタリックレッドのロードバイクと、爽香のパールブルーのクロスバイクが、朝露に濡れて輝いている。


「爽香、今日は70kmだ。昨日の倍以上の距離になるけど、大丈夫か?」


 清風の声には、少しの不安と期待が混ざっていた。


「うん、少し怖いけど……でも、昨日のけの汁でパワーアップしたから!」


 爽香は明るく笑いながら答えた。その笑顔に、清風の不安も和らいだ。


 二人は宿を出発し、陸奥湾沿いの海岸線ルートを走り始めた。昨日とは違う景色が広がり、新鮮な驚きと発見が二人を待っていた。


 清風は後方から爽香の走りを見守りながら、静かに考えを巡らせていた。「70kmは簡単な距離じゃない。爽香が途中で限界に達したらどうしよう……」そんな心配が頭をよぎる。しかし、颯爽と走る爽香の姿を見ていると、その不安も徐々に消えていった。


 一方、爽香は前を向きながら、自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいていた。「私にもできる。清風が信じてくれてるんだから、絶対に最後まで走り切ってみせる!」その決意が、彼女を前へと駆り立てていく。


 走り始めて2時間ほど経った頃、二人は小さな漁村に差し掛かった。


「清風、ちょっと休憩しない? あそこに面白そうな看板があるよ」


 爽香が指さす先には、「津軽海峡ミュージアム」という看板が見えた。


「おお、いいね。ここで小休止して、地元の歴史でも学んでみるか」


 清風は爽香のアイデアに賛同した。


 ミュージアムの重厚な木製のドアを開けると、清風と爽香の目の前に津軽海峡の世界が広がった。薄暗い照明が空間に神秘的な雰囲気を醸し出し、潮の香りがかすかに漂う。


「わぁ……」


 爽香が小さく息を呑む。清風も静かに頷いた。


 入り口を入ってすぐの壁には、巨大な津軽海峡の航空写真が掲げられていた。青森県と北海道を隔てる海峡の姿が、鮮明に写し出されている。二人は思わずその前に立ち止まった。


「ねえ清風、こんな風に上から見たことないよね。青森と北海道、本当に近いんだね」


 爽香が目を輝かせながら言う。清風は腕を組み、写真を熟視した。


「ああ、地図で見るのとは全然違う印象だ。この複雑な海岸線、興味深いな」


 次のコーナーには、漁業の歴史を紹介するパネルが並んでいた。古代から現代まで、この地域の人々が海とともに生きてきた様子が、年表や古い道具、写真などで分かりやすく展示されている。


