10 お礼をしたい
カティの水分補給について、効率と確実性を考慮した結果、ガラス製のピペットが採用された。以前おこなった口移しに比べたら心労はだいぶ少ない。
だが、これはこれで恥ずかしかった。
まるで鳥の給餌である。
「ほら、まだ残ってるよ」
体はエネルギーを求めていて水分だけでは到底足りない。かといって咀嚼はできないので固形物はルドルフから止められていた。結果として一時間に一度は呼ばれてピペットを口に突っ込まれている。自分でやると何度か目で訴えたが、それらはキレイに無視された。案外楽しんでいるのではとカティは密かに思っている。
それにこのピペットは長さがあって、自分ひとりではだいぶ扱いづらい。やはり任せたほうがいいのだろう。ただつらいのは自分の羞恥心だけではなくハルトの視線もだ。ものすごく残念なものを見るような目で見られている。視線の先はルドルフだが、主人の名誉のためにも早く声が戻ることを祈った。
昨夜はこの家の客室に泊まったけれど、壁を隔てているとはいえ同じ空間にルドルフがいる事実に緊張してあまり眠ることができなかった。ルドルフとハルトが話している最中に寝てしまったのも関係あるだろう。目が覚めたらルドルフの膝の上だった時のあの驚きといったら、思い出すだけでも冷や汗が出る。
働くことも許してくれず、家の雑用は全てハルトがやってくれた。さすがに洗濯は人を呼んで頼んでいたけれど、ルドルフの身の回りの世話は任せきりになって申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
余った時間の使い方もよくわからない。
草むしりなら大丈夫だろうと中庭で屈んで作業していたら連れ戻されるし、椅子にすわって芋の皮むきならとナイフを構えたところであの怖い笑顔がやってくる。
「そんなにヒマなら本でも読んだら」と分厚い本を渡されたが、内容が専門的すぎてカティにはまったく理解ができない。その間にもルドルフは何冊も本を読んだりノートに何か書きつけていた。となりでそれをながめているのは意外と楽しかった。
町長がやってきたのは夕方のことだった。対応はルドルフのみがやってしまい、カティはどんなやりとりが行われたのか知る由もない。
「これで戻るはずだ」
ルドルフの作業部屋。テーブルに置かれたそれに彼は金槌を振り下ろした。親指ほどの大きさの物体が無残に破壊されると、ぴたりと貼りついていたカティの口が軽くなる。
「……あ、」
声がでる。口が動かせる。
「ルドルフ様、声がでます」
「そう」
返事はそっけないが声は柔らかい。見るとルドルフは険のとれた表情でカティをじっと観察していた。異変がないか、不具合がないか見定めているようだ。
「……うん。だいぶケガもよくなったみたいだし、仕事も解禁してあげる」
「はい、ありがとうございます。嬉しいです」
「仕事してって言って感謝されるの初めてなんだけど」
あきれるような口調だが、それでもカティは嬉しかった。自然とにこにこと笑ってしまい、余計にルドルフがあきれる始末だ。
「あ、でも家に歩いて帰るのは禁止ね。あの男はまだ注意したほうがいい。もうしばらく待ってて」
そうすると今夜も泊まりだろうか。書類上では夫婦なので自宅へ帰る方が問題あるのかもしれない。しかし夫婦だからここへ住まわせてくださいとは口が裂けても言えないし、そうしたいとも思わなかった。
「あの、ルドルフ様」
だからこそ、今回の件でかけた迷惑はきっちりと償いたいし、お礼を言いたい。
「今回のこと、何から何までありがとうございました。私が不甲斐ないせいで多大なご迷惑を……」
「別に。そんなことないよって言ってほしいのならお生憎さま」
ルドルフの憎まれ口もかわいく思えてくる。表面上はツンツンとしていても、ちゃんと優しさがあるのだ。不機嫌そうな顔だって実はそんなに不機嫌でもないとわかってきた。
「あの、ルドルフ様へお礼をしたい、のですが」
言った瞬間ルドルフの眉間にしわが寄る。そんなもの必要ないとでも言いたいのだろう。遮られる前にと言葉を続けるが、緊張のあまりたどたどしくなってしまう。
「私、差し上げられるものが、ほとんどなくて」
いたたまれず、視線を床に落とした。
「…………その、」
両手をきゅっと握り、体中の勇気をかき集める。今この瞬間にルドルフの視線から逃げられたらどんなにいいだろう。でもそれはだめだとカティは自分の心を叱咤する。
「ご気分がよければ、なんですが。その、私を、」
顔が熱くてたまらない。恥ずかしさのあまり声が震える。
「抱いてください……」
最後はかぼそく虫の鳴くような声になってしまった。
自分がなにを言っているかちゃんとわかっている。経験はないけれど、どういう事をするのかも聞いた。ベンと結婚するか、飲み屋で体を売るか、その二択を突きつけられていた時があったのだ。カティだって無知のままじゃいられなかった。
これが数少ないカティが差し出せるもの。
さすがのルドルフも困惑しているようで、ただただカティを見つめている。その無言が耐えられなかった。バカだねと笑ってくれていい。怒って拒否してくれてもいい。ルドルフなら即座に答えを出すと思ったのに、宙ぶらりんな立場がすごくすごく恥ずかしい。
それに優しいルドルフのことだ。断りたいけど言いづらいのではと考え付き、カティは慌てて口を開いた。
「あの、こんな貧相な女を、無理に抱けと言っている訳ではなくて……お好みにあえば……すみません、わきまえずに出過ぎたことを……!」
深く頭を下げ「やっぱり忘れてください」とカティが涙声でこぼした時、視界の端に映るルドルフの足がこちらへ向いた。
一歩二歩と近づくと、うつむいたカティの頬に手を寄せ、上を向かせる。
「このまま寝室へきみを引っ張ってもいいんだけど」
あっけに取られるカティへルドルフがゆっくりと迫った。そのまま唇が重なり、すぐに離れる。じんと熱くしびれる感触が残る。カティは信じられない思いでルドルフを見つめた。
「僕まだ本調子じゃないんだよね。それに隣に誰かいたら眠れなさそうだし」
水分補給の時とは状況がちがう。この口づけには、どういう意味があるのだろうか。目を丸くするカティへ、ルドルフは楽しそうに問う。
「一緒に寝たかった?」
「……はい」
カティはハッとした。
いま、なんと言った。
「いっ、いいえ、ちがうんです! 今のはその、つい口がすべって……」
なんてことを口走ってしまったんだろうか。カティは慌てて弁明するが、ルドルフは目を細めて小さく笑っている。
「へんな子」
またルドルフが顔を近づける。あ、と思った時にはもう唇が重なっていた。カティの反応を確かめるようにはじめは柔らかく、しだいにしっかりと。カティは息をするのを忘れてただただ受け入れた。ルドルフの指が器用に髪をすき、その感覚がまたカティを翻弄する。唇はすぐ離れることはなく、今度は食むように、二度、三度と唇をついばまれた。
ルドルフが離れたとき、カティははふはふと息を吐くことしかできなかった。顔が熱い。それを見てルドルフがさらに問う。
「キスはいや?」
「……いやじゃ、ありません。でも、」
「僕もいやじゃない」
ふたたび触れるだけの口づけをして、ルドルフは部屋のドアに手をかける。
「言質はもらったから。じゃ、僕は先に行ってるよ」
ひとり残されたカティはしばらくその場から動けなかった。




