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死にそうな魔術師と崖っぷち家政婦の結婚事情  作者: 猫の玉三郎


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2 雨の後のひとり

 雨に打たれながらカティはルドルフを見つめる。


『じゃあ僕と結婚してみる?』


 ルドルフの言葉がずっと耳の中でくり返される。どういうことなのか聞きたいけれど、うまく言葉が出てこない。


 ふいにルドルフの顔が苦しそうにゆがんだ。胸を押さえ、激しく咳こむ。それを見てカティは頭をはじかれたようにハッとした。


「ルドルフ様、すぐに家の中へ戻りましょう!」


 よくよく見ればいつも以上に顔色がよくない。雨にあたったせいなのか、今にも倒れそうだ。早く温かい場所へ移動して濡れた服を脱がないと。


「こんな雨ごときに癪だけど、それがよさそうだ」


 皮肉めいた口調だが、声に張りがない。やはり身体がつらいのだろう。そばへ寄ると顔を背けられた。


「肩を貸しましょうか」

「必要ない」


 ならばと先に玄関へ行き扉を開けた。自分の着ていた雨ガッパは手早く脱いでわきに置き、衣類室へと急ぐ。棚から洋服一式とタオルを数枚をとり再びルドルフの元へ駆けよると、ちょうど濡れた服を脱いでいたところだった。手伝おうかと思ったが、この主人は自分のことを人に任せたがらないと思い出し、声をかけて着替えを近くに置いた。


 台所に行くとお湯を沸かすために炉に火をつけた。これは術式が組まれた基盤が取り付けられており、人が触れると自由に火を起こせるのだ。仕組みや原理はまったくカティに理解できないが、便利なものなので一般的な家庭にはだいぶ普及している。


 戸棚からワインを取り出すと、小鍋に入れて火にかける。鍋縁がふつふつと沸いてきたら火を止めて、持ち手のついたカップへと注ぎ入れた。もう着替え終わった頃だろうと思い、温めたワインを持ってルドルフの元へ戻る。


「ルドルフ様、これを——……ルドルフ様!」


 着替え終わったものの、力尽きたのかソファに横になっていた。ぐったりとして顔色も悪い。急いで駆け寄るとルドルフは不機嫌そうに顔をしかめた。


「……なに。ちょっと疲れただけだよ」

「あの、髪がまだ濡れています。拭かないと風邪をひかれますよ」


 ルドルフは時間をかけてしぶしぶ上半身を起こした。手を伸ばしてサイドテーブルに置かれたタオルを取ると、なぜかムスッとした顔でカティに手招きをする。まさか拭いてくれということだろうか。させてくれるなら喜んで拭くが、それは彼らしくない。もしかしたら腕を動かすのも億劫なほど消耗しているのかもしれない。そう考えて胸中で心配が大きくなった。


 カティがすぐ近くまで行くと、次は座れと手で示した。意味がわからない。しかし言う通りにしないと怒りそうな雰囲気なので、カティはソファの前にひざをついた。ルドルフはもう少しこっちへ来いと手で示すので、ひざを動かしてにじり寄る。もっと近くへと言うので半分パニックになりながらも、ルドルフのすぐ目の前に座った。彼はソファに座っているので完全に見下ろされている。いったい何を、と思ったとき、ルドルフの手が動いた。


「きみこそびしょ濡れなんだけど?」


 ふわりと頭にかけられたタオル。理解が追いつかないでいると、頭から垂れてきた水の筋がつーっと頬をすべった。その時はじめて自分もひどく濡れていたのだと知った。


「あ、あの……」

「あとは自分で拭いてよ。それと、帰れって言ったのになんでまたここにいるのか、あとで説明してもらうから」


 一度だけぐしゃりと頭をかき混ぜられた。タオルで視界がさえぎられて見えないが、ルドルフは自身の髪を拭いているのが音でなんとなくわかる。顔が熱い。カティはタオルを握りしめてうつむいた。


「……はい。ありがとうございます」


 しぼり出した声は小さく、震えていた。



 ◇



 ルドルフがくれたタオルで髪を拭き、逃げるように台所へかけこんだ。ちょうどお湯が沸いたようだった。暗くひんやりとした室内だが、ケトルからは熱気を感じる。カティは自分の頬を両手ではさんだ。手が冷たいのか顔が熱いのか。手の温度を気持ちよく感じるのだから頬がより熱いのかもしれない。


