9 手のひらの感謝
翌日。一軒の小さく古い家の前に、町長が所有する馬車が停まった。
「こちらにベン・ゲルゲスはご在宅かな」
家主にむかって話しかけるのはルドルフ・ツェクラだ。かっちりとローブを着こみ、上品な杖を持った姿はどこか紳士然としている。呼ばれて出てきたベンは、その男を見てぎょっとした。
「あんた、あいつの」
どこの誰だか分かるらしい。ならば自己紹介は無用だとルドルフはさっさと本題に入った。
「僕の妻に暴行を働いた上、人体を害する魔術具を使用した。謝罪と賠償を要求する。ああ、そういえば、胸が痛むあまりにさっき町長へ相談したんだよ。それはそれは僕らに同情的だった」
「あいつは俺の女になるはずだったんだ! それをよくもっ!!」
ベンは口汚く罵るとその粗暴な目でルドルフを睨みつけた。ふつうの人間なら大体がこれで竦むのだが、ルドルフは歯牙にも掛けず、ただただ冷たい眼差しを寄越す。
「はっ、謝罪どころか罵倒するとは恐れ入ったね」
「この野郎!」
ベンは狂犬のように吠えるが、ルドルフは憐れみの笑みを浮かべるだけだ。
「おまえバカなの? 人の所有物に手を出したら相応の報いを受けるものだ。ああ、バカなんだろうね。暴力しか能がないから人の理屈がわからない」
「言わせておけば……っ!!」
その顔面をぐちゃぐちゃにしてやる、とベンは拳を振り下ろした。しかし、ルドルフへ直撃する前にがしりと止められる。目の前の男は動く素振りを見せていないのに、何が起こっているのか。眼前の不敵な笑みに、なぜかベンの心臓が冷えていく。
「おまえ、僕が何者か知っててケンカを売っているのならたいした肝だよ」
背後からベンの腕を掴んでいるのは黒い金属質な手だった。ルドルフのものではない。別の存在だ。ギリギリと締め上げる黒い手。ベンも苦痛で顔をゆがめながらもその姿を目に入れた。それは自分のすぐ横にいた。
手だけでなく、頭も腹も足も全てが黒かった。ひと言で表すなら全身装甲の黒い人形。目も鼻も口もない。それらしい凹凸はあって顔だと認識できるものの、それは決して人間のものではなかった。細身ながら締め上げる人形の握力は相当なもので、金属質な指が腕にめり込む。
「なんだ……こ、いつ」
「絡繰人形を見るのは初めてかな」
ルドルフが冷たい瞳で笑う。
ベンは自分が何者を相手にしているのかようやく分かりかけてきた。獣じみた本能が逃げろと警告している。それなのに掴まれた腕はびくとも動かず、冷や汗が滲んでくる。
オートマタと呼ばれた黒い人形はもう片方の手でベンの首を掴み、そのまま持ち上げた。細くて硬い指がのどに食い込み、気道を圧迫する。拘束から逃れようとベンが必死に振りほどくが、金属質な表面にはキズひとつつけられない。
「……くっ……あ……」
「おまえには地面に頭擦り付けて彼女へ許しを乞うてほしいところだけど、彼女の視界におまえを写すのも癪だ。どうしてやろうか」
乱暴に地面へ投げ捨てると、ベンは土にまみれて転がりぜーぜー空気を吸い込んだ。その目には恐怖が浮かんでおり、どうやってこの場から逃げ出そうかと算段を頭の中でつけている。
「ル、ルドルフ様!」と慌てて入ってきたのは町長だった。どうやら馬で追いかけてきたらしい。
「この度のベンの不始末、大変申し訳ありません! あのツェクラ様とは知らずにとんだご迷惑を……本人からも必ず謝罪と賠償をさせますから、どうぞお納め頂けませんでしょうか……!」
地面に平伏し、情けなく懇願をする町長を見て、ルドルフは興が削がれた気分になった。いったん興奮が覚めれば疲労が込み上げてくる。まだ本調子ではないのだ。言いたいことも言ったので、この男に任せて立ち去るのもいいだろう。
「本人にその気があればベン・ゲルゲスから謝罪を受けよう。しかし僕も妻も、この男の顔はもう見たくない。代わりにこの町の代表であるあなたが来るように。妻の声を奪った魔術具と一緒にね」
油汗を顔いっぱいに浮かべた町長へ「なるべく早くね」と言い捨て、ルドルフは馬車へ乗り込む。あの黒いオートマタはいつの間にか消えていた。まるで最初からいなかったかのように、きれいさっぱりと。
◇
御者の掛け声とともにゆっくりと馬車は動き出した。
馬は一頭だが魔術具を装備しているので馬にさほど負担をかけることなく進んでいく。四人も座れば窮屈になる車内にいるのはふたり。カティはルドルフを不安そうな表情で見つめた。窓から一部始終を見ていたのだ。無理をしたのではないだろうかと心配がつのる。
「どうしたの」
問われても答えることができないのに、ルドルフは手の中で杖をもてあそびながら楽しげにカティへ笑いかける。
「これが怖い?」
次の瞬間、ルドルフの隣にあの黒いオートマタが出現した。ぎしりと車内が揺れたので相応の重さがあるのだろう。人と同じ背丈で、近くで見ればよりその異質さを感じる。でも不思議と恐怖はなかった。オートマタからは何も感じないのだ。ベンのような威圧感も粗暴さも感じない。ただそこにある、というのがカティの印象だった。
ふるふるふと顔を横に振る。怖くはない。
確かに造形が独特で、闇夜にまぎれて背後に立たれたら泣き叫ぶだろうけど。そう思いながら、カティはゆっくりとオートマタへ手を伸ばした。自分の前で行儀よく座る絡繰人形は、さわると冷たくて表面はつるりとしていた。気持ちいい。
「さっきはこれが急に現れて動いたように見えたろう。何も知らない者は『契約した悪魔を従えている』だなんて想像豊かなことを言ってくれるが、実はそんなに大したことじゃない。今度教えてあげるよ」
ルドルフは改めて杖を握りこむとオートマタは消えていった。
やっぱり魔術ってすごい。月並みな感想しか出ない自分に苦笑しつつも、やはりカティはルドルフが疲れていないか気になってしまう。
「……なに、どうしたの」
視線に気づいてルドルフはカティをのぞき込む。顔に答えが書いてあるはずもないが、彼の青い瞳にカティは心の中で訴えた。
「もしかして心配してるの」
伝わった! その嬉しさと一緒にこくこくと頷いた。でもやっぱり何かを伝えることができないと不便だ。カティはしばらく考えて、ルドルフの手をそっと取った。振り払えばすぐにでも解けるほど弱い力で、ルドルフの腕を引く。幸い、拒否はされなかった。
彼の手のひらを上に向けて、自分の指でひとつずつ文字を書く。
『ベン』『ありがとうございます』
ルドルフはその様子をじっと眺めるだけだった。ちゃんと伝わったか不安だ。でもそれは杞憂のようだ。
「きみが黙ってるのはつまらないと思っていたけど、意外と悪くないね」
ベンと対峙していた時とは違う、優しい表情。カティはそれを見た瞬間に胸がきゅっと苦しくなった。胸の鼓動がやけにうるさくて、じわりと体が熱を持つ。
「まあそれはそれとして口が開かないのは厄介だ。町長が早く持ってきてくれたらいいんだけど」
ぽんぽんと頭を撫でられると、カティはますます体温が上がるのを感じた。