「へえ、昔はニシンがたくさん獲れたんだ」


 爽香がパネルを指さす。清風は古い漁具を興味深そうに眺めながら答えた。


「そうみたいだな。でも乱獲で減ってしまったらしい。環境保護の大切さを考えさせられるね」


 中央には、様々な時代の船の模型が並んでいた。古代の丸木舟から、江戸時代の北前船、現代の大型フェリーまで、時代とともに変化する船の姿に、二人は見入った。


「すごい! これ、本物の小さいバージョン?」


 爽香が北前船の精巧な模型に顔を近づける。清風は説明書きを読みながら答えた。


「ああ、縮尺1/50だそうだ。当時の船大工の技術がよく分かるね」


 奥に進むと、薄暗い空間に青い光が漂うコーナーがあった。そこには巨大な海底地形図が設置されていた。


「清風、見て! こんなに深い谷があるなんて」


 爽香が驚きの声を上げる。海底の起伏が立体的に表現され、深い海溝や海山の存在が一目で分かる。


「ああ、驚きだな。陸上と同じように、海底にも独自の地形があるんだ」


 清風が感心した様子で答える。二人は地形図の前でしばらく立ち尽くし、海の神秘に思いを馳せた。


 最後のコーナーには、津軽海峡の生態系を紹介する水槽が並んでいた。カレイやタラ、イカなど、この海域に生息する魚たちが悠々と泳いでいる。


「わぁ、可愛い! あのイカ、私たちを見てる気がする」


 爽香が水槽に顔を近づけて覗き込む。清風も隣に立ち、静かに観察した。


「不思議な生き物だよな。この海峡の豊かな生態系が、地域の文化や産業を支えてきたんだろうな」


 二人は展示を一つ一つ丁寧に見て回りながら、津軽海峡の持つ深い歴史と自然の豊かさを肌で感じていった。その姿は、まるで知識の海を泳ぐ二匹の魚のようだった。


 そのとき、年配の館長さんが二人に声をかけてきた。


「お二人さん、自転車旅行ですか? どちらまで行かれるんです?」


「はい、今日はむつ市まで行く予定です」


 清風が答えると、館長さんは目を見開いた。


「それは大変だ! でも、その道中にはたくさんの見どころがありますよ。特に下北半島に入ると、風景が一変しますからね」


 館長さんは熱心に、これから二人が通る道筋の見どころを教えてくれた。海岸線の絶景ポイントや、立ち寄るべき史跡など、地元の人だからこそ知る貴重な情報ばかりだった。

 館長さんは目を輝かせながら、大きな地図を広げた。その指が、二人が通るルートをなぞっていく。


「ここをご覧ください」


 館長さんの声には、郷土愛が溢れていた。


「まず、ここの平沼海岸ですね。遠浅の美しい砂浜が7キロも続くんです。朝日や夕日の時間帯なら、空と海が溶け合うような絶景が見られますよ」


 爽香はその説明に、思わずため息をついた。


「わぁ、素敵……」


 清風も興味深そうに頷いている。


「そして、ここ。野牛埼灯台です。明治時代に建てられた白亜の灯台で、周辺の断崖絶壁からの眺めが圧巻です。晴れていれば、はるか遠くに北海道が見えることもありますよ」


 館長さんの言葉に、二人の目が輝いた。


「北海道が見える……? いいね、すでに懐かしいな」


 清風がつぶやくと、爽香も嬉しそうに頷いた。


「それから、忘れてはいけないのがこの恐山です。火山活動による荒涼とした風景が広がり、古くから霊場として知られています。神秘的な雰囲気を味わえますよ」


 館長さんの説明は続く。


「途中のこの小さな漁村、大畑町にも寄ってみてください。ここでは、江戸時代から続く伝統的な鯛しゃぶを味わえるんです。地元の人しか知らない名店がありますよ」


 爽香の目が輝いた。


「わぁ、美味しそう! 清風、絶対寄ろうね」


 清風も同意して頷いた。


「最後に、むつ市に着く前に立ち寄っていただきたいのが、ここの薬研温泉です。マグマの熱で温められた名湯で、疲れた体を癒せますよ。この温泉に入ると、旅の疲れが嘘のように消えるんです」


 館長さんは笑顔で締めくくった。


「いかがでしょうか? 地元の者が太鼓判を押す見どころばかりです。ぜひ、じっくりと味わってください」


 清風と爽香は、感激の面持ちで館長さんに深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございます。こんな素晴らしい情報、ガイドブックには載っていませんよね」