 ふと、台所の床に置かれたカゴが目に入った。衣類室に行く前に、カティが乱暴に置いていったものだ。中には採れたてのタルノという果実が数個入っていた。このタルノは収穫したすぐは酸味と苦味が強く、食べられたいものではない。時間をおくと苦味が抜け徐々に甘くなるので一晩ほど置いてから食べるのだが、実はその苦味が非常に滋養に優れると言われている。カティは家の庭で実っていたタルノを見つけ、ルドルフに差し入れたいと思ったのだ。


 このまま雨がふれば実が落ちて腐ってしまうかもしれない。暗くなる前に、雨がひどくなる前に。そう思ってカティは雨ガッパに手を伸ばした。


 外を見るともう暗くなっていた。晴れていたらまだ明るい時間だろうが、あいにく厚い雨雲が太陽を遠ざけている。雨が降る夜道を帰るのは構わない。でもあの男——ベンの存在がそれを躊躇させた。思い出したら恐怖で身体が震えてきた。大きな声も、吊り上がった目も、カティを捕らえようととする腕も、何もかもが怖い。


 せめて、もう少し時間を置いてから帰ろう。ついでに作り置きしていたルドルフの夕食もきちんと配膳して、熱いお茶もいれて、それから……。カティはタルノの実を手にとった。大きさにバラつきがあるものの、手のひらくらいのものが全部で五つ。実は平たくて中には種がはいっているので可食部はそんなに多くない。そのままかじるのがもっとも簡単で効果的なので、ルドルフが食べられるようならと思って持ってきたのだが。


 清潔な布でタルノを包み、木槌で慎重に砕いていく。布がじんわりと湿ってきたら、それを思いきりしぼって果汁を集める。五つの実から集まったのはせいぜい大さじ一杯程度だった。カティにもう少し力があれば量は増えたかもしれない。


 先ほどワインを温めた小鍋を洗い、あらたにコップ半量ほどの水を入れて火にかけた。そしてタルノの果汁、ブランデー、蜂蜜、擦った生姜の汁をいれて煮詰めていく。鍋から上がってくるのはなんとも言えない匂いだ。身体に良さそうと言えばそうだろう。


 できあがったものをガラスの椀に入れると、とろりとした茶色い液体が湯気をあげた。このまま冷ましておけば大丈夫だ。夕食を用意する前にルドルフにひとこと言っておこうとリビングに顔を出す。


「ルドルフ様」


 彼はソファに横になり寝ているようだった。長いまつ毛に縁どられた瞳は閉じられていて、静かな呼吸音が雨に混じって聞こえてくる。うすいブランケットを持っていくと、主人を起こさなようにゆっくりと掛けた。


 なんとなく寝顔をながめているとルドルフの顔が急に強張った。悪夢を見ているのか先ほどまで穏やかだった呼吸はしだいに荒くなり、眉根を寄せて苦しそうにしている。ルドルフの片手が、何かを求めるように宙にさまよった。カティはその手を握りしめる。ルドルフに触れるのは初めてで、大きくて冷ややかな手に驚いた。


「ルドルフ様、大丈夫ですか」


 悪夢を見ているのなら目を覚ませば落ち着くはずだ。きゅっと握り返された手にだんだんと温もりが移っていく。すると表情の強張りがいくらか和らいだ気がした。呼吸も少しずつだが穏やかになってきている。


 一度ゆっくりと目があいた。焦点はさだまっていないようで、青い瞳が不安げに揺れている。ルドルフはカティを見るとまた意識が深く沈んでいった。手はしっかりと握られたままで、だいぶ温かくなっていた。



 ◇



 二時間後、目が覚めたルドルフは驚いた。

 意識がはっきりしていつもより体が軽い。熱が出るのではと予想していたのに、むしろここ最近でいちばん体調がいい。なぜだ。考えをめぐらせてもうまく現状と一致しない。そんな時ふと思い出したのはカティだった。夢とうつつの境、すぐ近くにカティがいた気がする。


「……誰か、いるか」


 しんとした部屋に問いかけても、返事はなかった。

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