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無限の青に、僕らはいた  作者: suturi
1/1

カエデといた夏

(第一章)

 


 風が吹く。跳ねる心臓。寸断なく前へ進み続ける私の足。


 どこまでも青い空が、視界の隅に見えた。


――ゴールだ。


 目の前には、白いテープが張られている。先生たちが両端を引っ張っているゴールラインに、私は一番で滑り込んだ。わあっと歓声が上がる。小さな学校の校庭には、高校三年分の生徒たち。そして、時間を持て余している先生たちが並んでいる。


 校内リレーで五人をごぼう抜きした私に、チームメイトが走ってくる。


「すごいよ、夏蝶。さっすが、エース!」


 香奈の声に、思わず顔がほころんだ。音楽に人生をかけると宣言している香奈は、クラス対抗リレーに最初から参加しなかった。代わりに、みんなをまとめて、アンカーを走る私への応援グッズまで作ってくれた。


「香奈のおかげだよ。応援の声、聞こえたからさ」


 そういって、小さな肩に腕を回して、自分のクラス席へと向かう。表彰台に乗るのは、もっと後だ。学年別の校内リレーの先発は、私たちのクラス。毎年六月に行われる校内リレーを夏前最後の行事として、そのあとは受験勉強一色に染まって、この学校を旅立っていくのだ。三年のほかのアンカーたちも、次々にゴールテープを切っていく。


 席に着こうとすると、目の前に、私よりずっと背の高い少年が立った。


「お疲れ様。これ、クラスのみんなからのプレゼント」


 そう言って、スポーツドリンクを渡してくれる。


「わあ! いいの? うちの学校、ジュース禁止なのに」


「今日は、見なかったことにしてくれるって」


 秘密だよ、というように少年は笑う。ジュースを受け取って座ると、少年は役目が終わったというように席に戻る。左足を、引きずりながら。同じクラスになってからもう三年目なのに、まだその姿は見慣れない。ほかの人に比べたら、半分のスピードも出ていない。


「カエデ君。夏蝶のこと、ずっと応援してたから」


「そうなの?」


「うん。やっぱり、走れる人を見てると、色々考えちゃうんだろうね」


 香奈もそういって、少年――カエデを見つめる。


 県内でもベスト3に入る俊足の私は、歩くことすら不自由なカエデを見ていると、おなかのあたりがむずむずしてくる。ペットボトルの蓋をあける。清涼飲料水が気持ちよく喉におちていったはずなのに、すこし苦い味がした。


 校内リレーが終わると、学校全体がすこし静かになる。


 三年のクラスメイト達は、進学のための勉強や、就職の面接があったりして、夏前には学校に来ることも少なくなる。進学も就職もしない私としては、寂しいことこの上ない。後輩の一年と二年も授業はあるけれど、期末試験も終わってしまった今、普段より活気はない。


 リレーの表彰台にのぼって、クラスのみんなに拍手された一週間前の喧騒が嘘みたいだ。


 放課後も、夏休みが近いせいで、みんな早々に帰ってしまう。あまり家に帰りたくない私は、そんな時、図書館に寄るしかない。


「あ、新作入ってる」


 出たばかりの医療ミステリーものの書籍が棚に並んでいて、思わず声を出してしまった。ハードカバーで丁寧に作られた本を手に取る。窓際の本棚の前でページをめくると、部活動で残った生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。吹奏楽部は、今年も全国大会に行くのだろうか。香奈のトランペットも混ざっているのだと思うと、その音がいとおしい。


「あれ、神宮寺さん?」


 その声に振り向けば、カエデ――本多カエデが、ふにゃりとした笑顔で立っていた。手に本を抱えていて、そういえば図書委員だったことを思い出す。


「最近、よく来ますね。なにか探しているなら、手伝いますよ」


「夏蝶」


「え?」


「苗字、嫌いなの。神宮寺って、いかにもじゃん」


 本多カエデは、ああ……といって理解したようにうなずいた。


 昔からの地主であり、五代前から医者を輩出し続けている神宮寺といえば、この町で知らないものはいない。あちこちにアパートを持っているし、長男と次男は医者になるために東京の大学に行ったとして、町中の誇りだった。


「でも、女の人を、いきなり名前で呼ぶのは……」


「じゃあ、私もカエデって呼ぶ。だから、いいでしょ?」


「そういう問題じゃないと思うんですけど」


「どんな問題でもいいの。とにかく、嫌なの」


 私が語気を強めていうと、カエデはしばらく考えた末に、「分かりました」と答えた。クラスメイトの男の子たちには、わざわざ苗字は嫌いだなんて言わない。でも、私は夏休みが始まるまで、図書館に入り浸るのだ。その間中「神宮寺さん」なんて呼ばれたら、私は逃げ出したくなるに決まっている。


「どんな家にも、色々ありますよね」


 カエデは、どこか大人びた顔でそう言った。


「なんか、達観してるね」


「うちも父親がいないので」


「そうなの?」


「あれ、聞いてませんか。夏のころ、この話結構出たと思うんですけど」


「私、噂話とか嫌いだし。聞いてもすぐ忘れちゃうし」


 なるほど、とカエデは笑う。ほっとしたような顔だった。カエデの家も父親がいない、と聞いて、私は、急に親近感を持った。危ない。こういうのは、寂しい人間のよくないところだ。自分と同じくらい寂しそうな人間がいると、仲間だと思って急接近してしまう。


 私は自分を律しようと思って椅子に座ろうとしたが、そんな私に、カエデがまた声をかけてくる。


「神宮寺さん……じゃなくて、夏蝶さん。最近図書館にずっといますけど、なにかの本を探しているんですか?」


「うーん、まあ」


 私は言葉を濁す。家にいたくないだけ、と答えるのは簡単だ。でも、そのあと、色々なことを詮索されるのも嫌だった。


「医療ミステリーとかで、いい本ないかなあ、なんて……」


「ああ、なら、知念実希人先生や海堂尊先生は?」


「好きだけど、この図書館には入ってないはずじゃない?」


「まあ、学校の図書館ですからね。教育によさそうな本しか新刊で入ってきませんから」


「だよねえ」


「よかったら、貸しましょうか?」


 カエデの突然の申し出に、私は目を丸くする。


「持ってるの?」


「入院生活が長かったんで、本だけは沢山家にあって。よかったら、明日持ってきますよ」


「ほんと!?」


 私は思わず、身を乗り出してしまう。


 こんな町の図書館なんて、入荷される本も限られている。市立図書館は、車じゃないといけない距離。まさか、こんな身近に、私が求めている本を持っている人がいるなんて。


 田舎特有の、知識や情報の入手しにくさを呪っていた私にとっては、行幸だった。


「じゃあ、明日、教室で……いや、図書館で渡しますね。放課後に来てくれれば」


「別に、私は教室でもいいけど」


「他の男子からの嫉妬は買いたくないんで」


 カエデはそう言って、片方の手のひらを私の前に見せた。


「嫉妬って。私、モテないよ。香奈のほうが、ずっと男の子と話せるし」


「夏蝶さんは高値の花なんですよ。学年一位の成績と、県内トップ3のランナー実績をもつ文武両道の地主の娘に本を貸すなんて、一般人の僕にとっては冒険すぎるんです」


 そんなことないよ、と言いたかったが、カエデの発言はすべて真実ではあった。たしかに、事実だけを羅列すると、そうなる。


「うーん、でもなあ……」


「それに僕は、この足ですから。なんでお前みたいなやつが夏蝶さんと仲良くしてるんだ、ってやっかまれるのも困るんで。明日、ここで待ってますね」


 そういって、カエデは背中を向けて図書室の受付に戻っていく。私は、手に持っていた本をみて、足を無意味に動かしてみたりした。


 カエデは、クラスでうまくやれている方じゃない。勉強も中くらい。スポーツは、足のことがあって見学がほとんどだ。もちろん、一年のはじめの方は、体育の時間も全部出席させられていた。スパルタな体育教師が「障害に負けてはいけない!」と無駄に張り切り、嫌がるカエデを授業に参加させた。結果、足をひきずって歩くカエデは、チームの足を引っ張ることになってしまった。クラスメイト達は、カエデにボールをぶつけたり、わざと体当たりするようになった。


 そうだ。思い出した。


 そのころ、カエデは母子家庭だという話が流れ始めた。父親は、カエデが足を引きずるようになってから家を出ていったらしい。カエデは疫病神だという噂がクラス中を席巻するようになって、香奈が憤慨していた。


 カエデはしばらく学校に来れなくなり、カエデの母が乗り込んできた。体育教師も反省したようで、それ以降は、無理に体育に参加させることはなくなった。でも、一度「あいつは俺たちと違う」と異分子扱いされた人間が、すぐに周りと仲良くやれるわけがない。学校というのは冷たい水槽で、一度尾びれをつつかれた人間は、一生、傷が残る。その傷は、どれだけ時間が経っても、「あいつは過去につつかれたやつ」「今も、大事にしなくていい存在」と子どもたちに語りかけてしまう。