 清風が感謝の言葉を述べると、館長さんは優しく微笑んだ。


「そうですね。これこそが、この地を愛する者だけが知る秘密の宝物なんです。どうか、大切に味わってください」


 二人は感動と期待に胸を膨らませながら、館長さんと別れを告げた。この土地への理解と愛着が、さらに深まったように感じられた。


「この地域には長い歴史と豊かな自然があるんです。それを肌で感じながら旅をするのは、きっと素晴らしい経験になりますよ」


 館長さんの言葉に、二人は深く頷いた。


 ミュージアムを後にした二人は、新たな発見への期待に胸を膨らませながら、再び自転車に乗った。


 昼過ぎ、二人は館長さんに教えてもらった絶景ポイントに到着した。眼下に広がる陸奥湾の絶景に、思わず息を呑む。


「うわぁ……こんな景色が青森にあったなんて」


 爽香が感動のあまり声を震わせる。


「ああ、まるで絵画のようだ。こんな景色を見られるなんて、自転車で旅をしている価値があるな」


 清風も同意した。二人は自転車を止め、しばしその絶景に見入った。


 休憩を終えた二人は、再び自転車に乗って走り出す。道中、彼らは様々な会話を交わしながら、絆を深めていった。


 昼頃、二人は道の駅「よこはま」に到着した。空腹を感じ始めていた二人の鼻をくすぐる、イカの香ばしい匂いが漂ってくる。


「あっ、イカソーメンの屋台があるよ!」


 爽香が目を輝かせながら言う。


「よし、じゃあそれを食べよう。青森の味を堪能するには最高だな」


 清風が同意し、二人は屋台に向かった。


「いらっしゃい! 二人とも自転車旅行かい?」


 屋台のおじさんが、にこやかに二人を迎えてくれた。


「はい、むつ市まで行く途中なんです。おすすめはありますか?」


 爽香が笑顔で尋ねる。


「そうだねぇ、うちの『特製イカソーメン』がおすすめだよ。朝獲れのイカを使ってるからね、コリコリ食感がたまらないんだ」


 おじさんの言葉に、二人は顔を見合わせてうなずいた。

 程なくして運ばれてきたイカソーメンは、細く切られたイカが器一杯に盛られ、特製のタレがかけられていた。二人は「いただきます!」と声を合わせて箸を付ける。


「うまい! これぞ青森の味だね」


 清風が感動した様子で言う。爽香も頷きながら口に運ぶ。


 二人の目が合い、温かな笑顔を交わす。


 食事を終えた二人は、再び自転車に乗ってむつ市を目指す。午後の陽光が海面を きらきらと照らし、その輝きが二人の行く手を指し示すかのようだった。



 急に空模様が怪しくなってきた。遠くに黒い雲が見え始め、風も強くなってきている。


「清風、あの雲……ヤバそうじゃない?」


 爽香が不安そうに空を見上げる。


「ああ、天気予報では晴れだったはずなんだが……急いでむつ市に向かおう」


 清風は冷静に状況を判断し、すぐに出発の準備を始めた。


 二人が再び走り出してから15分ほどで、雨が降り始めた。最初は小雨程度だったが、徐々に本格的な雨となり、風も強くなってきた。


「くっ、視界が悪くなってきたぞ」


 清風が眉をひそめる。


「大丈夫、清風! 私たち、もう半分以上来てるんだよ。絶対にむつ市まで行けるはず!」


 爽香が励ますように叫ぶ。その声に、清風は勇気づけられた。


 雨の中を必死に走る二人。視界は悪く、風は強く、そして体力も徐々に奪われていく。しかし、二人は互いを励まし合いながら、ペダルを漕ぎ続けた。


 そして夕暮れ時、ようやくむつ市の街並みが見えてきた。


「爽香、見えたぞ! あれがむつ市だ!」


 清風が興奮した声で叫ぶ。


「やった! 私たち、やり遂げたんだね!」


 爽香の声には、疲労と喜びが入り混じっていた。


 むつ市に到着した二人は、ずぶぬれになりながらも、達成感に満ちた表情を浮かべていた。


 その夜、清風と爽香は、むつ市の路地裏にある小さな居酒屋「漁火」に足を踏み入れた。店内は、漁師たちの威勢の良い声と、炭火で焼かれる魚の香ばしい匂いで満ちていた。二人は、カウンター席に腰を下ろした。


「いらっしゃい! あんたたち、自転車で来たんだって? えらい雨に降られたみてえだな」


 赤ら顔の店主が、にこやかに声をかけてきた。


「はい、浅虫温泉から来たんです。途中から大雨で大変でした」


 清風が答えると、店主は感心したように目を見開いた。


「そいつは大変だったな。そんなあんたたちには、うちの名物『アンコウのどぶ汁』がぴったりだ。体の芯まで温まるぞ」


 店主の勧めに、二人は顔を見合わせてうなずいた。


 程なくして、大きな土鍋が運ばれてきた。蓋を開けると、濃厚な出汁の香りが立ち込め、二人の鼻腔をくすぐった。鍋の中には、ぷっくりと煮込まれたアンコウの身や肝、野菜がたっぷりと入っている。


「うわぁ……なんだかちょっと怖い見た目だけど、いい匂い」


 爽香が少し緊張した様子で言う。


「ああ、見た目は独特だけど、香りからして間違いないな」


 清風も期待に胸を膨らませる。


 二人は「いただきます」と声を揃え、おそるおそるスプーンを口に運んだ。


「うん! これ、めちゃくちゃ美味しい!」


 爽香が目を輝かせて叫ぶ。


「ああ、本当だ。コクがあって、でもさっぱりしている。絶妙な味わいだ」


 清風も感心した様子で頷く。


 熱々のどぶ汁が、二人の冷え切った体を内側から温めていく。その温かさは、単に身体的なものだけでなく、心の奥底まで染み渡るようだった。


 清風は爽香の手を優しく握った。二人の目が合い、温かな笑顔を交わす。周りの喧騒も、二人にとっては心地よいBGMとなっていた。


 どぶ汁を味わいながら、二人は今日一日の出来事を振り返った。美しい海岸線、予想外の大雨、そして最後まで諦めずに走り抜いた達成感。全てが、この熱々のどぶ汁のように、二人の心に染み渡っていった。


 店主が、二人の様子を温かく見守りながら、こっそりと地酒を一杯ずつ運んできた。


「あんたたち、よく頑張ったな。これは、むつの地酒『寒立馬』だ。サービスだから、旅の無事を祝って飲んでくれ」


 清風と爽香は感謝の言葉を述べ、グラスを軽く合わせた。


「乾杯、爽香。今日という日に」


「うん、私たちの70kmの冒険に」


 二人の笑顔が、居酒屋の暖かな灯りに照らされて輝いていた。窓の外では、雨上がりのむつ市の夜空に、星々がきらめき始めていた。



「ねえ清風、今日一日どうだった?」


 爽香が尋ねた。清風は少し考えてから答えた。


「正直、予想以上に大変だったよ。特にあの雨には参ったな。でも……」


 彼は爽香の目をまっすぐ見つめて続けた。


「爽香が諦めずに頑張る姿を見て、俺も力が出たんだ。二人だからこそ、乗り越えられた試練だったと思う」


 爽香の目に涙が浮かんだ。


「私も同じ気持ち! 清風がいたから、最後まで走り切れたの。今日の70km は、私たちの絆の証だと思う」


 二人は笑顔で見つめ合い、グラスを軽く合わせた。窓の外では、雨上がりのむつ市の夜空に星々が輝き始めていた。それは、まるで二人の偉業を祝福しているかのようだった。


 清風と爽香は、この日の試練と達成感を胸に刻みながら、明日への期待を膨らませていった。70km の道のりと悪天候を二人で乗り越えたことで、彼らの絆はさらに強固なものとなった。そして、これからの旅への自信と決意を新たにしたのだった。



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