1 降りてきたひらめき
カティ・フィーメルは家政婦として働いている。家主が快適に過ごせるように家事やこまかな雑用を請け負っているのだが、はじめてひと月のこの仕事にまだ慣れていない。
「あの、お茶が入りました」
テーブルにことりと置かれたティーカップからはやわらかな湯気がたちのぼる。室内には気持ちのいい風が通り、花瓶にある白い花は小さくゆれていた。
カティは雇い主であるルドルフ・ツェクラを盗み見た。日の光がさす窓辺で本を読んでいるのだが、眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。体は痩せていて、相変わらず顔色が悪い。
清らかな水が湧く町「バートルモント」は昔から療養地として有名で、ルドルフはひと月前にこの町へ移ってきた。以前は都で魔術師として忙しく働いていたが体を壊して療養を余儀なくされたという。
確かにルドルフは常に体調が悪そうだった。動きまわるのもつらそうで、端正な顔にはいつも濃い疲労の色を浮かべている。まだ二十代そこそこだというのに、体調を崩すほど忙しくしていたのだろうかとカティは不憫に思う。
部屋を去ろうとするカティに声がかけられた。
「もう仕事は終わったんでしょ。それなら早く帰りなよ」
ツンと言い放たれた言葉に内心首をかしげる。確かにだいたいの仕事は終えているのだが、まだ規定の就業時間は一時間ほど残っている。帰れとはどういうことだろう。不興をかってしまったのだろうかとカティは困惑した。
ルドルフは読んでいた本を閉じると、あきれたように息をつく。
「なに、まだやり残したことあるの?」
「いえ、その……繕いものをしようかと思っていたので」
「もうすぐ雨が降るんだけど」
ルドルフはふいっと顔を背けてしまった。しかし、そう言われてもカティはいまいちピンとこない。たしかに雨が降りそうな天気だけれど、それと帰ることとどう関係するのだろう。戸惑いから何も言えずにいると、ルドルフはまたあきれたように息をつく。
「ああもう鈍いな。道中雨に濡れて風邪をひきたくなかったら、早く帰れって言ってるの」
しばらく飲み込めなかった。しかし天気が崩れる前に帰れということかと理解すると、急に顔が熱くなった。それが恥ずかしくて慌てて頭を下げる。
「はい、ありがとうございます」
「……ふん」
ルドルフは決して愛想のいい男ではない。けれど、決していじわるな人ではない。付き合いはまだ浅いのだが、なんとなくカティはそう思う。彼のことは高名な魔術師だと聞いてはいるが、田舎から出たことがないカティにはそれがどんなにスゴいことかよくわからない。
カティにとってはルドルフは仕事をくれる雇い主で、静養を必要とする病人だ。彼が過ごしやすいように身の回りを整えるのがカティの仕事である。
にも関わらず、逆に心配をかけてしまうなんて。情けないと思うのと同時に、わずかに胸が熱くなった。この町でカティを気にかけてくれる人はほとんどいないから。
「——くっ、げほっ」
急にルドルフが激しく咳き込んだ。お茶を飲もうとして気管支に入ったのか、カップを持ったままむせている。カティは慌てて近よってルドルフの手からカップを受け取る。中身はこぼれていないようなのでホッとした。熱いお茶がかかったら火傷していたかもしれない。
「大丈夫ですか」
「ああ。……くそっ」
悪態をつくルドルフだが、それはカティにではなく己れのままならない身体に対してだった。常につきまとう倦怠感。徐々に細りゆく肉体。痩せていくのと一緒に体力もなくなり、最近は熱を出して寝込む日も増えてきた。
「もう、いいから」
それが本当にイヤだった。なおも心配そうにするカティを遠ざけるのは、自分が情けないから。情けない自分を見られたくないから。身体さえまともに動けば、今だって都の第一線で活躍していたはずだ。それなのに、なぜ。……無駄とわかっていてもルドルフは考えずにはいられない。この現状に納得がいかないのだ。ぐるぐると考えてもを巡らせては悪感情ばかりがつのる。しかし、ふっと小さく息を吐くと自嘲気味に笑った。
「……どうせ、もうすぐ死ぬんだ」
カティはその言葉を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
◇