 カエデは、いつも独りぼっちだし、お昼ご飯も校庭の隅で食べているらしい。だからこそ、この間の夏のリレーで、スポーツドリンクを持ってきてくれた時、初めて話しかけられたと思って驚いてしまった。クラスのなかで、影のような存在のカエデ。


 でも、私の家のことを無理に詮索しなかった。


「親と仲悪いなんて、かわいそうだね」


 何度も言われたそのセリフを、カエデは口にしなかった。それだけで、私にとっては天使にみえるくらい、ありがたかった。


「ただいま……」


 小さな声で、大きな玄関にそう呟く。三和土を上がってすぐに、龍を象ったという木彫りの衝立が置かれている。庭のつくばいが、カコンと音を立てた。松の木が風にながれる音も聞こえてきて、私は乱暴に靴を脱ぐ。


 他人がみたら、風流な家だというだろう。私だって、この家で暮らした経験がなければ「なんて雅な家だろう」と感動したと思う。けれどこの家には、沁みついている。私の憎しみ、怒り、流せなかった涙が。木彫りでつくられた梁にも、兄二人の身長だけを刻み込んだ柱にも。仲間外れにされた私の哀しさが漂っている。


「夏蝶ちゃん、遅かったのね」


 部屋に向かう途中、か細い声が聞こえた。


 振り返れば、キッチン扉を開けた母だった。臆病なうさぎみたいに、ちいさな体を、よりちいさくして怯えた目をしている。


「……いまさら?」


「どういうこと?」


「私、最近ずっと、帰ってくるのこのくらいだったけど。気づかなかったの?」


「ご飯を作って、お父さんのお酒のつまみ作って、明日のお弁当の用意しているのよ。キッチンから出ないし、分かるわけないじゃない」


 私は、胸のなかにもやもやしたものが広がるのを感じる。


「昔は、アナウンサーしてたんでしょ。キッチンに閉じ込められて、嫌だとか思わないの」


「……そう考えて、お母さんが救われることがあると思うの?」


 母は、なにもかも諦めた顔でそういった。地団太を踏みたくなった。


 昔は、アナウンサーとして有名で、華やかな生活をしていた母。けれど、今は美容室にもまともに行かせてもらえないおかげで、髪も肌もボロボロだった。毎日毎日、朝ごはんをつくってお弁当をつくって夜ご飯をつくって、母の一日は終わる。


「私は、お母さんみたいになりたくない」


 母は、一瞬目を見開いてから、うつむいた。怒ってくれればいいのに。有名大学を首席で卒業したのに、こんな子供じみた言葉に反論できないわけがないのに。


「だから、図書館で勉強して、そのあとは、食事席があるコンビニで時間をつぶしてるの」


「そんなのがお父さんに見つかったら……」


「怒られるでしょうね。もう家から出してくれないでしょうね。世間体以外、気にしない人だものね」


「そんな言い方は……」


「違うっていうの?」


 母は、黙ってしまった。


「お兄ちゃんたちには医学部行かせたのに、私には、高校を卒業したら女だから家で介護しろ、進学もさせない、っていう人間が、世間体以外のなにを気にするっていうの?」


「あの人も、一応あなたのことを大事にしていて……」


「大事にしているなら、どうして私が夕食を家で食べてないことにも、十時にならないと戻ってこないことにも気づかないの?」


 母は、また黙る。私とのやりとりが二階の書斎に聞こえないか、怯えている様子だった。私が物心ついた時から、母はいつだって何かを怖がっている。この家を、父を、父と同じように世間体を。華やかなアナウンサー時代の友達とも会わなくなってしまった。今の自分がみじめで、みすぼらしく思うのだろう。


「かわいそうな人」


 私はそう呟いて、一階の奥にある自室に向かった。昔は、お手伝いさんの寝床だった場所だ。父と、兄二人の部屋は二階にある。私は、父が書斎で高級リクライニングチェアを転がす音を聞きながら、畳の部屋で、防音性もない扉を閉めるのだ。


「……なんなのよ」


 布団に学校鞄を放り投げながら、つぶやく。


「娘にこんなこと言われて、悔しくないの。言い返したらいいのに」


 私もまだ子供だ、と思った。無茶苦茶な理屈だ。母を傷つけてしまった罪悪感から逃げるために、また母を責めようとしている。


 二階から、父が歩く音が聞こえてきた。


「さいあく」


 そう呟いて、布団に横になる。ベッドは許されなかった。「女は布団でいいんだ」なんていう父親の時代錯誤にもほどがある意見が採用されてしまったためだ。男はベッド、女は布団なんて、今時、どんな男尊女卑家庭でもありえない。でも、この家では、父が法律だ。父がすべてだ。父の意見を覆せるひとはいない。


 目の前の鞄から、本が見えた。


 図書館で借りてきた医療本だ。といっても、専門知識が載った本じゃない。図書館にないから、カエデが貸してくれると言った医療ミステリーでも勿論ない。病気の仕組みを簡単に書いた実用書だ。中高生向けに簡単な言葉で書かれている。


 私は、専門書が良かった。兄二人が、東京で使っているような、医学本。医者になるための専門知識を手に入れられる魔法の本。私には、一生与えられない本……。


「大学、いきたかったな……」


 思わず、そう言葉に出てしまった。こんな田舎に、父と母の介護のために残りたくない。東京でも大阪でも名古屋でも仙台でもどこでもいい。父のいない場所で、好きなだけ勉強できる居場所が欲しい。


 でも、その願いが叶うことはない。


 私はこの家で、昔はお手伝いさんが使っていた部屋で、ベッドではなく布団で、一生を終えるのだ。そう思ったとき、カエデの姿が浮かんだ。本を貸してくれると言ったカエデ。「親が愛してくれないなんて嘘だよ。親はいつも、子どものことを思っているんだよ」とか言わなかったカエデ。いつも左足をひきずっているのに、クラスで仲間外れにされているのに、いつも笑顔を忘れないカエデ。


――私はあんな風に笑えているんだろうか。


 天井を見上げると、古いシミがいくつもある。防寒リフォームもこの部屋は施されなかった。私は布団のなかに丸まって、古いシミを数え始める。そして、考えるのだ。カエデのほうが、私より辛いはずだ。


 それなのに、私より沢山笑っている。


――あんな風になれたらいいのに。


 そう思って目をつむった。今日一日の哀しかったこと、悔しかったことを思い出す。


 いつもの癖だ。一日の終わりには、辛かったことばかりが出てくる。


 でも今日は……。明日が楽しみになった。


 明日になれば、カエデが本を貸してくれる。私がずっと読みたかった、大好きな作家の新作を。


 本の世界では、私は自由だ。この家のことも、父のことも忘れられる。ただ自由に、知らない世界を駆け巡る。


――早く、明日にならないかな。そう思って布団にもっと潜る。二階にいる父の音を、聞かないために。


「ねえ、カエデ。このひと、犯人じゃないよね?」


 そう聞いた私に、カエデは呆れた顔をした。医療ミステリーをカエデに借りるようになって三日目。


「学校が終わった後はどうしているんですか?」と聞かれて、素直に、「コンビニで時間をつぶしている」と答えてしまった私に、カエデは目を見開いた。


「田舎だからこそ! 夜に女性が一人でいたら危ないですよ!」


「でも、家に帰るのもちょっと……」


「じゃあ、僕が付き添いますから! 足がアレではありますが、いないよりはましですから!」


 怒るように声を大きくしたカエデに圧されて、私たちはいま、夜のコンビニにたむろしている。都会なら、マクドナルドとかに深夜までいる不良学生たちみたいだ。


 ご飯が食べられるブースに座っているのは、私たち二人だけ。私は、カエデに借りた本を読み、カエデは、周囲に変なひとがいないかを常に警戒している。


「ネタバレはいやでしょ? 犯人かどうかは、最後まで読んだら分かりますから」


「私、ネタバレ平気なひとだよ。むしろ、されたい」


「ええっ」


「そこまでにどういう伏線を仕込んでいるかで楽しめるからさ。ね、このひと、犯人じゃないよね?」


 読んでいる作品は、探偵役の医者が、病院内部で起きた殺人事件の犯人を探るというものだった。カエデはため息をつく。


「違います。今は疑わしく見えると思いますが、ちゃんと、いい人です」


「よかったあ。いいキャラしてるから、心配だったんだよね」


 ホッとして、ページをめくる。私は、読むのが早い方だ。どんどん次のページに手をかける私に、カエデがため息をはく。それを聞いて、「あ」と気づいた。


「カエデのお母さんは大丈夫? 息子がこんな夜まで外歩いてて怒らない?」


「夜もずっと仕事していますし。ちゃんと連絡しましたし、一人で家にいるほうが怒られます」


「そうなの?」


「女の子を放っておいて一人で帰ってくるとは何事だ! ってね。父はそういう、ちゃらんぽらんな人間で。だから母としても、僕にはそうなってほしくないでしょうし」


 意外なところで、カエデのお母さんの人柄が知れてしまった。そんなお母さんだからこそ、カエデも素直にすくすく育ったのだろうか。


「ねえ、カエデ」


「なんでしょう?」


「これから、お昼ごはん一緒に食べる?」


「えっ」


「いつも一人で、人気のないところにいるでしょ。でもそこまでいくのも、大変だろうし」


「いや、でも、夏蝶さんは香奈さんと一緒に食べてますよね」


「うん。香奈なら、カエデが参加することくらい全然いいよって言ってくれる」


「そういうことじゃなくて……」


 カエデは、困ったように頭をかいた。


「だから、もっと自覚してくださいよ。あなたはモテるんです。クラスで一番、男子からの好感度も高い。そんな人が、僕なんかとご飯をっていうのは」


「なんか、って言わないで」


 自分でも思いがけなく、強い口調になった。いつも父親に「お前なんかが」と言われている弊害かもしれない。


「あのね、カエデは貴重なの。毎日本を貸してくれる最高の友達。そんな人が、人気のないところでご飯なんて耐えられない。風邪ひいたらどうするの。体悪くしたらどうするの。そもそも、虐めてきた奴らが悪いのに、なんでカエデが教室を出なきゃいけないの」


