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プロローグ:「どうせ暇になるんなら……日本縦断サイクリング行こうぜ!」

 札幌の街に、初夏の柔らかな日差しが降り注ぐ午後のことだった。真中清風まなかせいふうは、いつもの帰り道を颯爽と自転車で駆け抜けていた。風を切る爽快感に身を委ねながら、彼の心は既に、同棲中の恋人・水上爽香みなかみさやかとの楽しい夕食の時間を思い描いていた。


 しかし、その日の夕暮れは、二人にとって思いもよらない展開をもたらすことになる。


 アパートに帰り着いた清風は、玄関を開けるなり爽香の姿を目にした。彼女の表情には、どこか暗い影が差していた。


「おかえり、清風……」


 爽香の声には、いつもの明るさが感じられない。清風は眉をひそめ、慎重に尋ねた。


「どうしたんだ? 何かあったのか?」


 爽香は深くため息をつき、ゆっくりと口を開いた。


「実は……今日、突然解雇を言い渡されたの」


 その言葉に、清風の目が大きく見開かれた。しかし、驚きはそれだけに留まらなかった。


「マジか……実は俺も今日、クビを言い渡されたんだ」


 二人は一瞬、呆然と見つめ合った。

 そして次の瞬間、同時に叫んだ。


「「なんて日だ!」」


 怒りと困惑が入り混じった感情が、部屋中に充満する。

 清風は拳を握りしめ、壁を強く叩いた。


「くそう! 一体何がいけなかったんだ……」


 爽香も涙ぐみながら、震える声で続けた。


「私たち、そんなに悪いことしてたわけじゃないのに……神様は不公平だわ……」


 二人の心の中では、怒りと不安が渦巻いていた。しかし、そんな暗い空気を一掃するかのように、清風の目に突然の閃きが宿った。


「そうだ! 爽香! いいこと思いついたぞ!」


 清風の声に、決意の色が混じり始めていた。

 爽香は、困惑しながらも彼に視線を向けた。


「どうせ暇になるんなら……日本縦断サイクリング行こうぜ!」


 その提案に、爽香の目が輝きを取り戻した。


「いいわね、清風! そうだ、私たちにはまだ自転車があるじゃない!」


 二人の顔に、少しずつ笑顔が戻り始めた。清風は興奮気味に話を続けた。


「そうだろ? 俺たち、もともとサイクリングが大好きで、その縁で出会ったんだ。今こそ、その原点に帰るチャンスかもしれない」


 爽香も頷きながら、アイデアを膨らませていく。


「ねえ、北海道から始めるのはどう? 私たちの地元から、日本を縦断する旅……」


「いいね! 乗ったぜ! 自転車だけにな!」


 二人の目には、再び希望の光が宿り始めていた。突然の解雇という逆境を、新たな冒険のチャンスに変える――それこそが、清風と爽香らしい反応だった。


 その夜、二人は夜遅くまで旅の計画を立て続けた。地図を広げ、ルートを検討し、必要な装備をリストアップする。不安と期待が入り混じる中、二人の心は少しずつ前を向き始めていた。


 窓の外では、夜空に輝く星々が、これから始まる二人の冒険を見守るかのように瞬いていた。



 次の日の朝、清風は早くに目を覚ました。窓から差し込む朝日が、新たな一日の始まりを告げている。彼はそっと横で眠る爽香を見つめ、昨日の出来事を思い返した。


「よし、今日から本格的に準備だ」


 清風は静かに身を起こし、リビングへと向かった。テーブルの上には、昨夜遅くまで二人で作成した旅の計画が広がっている。彼はそれを見つめながら、深い吐息をついた。


 突然の解雇。それは確かに大きなショックだった。しかし、その逆境が二人に新たな冒険のチャンスをもたらしたのも事実だ。清風は、この状況を前向きに捉えようと決意を新たにした。