夕方、強い雨が降り出してきた。家政婦はもう家に着いている頃だろう。そう考えながらルドルフは長椅子に横になった。身体が重くてたまらない。ひと眠りしようかと目を閉じ、雨の音を聞くうちに思考が深く沈んでいく。
どのくらいの時間そうしていたのか、目が覚めたときに辺りはうっすら暗くなっていた。
中途半端な覚醒にぼーっとしていると外から男の怒鳴り声が聞えてきた。この声で目が覚めたのかもしれないと思うと無性に腹が立った。重い身体を引きずるように玄関の方へ行く。騒音めいた声の主に文句を言ってやらねばと思ったのだ。
「——ほら言えよ! この仕事は辞めますって!」
若い男のようだった。こんな雨の中にどうして耳障りな音を出すんだと腹立たしいことこの上ない。見れば雨ガッパを着た男女が家の前で揉めているようだ。フードを深くかぶっているので顔はわからない。
「爪弾きもんのおまえを、もらってやるつってんのに、どうして俺の顔に泥をぬるんだ!」
男は激昂しており、女の腕をつかんで引きずっている。ルドルフは急ぎ外へと向かった。赤の他人とはいえ、目の前で女性が乱暴されるのはさすがにいただけない。女が身をよじりフードが脱げる。出てきたのはおびえた表情をしたカティだった。
「ご、ごめんなさい。でも、私は仕事を続けたいんです」
「このやろう!」
自分が雨に濡れるのも構わずに、ルドルフはふたりの間に入った。
「うちの家政婦さんになんの用なの」
突然のことにふたりとも驚いた。男はルドルフを見ると恨みがましい視線を送り、カティの腕を乱暴に払うとすばやくこの場から去っていった。あとに残されたカティは呆然としていたが、しばらくして助けに入ってくれたルドルフを見上げる。彼は雨具もなにもつけず、強い雨に打たれるがままだった。
「あの──」
「なんなのあれ。どうしてきみが絡まれてるの」
お礼を言おうとして遮られ、質問をぶつけられる。疑問に対する答えをいち早く得たいと思うことはルドルフの性分だ。まっすぐに向けられた眼差しに、カティの身がすくんだ。
「すみません。私を、嫁にもらいたいと、お話をいただいたのですが……お断りをしたんです。たぶん、それで……」
カティはルドルフの顔を見ることが出来なかった。雇用主に迷惑をかけてしまったと不安が大きくなっていく。
あの男の様子からして、今後もああやって脅すだろう。カティをあんなに蔑んでいるのに結婚に執着している。カティは震えた。強く捕まれた手首はいまだにじんじんと痛む。もしかしたら、次は殴られるかもしれない。呼吸がだんだんと浅く短くなってきているのが自分でもわかった。
「なるほど」
逸らしていた視線を戻すと、雨に打たれるルドルフがいた。いつもの冷静な目で、何を考えているか表情からは読み取れない。
「きみは結婚そのものをしたくないの? それともあの男の妻になることが嫌なの?」
じっと見下ろすルドルフの目から逃れることはできない。目の前の男はウソや建前を好まない。それはこのひと月を過ごして感じたことだ。
卑しい理由だとしても、正直にお話ししなければ。カティはそう覚悟を決める。
「あの人と結婚するのはすごく怖いです。でも、女がひとりで生きていくことも難しいのです。……その、仕事が、限られてきますから」
カティにとっては独りも結婚も恐怖である。優しい夫とより添えるのならいいが、カティを妻にしてもいいと手を上げるのは、あの男くらいしかいないだろう。
「今は幸運なことにルドルフ様のもとで働かせて頂き、結婚しなくても生活ができます。せめて、この間だけでもと、思いまして……」
自分の考えの甘さに、徐々に声が小さくなっていく。カティは情けない気持ちでいっぱいになった。いつ不興を買ってクビと言われてもおかしくないし、全快してもう手伝いは不要と言われるかもしれない。あるいは亡くなってしまい……。そこまで考えて頭を振った。なんと恐ろしい想像をしたのだと身震いしながら頭を下げる。
「も、申しわけありま——」
「じゃあ僕と結婚してみる?」
カティは一瞬なんのことだかわからなかった。言葉として頭には入って来るがうまく意味が伝達してこない。のろのろと顔を上げると、ルドルフの瞳と視線がぶつかった。
ざーざーと降りしきる雨が周りの音をかき消し、世界にはふたりだけしかいない。そのような錯覚を抱きつつ、カティはただただルドルフを見つめた。