「でも……」


「でも、じゃないの。これは決定事項だから。明日から、一緒にご飯ね」


 カエデは、軽くため息をついた。もう、何を言っても仕方ないと悟ったのだろう。私が強引なことは、この三日で理解したらしい。


「分かりました。では、明日から」


「うん、明日から」


 そういって、カエデが小指を差し出してきた。


「ん?」


「え?」


「なに、この指」


「え、指切りげんまんしませんか?」


「するの!?」


「え?」


 本当に不思議そうに首をかしげるカエデに、私の方がおかしなことを言っているような気がしてきた。


「母とも、約束をする時にはこうするんですが」


「お母さんと仲いいね!?」


 羨ましくなってしまうような言葉に、私は思わず叫んだ。


「仲がいいというか。約束は絶対守りなさいって言われてるんです」


「あー。それも、その……」


「ええ、父が、そういう人間ではなかったので」


「なるほど」


 私はそう答えて、カエデの指に、そっと自分の指をかさねる。


「……ゆーびきーりげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲―ます。指切った」


 そう言って、お互いの指を離した。


 カエデは真剣そうな顔つきで「よし」と言っていた。そんな姿に、思わず、ふふっと笑ってしまった。高校生にもなって、指切りげんまんする日が来るなんて。しかも、男の子と。


カエデを見ると、不思議そうな顔をしている。


 女性を一人で夜歩かせてはいけない! とか言っているのに、すこし子どもっぽい。そのギャップが、愛おしかった。


「カエデは、かわいいねえ」


「ちょ。男の子に向かって、かわいいっていうのは」


「性別問わず、かわいいのが一番だよ。おじいちゃんおばあちゃんになったときに、可愛くない人ってどうしようもないじゃん」


「そんな先のことで説得されてもなあ」


 また困り顔になるカエデに、また私は微笑んでしまう。お兄ちゃん二人とは、こんなに楽しく話せなかった。


「カエデって、なんかこう、いいよね」


「え、何がですか」


「自然体っていうか。私の前でも、普通にしててくれるっていうか」


「普通にしてくれない人がいるんですか?」


「クラスの男の子とか。なんか緊張してるっていうか」


「そりゃ、高嶺の花ですからね」


「お兄ちゃんたちとは、ほとんど話したことないしなあ。私、カエデが、ちゃんと話した初めての男の子なのかも」


 ぼんやりと遠くをみて、そう呟いた。


「お兄さんたちと、ほとんど話したことがない、ですか?」


「うん。上の兄とは五歳、下の兄とは二歳違うし」


「それって、普通の年齢差じゃないですか?」


「普通の家だったらね。我が家では違うの」


 そういうと、カエデがなにか察したような顔をした。


 カエデは、親に愛されない子どもがいることを知っている。だから私も、安心して話せた。何を言っても「そんなことはない。お父さんは君を愛している」とかいう人間じゃないと思えたから。


「お父さんはね、男の子三人がよかったんだって。男の子じゃなきゃ意味がないんだって。なのに、私は女の子でしょ。だからハズレくじなの」


「子どもをクジだなんて」


「まあ。仕方ないよ。兄二人は食卓でご飯を食べていたけれど、私は、兄も父もご飯を食べ終えて、それぞれの部屋に戻った後、残ったものを食べるだけ。二人が東京に行ってからは、両親が寝たころに冷蔵庫を漁ってるんだ」


「それって、虐待じゃないですか?」


「私も、そう思うんだけどねえ」


 コンビニ前の小さな道路に、大きな車が走っていった。あれはどこの誰の車だ、と、この辺の人ならだれでもが分かってしまう。そんな小さな社会で、私が父から虐げられていることを、知るものは少ない。兄二人に比べて冷遇されているとは知られていても、ご飯を食べる時間まで違って、お手伝いさん用の部屋に寝かされているとは思わないらしい。


「大学にも行っちゃだめなんだよね。父さんの介護のために、こっちにいなきゃいけないの」


「夏蝶さん、頭いいのに。学内一位でしょ」


「しょうがないんだよ。我が家では、父が法律だから」


「日本国憲法より偉い?」


「そう。この世界で一番強い。逆らったら、私なんてすぐに追い出されて、いまの高校もやめなきゃいけなくなっちゃうから」


 ふふっと笑ってみたが、カエデは渋い顔をしている。


「なに、その顔」


「いえ……」


「言ってよ。なんか変な話したから怒ってる?」


「僕、大人になったら、偉くなって、その父親、ぶん殴ってやります」


 今度は、私が目を見張る番だった。


 カエデは、いたくまじめな顔をしている。


「夏蝶さんがどんだけ頑張ってたか、どんだけ辛かったか、全部話して聞かせてやります」


「うちの父相手に?」


「誰であっても、夏蝶さんをひどい目にあわせていい権利なんてない。僕、頑張りますから。頑張って偉くなって……いえ、偉くなくても。もっと大人になって、社会にも母にも迷惑かけない年になったら、絶対、やってやりますから」→のちに自分で殴る


 私は、コンビニの机の上に、両腕をぺたりと交差させて、顔をくっつけた。


「ごめんなさい。こんなこと、言われたくないですよね」


「ううん、そうじゃない。大丈夫だから」


 ガラスに、店内が映る。私とカエデ以外は誰もいない。こんな夜中に、こんな場所で二人きり、寂しさを共有するとは思わなかった。


 そして、あの父親を、「殴ってやる」なんて言ってくれる人がいるなんて、思わなかった。


「ほんと、大丈夫だから」


 そういった私の頬を、涙が伝う。


 泣くな、ばか! そう思ったのに、止まってはくれなかった。


 ガラスに映るカエデは、困ったような、あたたかい顔をしていた。でも、触れてはこなかった。ただ、隣に座って、大丈夫、というように傍に居続けてくれた。


 それは、私が今まで求め続けて、そして絶対に得られなかったものだった。


涙は止まることがなく、そして、カエデが私の傍をはなれることも、なかった。



(第二章)



「カエデ―! ほら、こっちこっち!」


「もー! 急かさないでくださいよー!」


 そう言いながら、カエデは私のそばに歩いてくる。足を引きずる姿にも、もう随分なれた。


 いまではそれは日常の一部だ。欠かせない、日常の。


「ううっ。今日も暑いですね」


 そういって、カエデは私の隣に座る。


 夏休みに入って学校がなくなったあと、私たちは図書館という居場所をなくした。


 一か月程度の休みではあるが、家で父や母の姿をみるのがいやな私としては、どこか別の場所が必要だった。コンビニにいるのは、さすがに店員の目が気になってきた。どうしようかと考えた結果、人気のない街はずれの公園で待ち合わせることになったのだ。


「夏蝶さん。大丈夫ですか、熱中症とか」


「ふふん。図書館の医学本は読みつくしたからね。首周りに冷たいタオル巻いてるし、ちゃんと水分もとってるから」


「さすが」


 私は、シースルーのトップスとタンクトップ、それから膝丈のスカートだった。カエデは半ズボンに半袖。オシャレに執念があるわけじゃないけれど、外に出る以上、ある程度の格好はしろと、母はいつも口すっぱく言っている。