 しばらくすると、爽香も目を覚まし、リビングに姿を現した。


「おはよう、清風。もう起きてたの?」


「ああ、少し早起きしてな。これからの計画を整理してたんだ」


 爽香は清風の隣に座り、計画書に目を通した。


「ねえ、清風。私たち、本当にこんな旅してて大丈夫かしら?」


 その問いかけには、不安と期待が混ざっていた。清風は爽香の手を優しく握り、静かに答えた。


「ああ、大丈夫に決まってる。絶対にやろう! 俺たちにはまだ、たくさんの可能性があるはずだ。この旅で、きっと新しい自分たちを見つけられるぜ」


 爽香の目に、少しずつ決意の色が宿り始めた。


「そうね。私たち、サイクリングで出会って、サイクリングで未来を切り開くってことよね」


 二人は微笑みを交わし、その日から本格的な準備に取り掛かった。



 朝日が差し込む部屋の中で、清風と爽香は愛車のチューンナップに没頭していた。二人の動きには、長年培ってきた自転車への愛情と知識が滲み出ている。


 清風は、愛車のカーボンフレームのロードバイクを丁寧に磨き上げていく。フルカーボンモノコック構造の艶やかな赤いフレームが、朝日に照らされて宝石のように輝いている。


「よし、まずはドライブトレインの清掃からだな」


 清風は呟きながら、精密な動きでディレイラーを分解し始めた。


 一方、爽香も負けじと青いクロスバイクのメンテナンスに取り掛かっている。


「ねえ清風、私のSRAMのハイドロリックディスクブレーキ、ブリーディングしたほうがいいかな?」


 爽香が真剣な表情で尋ねる。


「ああ、長距離走行するなら確実にな。DOT液の劣化も気になるところだ」


 清風は専門家のように答える。


 清風は愛車のボトムブラケットを外し、セラミックベアリングの状態を入念にチェックする。


「このエンデューロセラミックベアリング、まだまだイケるな。ローフリクションだし、長距離でも安心だ」


 爽香も自慢げに語り出す。


「私のシマノ105のコンポーネントセット、最近のアップグレードでさらに性能が上がったのよ。特にフロントディレイラーの剛性が増して、シフティングがスムーズになったわ」


 清風は得意げに自転車を掲げ、爽香に自慢した。


「おい、爽香! 見てくれよ。このフルカーボンフレームの輝き具合! エアロダイナミクスを考慮した設計で、向かい風での空気抵抗も最小限に抑えられるんだぜ」


 爽香も負けじと自身の青いクロスバイクを持ち上げる。


「ふふん、私のだってすごいわよ! この青の深みったら……チタニウムコーティングで耐久性抜群なのよ。それに、このカーボンフォークがしっかり路面からの振動を吸収してくれるの」


 二人は子供のように自慢し合い、笑い声が部屋中に響き渡った。しかし、その笑顔の裏には、プロフェッショナルな眼差しが光っている。


「なあ爽香、タイヤはどうする? 俺はコンチネンタルのグランプリ5000に換えようと思うんだ。ローリング抵抗が低くて、耐パンク性能も優れてるからさ」


「いいわね! 私はシュワルベのマラソンスプレモにしようかな。耐久性が高くて、ロングライドには最適なの」


 清風はホイールを外し、ハブのグリスアップを始める。


「このDT Swissのハブ、本当にいいよな。ラチェットシステムの反応が鋭くて、パワーロスが最小限に抑えられる」


「そうそう! 私のマヴィックのホイールセットも軽量で剛性が高いの。登りでの加速が格段に良くなったわ」


 二人は夢中で語り合いながら、愛車のメンテナンスを続けた。その姿は、まるで芸術家が最高傑作を磨き上げるかのようだった。


「よし、最後にチェーンの注油だ。俺はセラミックベースのウェットルーブを使うぜ。長距離でも安定した潤滑が保てる」


「私はドライルーブよ。砂埃が多い道でも、チェーンへの付着が少なくて済むから」


 チューンナップを終えた二人の自転車は、まるで新品のように輝いている。清風と爽香は、満足げに作品を眺めた。


「さあ、これで完璧だな。この相棒となら、日本縦断だって夢じゃない」


「ええ、私たちの自転車と共に、新しい冒険が始まるわ」


 二人は笑顔で見つめ合い、これから始まる旅への期待に胸を膨らませた。彼らの自転車への愛情は、きっとこの旅路を支える大きな力となるだろう。


 その瞬間、二人の心に湧き上がる感情は純粋な喜びだった。たとえ仕事を失っても、二人には自転車があり、そして何より互いがいる。その事実が、不安を少しずつ和らげていった。



 その後の数日間、二人は旅の準備に没頭した。必要な装備をリストアップし、予算を立て、ルートを細かく検討する。時には意見が食い違うこともあったが、二人で話し合いながら最適な解決策を見出していった。


 ある晩、荷造りを終えた二人は、窓際に腰掛けた。外では、初夏の風が街路樹の葉を優しく揺らしている。


「ねえ、清風」


 爽香が静かに呼びかけた。


「なんだ?」


「私たち、きっと大丈夫よね?」


 その問いかけには、わずかな不安が滲んでいた。清風は爽香の肩を抱き、優しく答えた。


「ああ、絶対に大丈夫さ。俺たちには自転車があるし、何より二人で一緒だ。それだけで、どんな困難も乗り越えられる」


 爽香は清風の胸に顔を埋め、小さくつぶやいた。


「ありがとう……私も、そう信じたい」


 二人は長い間、抱き合ったまま窓の外を眺めていた。明日から始まる旅への期待と不安が、心の中で交錯している。しかし、二人の絆がそれ以上に強いことを、お互いに感じ取っていた。


 やがて、爽香が静かに立ち上がった。


「さあ、寝ましょう。明日は早起きよ」


 清風も頷き、二人は眠りについた。明日から始まる大冒険に向けて、最後の休息をとるために。


 窓の外では、夜空に輝く星々が、これから始まる二人の旅路を祝福するかのように瞬いていた。


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