 それをうっとおしく思うことの方が多かったけれど、今は感謝している。カエデの隣に並ぶ時、なるべく可愛い方が、嬉しいから。


「今回の本もよかったよ! まさかこの人が犯人とは、って感じ!」


「どんでん返しでしたよね」


「ね! 伏線どうやって張ったのかが気になっちゃってさ、二回読んじゃった!」


「え。昨日だけで二冊分読んだってことですか? ほんと、速読ですね」


「昔は本読んでるだけで怒られたからさ。いつの間にか身に着いちゃった」


 てへへ、と笑うと、カエデが暗い顔になる。まずい。私にとっては当たり前のことだったが、カエデや普通のひとには、完全に「おかしなこと」だ。


「でも、中学校に上がってからは参考書読んだり、図書館の本借りるのは許されたし! 大丈夫」


「大丈夫の基準がおかしいんだよなあ」


 カエデがぼやく。


「そう言ってくれるだけでいいよ。それで? 今日はなんの本持ってきてくれたの?」


「まったく、この人は! ぼくはときどき、本を運ぶだけの働きバチなのかなって思いますよ!」


 最近は、カエデもこうやって憎まれ口を叩いてくれるようになった。


 リレーの日までは話したこともなかったのに、大きな進歩だ。誰に対しても距離をおいているカエデが、私には素直に話してくれる。そのことが、たまらなく嬉しかった。


「今日のは、『人の死なないミステリー』で有名になった本です」


「わ、それ知ってる! 一番好きっていってるミステリーファンもいるやつだよね」


「そうですね。この本は、人が死なないのにミステリーを成立させていますし、張り巡らせた伏線が最後に綺麗に回収されるのがすごく良くて。最後の三ページ読んだら、もう一度読み直したくなる本なんですよ。僕がこれを買ったときはーー」


 カエデは饒舌に語り始める。


 寡黙な人だと思ってたけど、一度気を許した相手には、よくしゃべるのがカエデだった。私は最近、おしゃべりなカエデを見ていると嬉しい。


「なんですか。にやにやして」


「私ねえ、最近、饒舌なカエデをみていると楽しくて」


「あっ。すみません、今、僕、喋りすぎてましたね」


「ううん! いいの! もっと話して」


「でも……」


「カエデが幸せそうに話しているとね、私にも幸福になる権利があるんだって思えるんだ」


 カエデが、暗い顔になる。


「それは僕が、足が半分動かなくて、父親がいないからですか?」


「まさか! 私たちって、寂しい者同士でしょ。なんかが寂しい。なにかが足りないってずっと思ってる」


 手を空に向けると、青さが目に染みるようだった。


「いつか、全部足りて、寂しくなくなっても、その時も、一緒にいようね」


 カエデからの返答はなかった。横をみると、カエデが俯いている。


「ごめん。答えにくいよね。今のなし」


「東京に行きませんか」


 カエデの言葉は、思いもしないものだった。


「いえ、大阪でも仙台でも名古屋でもいいんですけど……」


「それは、私も考えてはいたけれど。でも、お父さんが許すはずがないし」


「……僕の足が動かない理由って、話しましたっけ?」


「ううん……」


「交通事故で車にひかれて。その時に骨がぐちゃぐちゃになっちゃったんです。でもね、都会だったら、この足、治ったかもしれなかったんだって」


 カエデの言葉に、目を見張る。


 田舎と都会の違いは知っている。格差があることも身に染みて実感している。でも、足が治るか、治らないかまで差が開いているとは思わなかった。


「事故のあと、すぐに病院に運ばれて。でも、ちゃんとした病院でも、都会ほどいい手術じゃない」


「でも、そのあとリハビリすれば……」


「リハビリしてくれる病院、県をまたがないと行けなかったんですよ」


 カエデは、寂しそうに微笑んだ。


「母は忙しく仕事しているのに、毎日通えるわけがない。入院するにはお金が足りない。それにその時、ちょうど病院の院長先生が変わったばっかりで、若い患者よりお年寄りを優先させた方が診療報酬も上がるってなって」


「それってまさか……」


 父の事ではないかと思った。このあたりに大きな病院は一つしかないし、父は私が小学校に上がるころに院長になった。


「ええ。まあ、そうですね。夏蝶さんのお父さんです」


「ごめん……。私、何も知らなくて」


「夏蝶さんのせいじゃないですから。でも……そうですね。同じクラスになった時は、少し憎んだりもしました。あの院長の子どもだ。裕福な暮らしで、恵まれていることにすら気づいてないんだろうなって」


「……うん」


「院長が変わったことと、母が僕をリハビリに連れていったら暮らしが成り立たなくなること。その二つで、医者は、僕のリハビリの提案を積極的にしなかったそうです。まあ、提案されたところで、あの時の母は、どうしようもなかったと思いますが」


 そういって、カエデは苦笑した。その顔が寂し過ぎて、私は泣きそうになった。


「作業療法士とか、理学療法士って知ってますか?」


「ええと、リハビリをしてくれる人だよね」


「そうです。僕、それになりたいんです。こういう田舎町の病院にも絶対作業療法士がいるようになったら、僕みたいに怪我した人を救えるかもしれないから」


 カエデは、空を見ながら、そのもっと遠くをみつめていた。


 一体、何が見えているんだろう。


 足が当たり前に動いたかもしれない自分? それとも、子どもたちを、自由に走らせることができる未来?


 私は、大きく息をすって、吐いた。カエデには夢がある。それは、素晴らしいことに思えた。


「そっか。カエデは、都会に行くのか」


「夏蝶さんも一緒に行きましょうよ。こんな田舎、出ていっちゃいましょう」


「無理だよ。お父さんが許してくれるはずないもん」


「じゃ、家出しちゃえばいい」


「お金ないし。暮らしていけないもん」


「がんばって、稼ぎましょう?」


「でも、私なんかが……」


 そういった私に、「夏蝶さん」とカエデが真面目な声を出した。


「なんか、なんて言わないでください。あなたは勉強家だし、スポーツも万能だし、男子にはモテるし、女子にも憧れられてる。これ以上ないくらい尊敬されているのに、認めないお父さんのせいで、自己肯定感が異様に低い」


「そんなことはないよ。私は私を正当に評価してるだけ。勉強だって、他にやることがなかっただけだし。走るの早いのは走っている間だけ、何もかも忘れられたからだし……」


「僕たちは、もっともっと、幸せになるべきなんです」


 カエデは、真剣に私を見つめる。


「何もかも忘れられるから走る、なんて、悲しいことなんです。夏蝶さんは、それに気づくべきだ。何も忘れなくてもいい、ただ今を楽しんでいればいい。そう沢山のクラスメイトが思っている時に、夏蝶さんは、虐げられている。その事実を、もっと理解すべきなんだ」


 理解はしている、と反論しようとして、口を閉じた。


 本当にそうだろうか? 私は今まで、父にされる沢山のことを、全部当たり前のことだ、仕方ないと諦めてこなかっただろうか。まるで、母みたいに。


「何も我慢しなくていい場所で、自分のやりたいことを全部やればいい。そのためには……この小さな田舎から、出ていかなくちゃ」


「都会に行ったからって、うまくいくとは限らないじゃない」


「そりゃあ、そうです。でも僕たちは平気ですよ」


「なぜ?」


「努力することの意味を、もう知ってるから」


 カエデの微笑みに、得心した。足が動かない状態でも、まっとうに生きていこうとすること。父にすべてを制限されても、まじめに生きてきたこと。それらは、「努力」というには血生過ぎる哀しいことだったかもしれない。それでも、「努力」しなければ生きていけない環境に、私たちは生きていたのだ。


「東京、かあ」


 空を見る。この青い空は、どこにでも繋がっているのだ。東京でも大阪でも、もっと大きな都市にも。そして、別の国にも。


「いいね。いこうか」


「ほんとですか!?」


「うん。カエデと一緒なら、行ける気がする」


 カエデの顔が、さっと赤らんだ。


 私も、自分の言葉に、思わず慌てる。


 そういう意味にとられてしまうかもしれない。いや、実際、そういう意味なのだけれど。


「あ、あの。ほら。すごい遠いところでも、誰かいると安心だし」


「そ、そうですよね」


「うん! あ、それにほら、カエデなら、本も貸してくれるしさ」


「そっかー。夏蝶さんは、僕の本目当てかー」


 カエデがおかしそうに笑いながら、そういって空に手を伸ばす。


 私も同じように、空に手を上げる。


 二人の手が、夏晴れの空にきらめくように光った。


「どこまでも、どこまでも行きましょう」


「うん」


「夏蝶って名前なんですから。蝶みたいに羽ばたいていいんです」


 カエデの声にうなずく。でも、ふと気づく。


 それなら、カエデの名前は、悲しいじゃないか。紅葉して、地面に落ちて、捨てられる。蝶のように飛ぶこともできずに、青空の向こうにいくこともできずに。


「夏蝶さん? どうしました?」


「え? あ、ううん。なんでもない」


 私は何もなかったフリをして、青空をもう一度見る。


 カエデの小指と、私の小指が、小さく、触れ合った。そのとたん、顔が熱くなるのを感じた。指切りげんまんしたときはなんでもなかったのに。


――私は、カエデに恋をしている。


 そのことに気づいた瞬間、私は声が出せなくなった。カエデも同じだったようだ。真っ赤な顔をして、空を見上げているフリをしていた。


 私たちはどうなるんだろう? そんなことを、考えた。答えの出ない問題は苦手だ。すべての問題に、簡単に答えを出すには、どうしたらいいんだろう。



(第三章)



「お邪魔いたします……」


 そう言ってカエデの家の玄関をくぐったのは、夏休みが終わる三日前だった。


 相変わらず公園で本を借りていた私だったが、その日は、生憎の雨だったのだ。


「えっ。どうしましょうか。帰ります?」


「ううーん。今日、父が病院休みで家にいるんだよね」


「じゃあ、帰りたくないですよね……」


 言わなくても分かってくれるカエデに、あらためて感謝した。


「コンビニ行きます? 少し遠いですけど……」


「そこに行くまでにずぶ濡れになっちゃうからなあ……」


 たしかに、とカエデはうなずく。


 それから、何かを思い出したような顔をして、「いやでも……」と俯く。そしてまた、顔を上げて私に何かを言おうとして、「いやでも……」と俯く。


「どしたの?」


「……いや、その、女性に言うことじゃないと思って……」


「いいから、言ってよ」


「うーん」


「はーやーく。悩んでるうちに濡れちゃうよ?」


 そうなんですけど……と、カエデは泣きそうな顔になった。思わず、可愛いと思ってしまう。ここ最近、ネットで「初恋 どうしたら」「好きなひと 可愛く見える」で検索した結果、私はとんでもない事実を知った。


――かわいいと思える男こそ、大事にすべき。


――男をかわいいと思えたら、その関係は長続きする。


――かわいいということは、相手の弱さも受け入れたことだから。


 ネットには信頼できない情報も転がっている。でもたまに、圧倒的多数の人々の集合知も転がっている。これは、恋に悩む女性たちに数多の大人がかけていた言葉だ。つまり……私がカエデを可愛いと思っているということは……。


 そこまで考えて、首を振った。


 カエデに、「そんなこと」を求めちゃいけない。私とカエデは、あくまで友達でいなきゃいけないんだ。恋人になりたいだなんて思っちゃいけない。


 私の葛藤には気づかない様子で、カエデは、あー、とか、うー、とか悩んでいる。そして最後に、泣きそうな顔でこういった。


「……僕の家に、来ますか? お風呂も、すぐに沸かせますから」


 全世界の女子高校生には、よく考えてみてほしい。


 気になっている男の子から、「ウチに来ない?」と誘われたとき、どうする?


 しかもその男の子が、さんざん悩んで、「失礼かもしれないし」と考え抜いたあげく、雨というどうしようもない理由で言ってきたら?


 それだけ、信頼できる相手だったら?


「……家に?」


「はい……」


「カエデの、家に?」


「はい……」


 消え入りそうな声で、カエデが俯く。


「ごめんなさい。やっぱり嫌ですよね。やっぱりコンビニに行くとかで」


「いや、行くよ」


 私は、身を乗り出して、そう言っていた。


「行く。カエデの家に。うん。ほら、早くしよ。雨、強くなるよ」


 早口でまくしたてて、私は走り始めた。カエデの家がどっちだかもわからないのに。


「あ、あの! そっち逆なんですけど!」


「そんな気がした! ごめん、カエデ。先歩いて!」


 私はそう叫び返す。カエデは可能な限りの速さで――もちろん、足はひきずったままで駆け寄ってくる。


「急がなくていいよ」


「いや、でもですね」


「だって、どうせお風呂貸してくれるんでしょう」


 私は一体なぜ、こうまで積極的なんだろう。頭のなかに疑問ばかりが浮かぶ。それでも私は、カエデの家にいける。カエデの部屋をみれる。そのことが、楽しみでならなかった。


 そうして十五分後、私とカエデは、カエデの家の玄関扉を開けたのだ。


「おお……」


「ごめんなさい。古いアパートだし、昨日片づけできなくて」


「いや、いいよいいよ。そんなの気にしないで」


 カエデの家は、たしかに古いアパートだった。二階建てで、都市ガスも通ってない。コンロは二口だったし、狭いキッチンと、小さな和室が二つあるだけだった。家賃の低い田舎町でも、さらに安いだろうということが容易に想像できた。


「いいなあ。なんか、あったかい家だね」


「えっ。あったかい? もう風邪の症状出てます?」


「そっちじゃなくてさ。家族写真も飾られていて。カエデの赤ちゃんのころから入学式まで全部あって……。あ、これまだ蒙古斑ある! かわいいー!」


「ちょっと! 見ないでください!」


「あ、やっぱり、赤ちゃんのころとはいえ、お尻、見られるの嫌だよね」


「そういうことじゃなく……。ああ、もう! とにかくお風呂やってくるんで! 静かに待っていてくださいね!」


 はーい、と答えて、洗面所に消えていくカエデを見送る。


 もちろん、私がおとなしく待てるわけがない。あたりを見回して、泣きそうな気持になった。


 家に入った瞬間に、昨日の残り物と思しき煮物の匂いがした。埃っぽさと一緒に、甘いお菓子の匂いがした。よく見れば、机のうえに、焼いたケーキがおかれている。ナッツやチョコや小麦粉を混ぜて焼いただけのものだ。でも、私の母が父のために作る、高級店で売ってそうなものよりも、ずっとおいしそうに見えた。


 二人で昨夜食べたのだろうと思しきお皿も二枚残っている。小さな食卓で、身を寄せ合っている母子の姿が浮かんで、私は微笑んだ。寂しさと、悔しさと、それでもカエデが幸せそうでよかったという複雑な感情のまじった笑顔だったと思う。我が家では、絶対にありえない匂いと光景。


「今お風呂つけたので、しばらくしたら……夏蝶さん?」


「え? ああ、うん。ありがとう」


「どうしたんですか?」


「なにが?」


「辛そうな顔をしてるから」


 そう言われて、私は、カエデの瞳に映っている自分をみた。泣きそうになりながら笑っている自分がみえて、どうしたらいいかわからなかった。


「あ、着替えも今持ってきますから」


「ううん。大丈夫」


「夏蝶さんの「大丈夫」は、「大丈夫じゃない」ってことですから」


 カエデは、背中を向けてそういう。


 私は、いますぐにでもカエデを抱きしめたくなって、でもそんなことをしたら逃げられてしまう気がして、その場から動けなくなってしまった。


「カエデって、この家の子だね」


「なんですか、いきなり」


「この家で育って、だからそんなに優しくて。こんな私なんかに……」


「夏蝶さん……」


 カエデが困惑している。


「あの、タオル、タオル持ってきますので」


「だめ、そばにいて」


「いや、でも」


「お願い。カエデがここで育ったんだなあって思ったら、すごい、胸がいっぱいになっちゃって……」


 そういって、カエデのびしょ濡れの胸元に触れる。鼓動が早かった。カエデでも緊張するんだと思ったけれど、これは、私の心臓の音かもしれないと、気づく。この先に進むつもりはない。でも、カエデを手放すこともできない。


 付き合ってもないのに、一体どうしたらいいのか分からない。


 二人の間に、静寂が落ちる。困惑と、期待と、不安のいりまじった沈黙。


「……あの、カエデ」


 意を決して、顔を上げる。私はきっと、泣きそうな顔をしていただろう。そのあとに、なんと言葉を続けるつもりなのかも決めてはいなかった。


「……はい」


 カエデが答える。


「あの、私ね」


 そういった瞬間、


「ただいまー」


 という声が聞こえた。


 目を丸くして見ると、玄関をあけた女性が一人。大きな鞄をもって、傘をたたんでいる女性。カエデとよく似た顔立ちだった。


「……母さん?」


 カエデがそう呟く。カエデの母は、目を白黒させてから、私とカエデを交互に見やった。そうして、意を決した顔になり、ずんずんと私たちのもとに歩いてきた。


「え、あの、母さん?」


 そういったカエデの頬を、女性が張り倒す。


「えっ」


「この親不孝者が! 女の子を泣かせるなんてどういうつもり!」


 カエデの母は、仁王立ちでそういった。


「母さんのいない間に女の子を連れ込むなんて。学生のうちはダメって言ったでしょ! 責任を負うのは、男のあんたじゃなくて、妊娠する体の女の子だっていったよね?」


「待って、母さん、誤解だ!」


「なにが誤解なの! こんなかわいい子を……。ごめんなさいね。うちの子が……」


 と、カエデの母は、私の手を掴む。


「あら。あなた、神宮寺さんの家の子?」


「あ、は、はい!」


 カエデの母の手は、温かかった。


 まるで、冬のさなかに行火に触れたように。指先から温まっていく。


 私は、なんとかしなきゃと頭を混乱させながら、言葉を絞り出す。


「あの、本当に誤解なんです。私はカエデさんから本を借りてて。でも、この雨で行く場所もなくして。ずぶ濡れだったし、お風呂であたたまっていくのはどうかって言われて。でもその時もカエデさん、すごく困った顔してて、むしろ私が積極的に家に行きたいっていったくらいで……」


 早口でまくしたてると、カエデの母が、驚いたように息子をみる。


 息子であるカエデは「そういうことです」と頷く。


 カエデの母は間違いに気づいたのか、「あらあらあらまあ」と言った。その瞬間、お風呂が沸けたというアナウンスがある。


「とりあえず、あなたお風呂入ってきなさい! 私の服貸してあげるから!」


「え、でもカエデ君は」


「僕は大丈夫。母さん、看護師だし。病気したら休ませてくれるし。夏蝶さんの家は、風邪ひいても、家にいれないでしょう」


「まあ、そうだけど」


「じゃ、先に入ってきて。ほら、早く行く。じゃないと僕が入るのも遅れちゃうから」


 カエデに追い立てられて、風呂場に向かう。


「あ、でも僕のことは気にせずにゆっくりあったまってきていいからね!」


 その言葉を最後に、脱衣所の扉が閉められた。


「タオルは洗濯機の棚の二段目よ!」


 とカエデの母の声も聞こえる。なんだか、笑ってしまった。


 お風呂に入るだけでこんなに気を遣われるなんて。人生で初めてだった。


 そして何より、カエデの家でお風呂に入ることがあるなんて。人生って、想像もしないことばかりだ。


 お風呂から出ると、髪を先にドライヤーで乾かしたらしいカエデが、新しい服に着替えていた。


「あら、もういいの? もっと入っててもいいのよ」


 カエデの母が心配そうに聞いてくる。本当に、親切なひとだと思った。


「大丈夫です。家でも、これくらいなので。もっと入ってると、慣れなくてのぼせちゃうから」


 カエデの母が、カエデを見る。カエデが頷いた。どうやら、我が家の事情は、すでにカエデからカエデの母に共有されたらしい。


 ありがたかった。一から説明するのは大変だし、そもそも、誰かに説明したい内容でもなかったから。


 カエデの母が、微笑む。


「そう。じゃ、ゆっくりしてて。その間にカエデはお風呂ね。あがったら、カルピスでも用意しておくからね」


 今度はカエデが、お風呂場へと向かう。それを心配そうに見守る私に、カエデの母が「おいで」という。


「乾かしてあげるから」


「えっ。いいですよ。自分でやりますから」


「いいじゃないの。私ね、女の子の髪乾かすの夢だったの」


「でも……」


「だめ?」


 カエデの母が、首をかしげながら聞いてくる。負けだ。私の完敗だ。


 カエデの母のかわいらしさに、だけじゃない。誰かに髪を乾かしてもらうなんて、保育園の時ぶりだったから。甘えたくなってしまった自分の心に、負けてしまった。


「じゃあ……お願いします」


 そういって座ると、カエデの母は、嬉々として私の濡れた髪に触れた。


「カエデが、この家に友達を連れてきてくれるなんて初めて。それも女の子!」


「あの、本当にそういう関係じゃ……」


「どんな関係でもいいの。あの子に、学校と我が家以外の場所があった。そのことが嬉しくてね」


 カエデの母は微笑む。でもその笑顔の裏に、カエデへのいじめや、不登校。その他沢山の辛いことがあったんだろうと簡単に予測ができた。


「最近ね、カエデ、なんだか楽しそうだったの」


「楽しそう、ですか」


「ええ。何があったのって聞いても、答えてくれなくてね。でも毎日本を読んでて、「母さん、この本と、こっちの本、どっちが楽しかった?」って聞くのよ。あなたのために選んでたのね」


「カエデがそんなことを……」


「いい本を渡したい相手がいるって、いいことね」


 カエデの母はそういって、私の髪を乾かしてゆく。その手際のよさに、ほれぼれしてしまった。看護師だというから、お風呂に入れた患者さんの髪を乾かすこともあるだろう。カエデの母が担当になった患者さんは幸せだ。こんなにも、愛にあふれたドライヤーは、そうそう巡り合えるものじゃない。


「カエデには、苦労かけたからね。私のせいで、足もあんなことになって」


「リハビリに行けなかったことですか?」


「あの後、お医者さんからも謝罪があってね。もっとリハビリを積極的に勧めるべきだった、って。でも、あの時私は朝も夜もずっと働き続けでね。勧められても、本当にカエデをリハビリのできる隣の県まで連れて行けたかは分からないの」


 それは、カエデから聞いた情報と同じことだった。でも、医者が、謝罪に来るなんて。横柄な父しか知らない私にとっては、新鮮だった。


「幸せになってほしいってずっと願っていたのに、私のせいで不幸にしたかもって。そんなことがあったから、仕事しながら看護師の学校に通ってね。今は看護師になったけど……足は、もう戻らないものね」


「でも、カエデは感謝してましたよ。お母さんに」


 私は、もう一度、部屋に張られたカエデの過去の写真を見つめる。


「どんな時も僕を見捨てなかった。不登校になっても、一度も責めなかった。それが嬉しかったって」


「あら。あの子が? まあ。そんなの、当たり前なのにねえ」


 照れたように、カエデの母が笑う。


「だって、あの子のせいじゃないんだもの。学校に行きたくない時期なんて誰にでもあるしね。一年、二年、ひとと違う生活をしたって、いくらでも取り戻せるわ。私があの時考えていたのは、カエデに死んでほしくないってことだけ。そのためなら、私はなんだってしたわ」


「いいお母さんなんですね」


「まさか! 朝ごはんもろくに作らないし、お弁当も作れないからコンビニで買ってって言ってるわよ。夜勤も多いから寂しい思いもさせているだろうしね」


 でも、うちよりマシだ、と思った。


 朝ごはんも作ってくれる。お弁当も作ってくれる。


 でも母が、私を愛しているのかは分からない。父は、言わずもがなだ。兄たちは、愛とかなんとか語る以前の問題だ。


 食事を与えていれば親子だというわけじゃない。その間に、心の温まる交流がなきゃいけない。


「母さん。出たよー」


 カエデの声が聞こえる。カエデが出てきて、私の顔を覗く。


「母さんになんか変なこと言われなかった? 大丈夫?」


「ちょっと、失礼ね。母さんが何をするっていうのよ!」


「なんかあったら言ってね!」


 カエデと、カエデの母の応酬に笑ってしまう。なんでこの親子は、私の親以上に、私のことを心配してくれるんだろう。


「でも、カエデ、ごめんね。ほっぺた、もう痛くない?」


「もう平気。母さんに叩かれるなんて初めてすぎてびっくりしたけど」


 カエデの母は、カエデの頬をなでる。


「えっ」


 私は思わず声を出した。


 カエデと、カエデの母が、私を振り返る。


「どうしたの?」


「どうしました?」


「えっ。大人なのに、親なのに、子どもに謝るんですか?」


「えっ!?」


 私の言葉に、今度はカエデ母子が混乱している。


「いや、だって、学校の先生とかも、悪くても謝らないし。えっ。親が子供に謝るって、初めて見ました」


 カエデの母は息をのんでから、私の頭をなでた。


「……大人でも、親でも、悪いことをしたら、謝るのが当然なのよ」


「そうなんですか?」


「そうなの。悪いことしたのに謝らないのはね、どんな年齢だって、ダメなことなの」


 じゃあ、うちの親はなんなんだろう。そう思って俯くと、空気をかえるように、カエデが明るい声を出した。


「まあ、今回は仕方ないだろうけどね」


「なにが?」


「母さんのこと。誰だって、息子が女の子を勝手に家に連れ込んでたらびっくりするし。しかも、その女の子がずぶ濡れで泣きそうな顔してて、二人がこう、抱き合うくらい近くにいたら……ねえ。誤解しても、仕方ないじゃん?」


 ちょっと恥ずかしそうにいうカエデに、私は顔を真っ赤にした。


 たしかに、その状態で、二人の間に何があったかを考えると、カエデの母が混乱しても仕方ない。話を聞く限り、学生の間は女の子とそういう行為をしてはいけないと教えているらしいし、約束を破ったなら、怒るのも、もっともだ。


「だからまあ、母さんは謝らなくてもいいくらいだけどね」


「いいえ。ケジメです。もっとちゃんと二人の話を聞くべきだったわ。ほんと、ごめんなさい」


 カエデの母は、もう一度そういう。


 私は驚きながらも、なんだか、くつろいだ気分になってきた。


 この空間があったかいからかもしれない。そう、心のなかまで。


「夏蝶ちゃん。帰れる時間になったら、私が車で送っていくから。それまでは、ゆっくりしててね」


 そういって、カエデの母は、私をカエデの部屋にいくよう目線で指示した。


「えっ。ちょと待って! 掃除してない!」


「だから日ごろから言ってたでしょー。自分の部屋なんだから、ちゃんとお掃除したり、もっとオシャレに拘ったりしなさいって」


「いや、その通りだけど!」


 止めようとするカエデに反して、カエデの母は、元気よくカエデの部屋を開ける。


「うわあ……」


「ごめん。汚いよね」


「いや、そんなことないけど。なんか、男の子の部屋って感じ」


 カエデが、しょんぼりした顔をしている。


 勉強机と、ベッドと、本棚。本棚の一角には、昔から持っているらしいぬいぐるみがいくつか入っていた。それから、ベッドの隣にティッシュが置かれていたり、壁に変なポスターが張られていたりした。ドラマで見たのと同じ「男の子の部屋」だったけれど、あれはきっと、誇張も入っているだろうと思ってた。でもドラマはすごい。実際のものを再現しているんだと知って、急にテレビ局の株が上がってしまった。


 というか、カエデもベッドで、その、ああいうことをしたりするんだ、とティッシュを見て思う。


「あ、あの、その、ティッシュは、僕あの、鼻炎で」


「そうなんだ。でも、いつもはそんなことないよね?」


「うん。だから決して、その、やましいことだけに使っているわけでは……」


 私は、現代文の成績で九十五点より下がったことはない。つまり、やましいこと「だけに」使っているわけではないという言葉が、「やましいことにも使っています」と同義語だということを知っている。


 ぬるい目でカエデを見ると、部屋の主は「ううう」と頭を抱えてしゃがんでしまった。


「まあ、とりあえず。本棚、見ていい? 次に読む本も選んでみたいし」


「もちろん、いいですけど」


「今まで、私のためにいっぱい選んでくれてありがとうね。お母さんから聞いたよ。面白い本を選ぶために、読み直してたりしてたんでしょ」


「母さん! 余計なこと言わないでってば!」


 壁の向こうのキッチンにいる母に、カエデが叫ぶ。「はーい」と気の抜けた声が聞こえてきて、「まったくもう」とカエデが憔悴している。とはいえ、カエデも本気で嫌がっているわけではなさそうだった。


「ほんとごめん。ひとまず、本持っていく? 今日渡した本は、濡れちゃっただろうし」


「あ。そういえば、そうだね。濡れた本、さすがに弁償するよ。いくらだった?」


「平気。乾かして読むし」


「いや、でも」


「そんなの気にしなくていいから、東京にいくお金を貯めようよ」


 カエデの言葉に、びくっとなる。カエデは本気だ。本気で、ここを出ていこうとしているのだ。


「あのあと調べたんだけどね、大阪とか名古屋より、よそ者にやさしいのは東京なんだって。いや、優しいっていうか、よそ者の集まりだから、気にしないって感じ」


「でも、お母さん置いていっていいの? 今まで二人暮らしだったのに」


「母さんはいつも言うんだよね。私のために自分を犠牲にしないで、やりたいことやってって」


「母さんのこと愛してるなら、母さんを理由に、色んなことを諦めたりしないでって」


 うちの親とまったく逆のことをいうのだな、と感動すらしてしまった。


 そんなことをいう親がいるとは、思ってもみなかった。


「だから大丈夫。僕の方は、高校入ってからすぐに作業場通ってて、いくらか貯金もあるんだ。夏蝶さんは?」


「全然ない。お小遣いもほとんどないし……」


 そう言ってから、ハタと気づいた。


「え? 作業場? バイトしてたってこと?」


「うん。一日中、椅子に座って作業する職場でね。不登校だった時も、今も続けてる」


「じゃあ、その頃から、東京に出たいって思ってたんだ」


「いや、それは最近かな」


 カエデが目を背ける。


 なんだろうと思っていると、カエデは、顔を赤くした。


「だからその、夏蝶さんといろんなことを話すようになってから。この人となら、どこにいっても頑張れるかもしれないって思って」


「カエデ……なに言ってるか分かってる?」


 それって、もうほとんど告白しているようなものじゃないか。


「……うう。僕、混乱してるかも。夏蝶さんにこんなこと言っていいわけがないのに」


「え、待って。それ、どういうこと?」


「だって、夏蝶さんはモテるし」


「そこは関係ないでしょ」


 思わず声が大きくなってしまった。


「こんな僕が調子に乗ったこと言っていいわけないのに。もっと早く走れて、同じ歩幅で歩ける人がいるはずなのに」


「逆じゃない? 私は、速く走れる。だったら、一緒になる人は、ゆっくり歩く人がいいんじゃない? その方が、苦手を補えるでしょ」


「でも、早い人と、遅い人で見れる景色も違うし」


「なおさら、一緒にいなきゃ。どっちの景色もきれいだねって話し合えるの素敵じゃん!」


 私はそう叫んでから、ハッと気づいた。


――私のほうこそ、自分が何を言ってるか分かっているんだろうか。


「むしろ私のほうが、カエデに申し訳なくて」


「どうして?」


「こんな出来損ないで、親から嫌われてる人間がさ」


「出来損ないじゃないし、親のことは関係ないし」


「でも、迷惑かけてない?」


「迷惑だと思ってたら、一緒にいません」


 カエデの真剣な目が、不安そうな私を捉えている。


「カエデ……」


 カエデは、天を仰いでから、顔を私に向けた。


「……夏休みが終わる日、午後五時に、いつもの公園に、いてくれませんか」


「え、なんで」


「もし、夏蝶さんが嫌でなければ……その、伝えたいことがあって」


 息をのんだ。この流れで伝えたいことがあると言えば、一つしかない。こんな私でいいんだろうかと思ってから、そう考えたら、またカエデに怒られると感じる。


「もちろん、夏蝶さんが、嫌でなければ、ですが」


「嫌なわけ……ないじゃん!」


 もう、すぐに飛びつきたかった。カエデをぎゅっと抱きしめてしまいたかった。でも、ダメだ。物事には順序がある。カエデは、その順序をちゃんと踏んでいこうとしている。だったら、私も、その通りにしなくちゃ。


「じゃあ、指切りしましょう」


 と、カエデが指を差し出す。私は、ふふっと笑って、同じように指を差し出した。


 触れ合ったつま先が、溶けるように熱い。


「コンビニの時と、一緒だね」


「まだ、あれから三週間ちょっとですけどね」


「その間に色々あったからね。もっと経ってるみたいな気がしちゃう」


「たしかに……」


 私たちはそういって目を見合わせる。


 二人ですこし笑ってから、歌いだした。


「ゆーびきーりげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲―ます。指切った」


 そういって、お互いの指を離す。離れていく瞬間、チリっと爪先に痛みが走った。勘違いだろうと思って、気にしないでカエデを見る。カエデは、恥ずかしそうに、照れたように笑っていた。


 二日後、カエデは、正式に私に告白する。


 そうして私たちは、付き合い始める。


 厳しい家だから、もちろん、こっそり付き合うことになるかもしれない。それでもいい、と思えた。カエデと一緒にいられるなら、どんなことでも平気だ、と。


 その時の私は、本当にそう思っていた。この先に待ち受ける運命なんて、知らずに。


 夏休みが終わる日。私は胸を弾ませながら、部屋にいた。


 昨日は、カエデとは会わなかった。もともと、カエデが母に付き添って病院に行く予定だったからだ。カエデは、病院で傾聴ボランティアというのをしている。病気のひとの話を聞き続けるという内容なのだけれど、だからこそ、私の話も静かに聞いてくれたのだな、と思った。


「偉いね」というと、カエデは「看護師の皆さんのほうが偉いです。僕は月に一度行くだけですが、看護師の方々は、毎日聞いてるわけですから」と答えた。父親が看護師を軽視している分、その職業を立派だと思っている人がいるのは嬉しかった。


 今日は特に、作業療法士や理学療法士の先生方も出張してくるらしく、話を聞いてきたい、とカエデは言っていた。すでに東京に行きたいという話もお母さんにしているらしく、「医療職は手堅いからね。手に職を持っていれば、どこでもやっていけるわ」と背中を押されたらしい。足が片方動かないからこそ伝えられることがある、とカエデは使命感を帯びた目で言っていた。


 そして私は、そんなカエデに、どんな服で会いに行こうと悩んでいた。カエデと、カエデの母には見せられない醜態だ。二人が使命感に燃えているなか、私は恋に悩んでいるのだから。カエデはどんな服が好きなのか、いや、カエデなら、どんな服でも可愛いと言ってくれる、でも、持ってる中でも一番可愛い服がいい……と思っていると、扉があいた。


 驚いて、思わず服を隠す。


「夏蝶ちゃん、何をしているの……?」


 か細い声で、母は問う。毎日エプロンをしている母は、まるでエプロンが体の一部になったみたいだ。外している姿を、ほとんど見たことがない。


「なにって、別に……」


「こんなにお洋服出して……」


 母は、私の布団におかれた沢山の服を出す。


 我が家は、おこづかいが少ない。正しく言えば、兄二人には月に五万円が振り込まれているが、私には月に五千円だった。十倍の金額差は、かけたい愛情の差に直結しているともいえる。


「……もしかして、デート?」


「そ、んなわけないじゃん」


「だって、スカートばっかり。女の子と遊びに行くときは、いっつもパンツスタイルでしょ」


 さすがに、目ざとい。香奈がスポーティな格好が多かったので、私もそれに合わせていたのだ。だからスカートをはいて出かけるのは珍しかった。


「……ねえ、夏蝶ちゃん、これがお父さんに知られたら、大変なことになるわね」


 母は、ひっそりとした声でいった。


「言わなきゃ、分からないよ」


「でも、言わなかったら、分かった時に怒るわよ」


「だから、誰にも見られないようにしてるんじゃない」


 私は、扉を開けたまま話す母に苛立って、部屋の扉を閉める。


 二階から、父の椅子のキャスターが転がる音がする。今日は午前中だけの仕事だったらしく、また、家にいる。一生帰って来なければいいのにと思うが、そうもいかない。


「なに、お母さんが、告げ口するってこと?」


「そうは言ってないけど」


「私は私で勝手にやるから。お母さんは、邪魔さえしないでくれればいいから」


「でも、夏蝶ちゃん、お父さんが……」


 不安そうな母に、苛立ちが募った。分かってる、こんなの理不尽だって。母は、この家で生き抜くために最適化しただけに過ぎない。父に従い、キッチンに押し込められて、それでも生きていけるように、すべての思考を捨てたに過ぎない。それは、母が特別弱かったからじゃない。父に殴られずに、父から子供たちを守るために、これ以外の方法はなかったのだ。でも、それでもーー。


「私、この家、出てくかも」


 ついに言ってしまった、と思った。母は、目を大きく見開いていた。信じられないものを見る目だ。


「東京、行こうと思う。外の世界を知ろうと思う」


 本当に、そう考えていたのかは分からない。カエデに感化されすぎただけかもしれない。大体、自分の家が大嫌いだからってすぐ東京に行こうだなんて虫がよすぎる。東京に期待しすぎだ。それでも、この家で母のようになる未来は受け入れがたかった。


「夏蝶ちゃん……。介護は? どうするの?」


「お父さんの介護なんて、施設に入ればいいじゃん。それだけのお金はあるでしょ?」


「でも……」


「お母さん、今何歳? 今からでも全然やり直せるじゃん。お母さんが、お父さんの介護をする必要だってない」


 母は、混乱したような顔をして、体を小さく震わせていた。


「お父さんと離婚して新しい恋をしたっていいんだよ。こんな家、捨てちゃえばいい。ずっといたって、心がどんどん死んでいくだけじゃん」


「でも、あなたも、お兄ちゃんたちもいるし……」


「お兄ちゃんたちは東京じゃん。私だってもう家出るんだよ。それなら、お母さんも幸せになってくれた方が嬉しいよ」


 その瞬間、二階から、大きな音がした。


 父が、床に何かを落としたらしい。天井を見上げてから、母に視線を戻す。


 母はまだ不安そうに、二階を見上げていた。つまり、父を。


「……お父さんの下で、ずっと生きていくなんて、私は絶対にいや。生まれたときの家とか性別とかそんなもので、一生を決められたくなんてないの」


 私はそう言って、一番可愛いスカートを履く。母は、黙って私を見つめていた。


 さっさと出ていこうと思って、トップスもシースルーを選ぶ。いつもと似たような格好になってしまったけれど、それでいいのかもしれない。カエデが好きになったのが「この私」なら、服装もいつも通りでいいんだ。


 そう考えて、鞄をもって母の横を通り過ぎる。


「夏蝶ちゃん……」


「今日、遅くなるかも」


 そっけなく返事して、私は玄関を出た。


 まばゆい光が飛び込んでくる。あの使用人室は薄暗いけれど、外はこんなに輝いている。私は、大きな一歩を踏み出す。


 母に直接言えた。それだけで、私にとっては大きな成長だ。


 だから、今日、カエデに会う。母とちゃんと対決できたよっていったら、カエデはきっと褒めてくれる。そうして、泣きそうな顔をしながら「あの、好きです。付き合ってほしいです」っていうんだろう。


 私は、きっと、ぱあっと笑顔になる。「もちろん!」って答える。


 カエデはまた、きっと不安そうな顔になる。「でも、学校では、付き合ってないフリをしてくださいね」とか言うかもしれない。「僕みたいなのが夏蝶さんと付き合ってるって知られたら……」私はこう答えるのだ。「そんなの関係ない。カエデが何を言われても、私は、カエデの味方だから。カエデのことを守るから」と。


 私は勇気を出して、カエデの手を握る。カエデの手は、緊張で汗ばんでいるかもしれない。その手に指をからめてーー私も緊張しているから、震えているかもしれないけれどーー「ぜんぶ足りるようになっても、寂しくなくなっても、ずっと一緒にいようね」というのだ。


 カエデはきっと、また泣きそうな顔をするんだろう。僕なんかでいいのかな、とか考えながら。私も、私なんかで本当にカエデはいいのかなと思うだろう。


 自分たちに自信がない者同士、私たちは互いを慰め合う。


 そうして、高校を卒業したら、この町を出ていくのだ。


 そんなことを考えながら、いつもの公園へと向かう。口元は思わず緩んでいたかもしれない。これからの人生が、すべて好転していく気がして。


――カエデの訃報が届いたのは、それからのことだった。


――なんでこんなことになるんだろう。


 動かないカエデの、動かない体を見ながら、ぼんやりとそう思った。


 カエデの母が、自分の勤務先に運ばれてきた息子をみて、カエデのスマホから、私に連絡を入れてくれたのが、約束をしていた時間の少し前。私の顔は、きっと一瞬で蒼白になっただろう。貧血が起きたように意識を失いそうになり、なんとか、頭をふって自我を取り戻した。


 カエデの母が、タクシー代は払うから来てあげて、と言われて、私はすぐに車道へ向かった。タクシーなんて、乗ったことない。それも、子ども一人でなんて。


 でも今はそんなこと言っている場合じゃなかった。病院に着いたときは、まだ手術中だった。カエデの母も仕事を休みにしてもらったようで、手術室の前にいた。私は、カエデの母と手を握り合って、「きっと成功するよ。カエデが死ぬわけないもん」と言い合った。けれど、カエデは瀕死の状態で運ばれてきたのだ。助かる可能性が低いことは、すぐにわかった。


 そうして手術室の扉がひらいて、無表情を装っている医者が出てきた。患者を動揺させないように、表情には出さないようにしている、と医学本に書いてあったことを思い出す。どっちなんだろう、と立ち上がった私たちに、医者はこう告げた。「カエデ君は、とても頑張りました」と。そうして、深々と頭を下げたのだった。


――カエデが死んだ。


 その事実が私の頭のなかに、じわじわと浸透し始めた。でも、脳みそが受けいれてくれない。


――告白してくれるんだったよね。今日が約束の日だったよね。どうして、カエデは死んでいるの? どうして、カエデは私の前で、もう笑ってくれないの?


 カエデの母が、「そうですか」と、冷淡にも聞こえる声でいった。冷静を装うとしすぎて、声が冷たくなってしまったんだろう。氷点下のような声に、押し殺した涙を感じた。


 医者は、申し訳なさそうな顔をして、去っていった。暗い廊下に取り残された私たちは、やがて霊安室に案内された。看護師は私をみて不安そうな顔をしたけれど、「息子の友達ですから。私としても一人ではいられませんから」と説得して、無理やり入れてくれた。


 そこには、カエデがいた。


 私に笑いかけてくれるはずのカエデが、頭にも手にも胸にも手術痕をのこして、横たわっていた。


「……カエデ?」


 小さな声で、そう呟く。


 もちろん、カエデからの答えは、なかった。


 カエデは、車に轢かれたのだ。いや、大きなトラックと、ガードレールの間で圧し潰されたと言った方が正しいかもしれない。


 カエデは待ち合わせの一時間前には、家を出ていた。けれど、子どもが轢かれそうになったところを、助けようとしたという。トラックは子供の姿を見た瞬間にハンドルを大きく切っていたから、まっすぐに、ガードレール近くのカエデだけを圧し潰した。肺も内蔵のいくつかも、その瞬間にはじけ飛んだ。体中の骨という骨が、カエデの薄い皮膚から外に飛び出した。救急車で搬送されるときも、何度も心臓が止まったという。全身の血があふれ出ていくなかで、カエデはぼんやりと目を開いていたという。なにかを幻視したように笑って、病院に着いた頃には、目を閉じていたという。


 そんなことを、霊安室のカエデをみながら考える。


 どうして? なんで? なんで、カエデが?


 混乱のなかで、霊安室の入口にぼんやりと立ち尽くした。


 カエデの母は、カエデのそばへと歩いていき、息子の手を握る。


 まだ包帯もされていない手を握った。


「……馬鹿っ!」


 カエデの母はそうひとこと言って、カエデの手を強く握る。


「馬鹿よっ。あんたは馬鹿っ。私をおいて、夏蝶ちゃんも置いて、どうして勝手にいっちゃうの! 馬鹿! 馬鹿ね!」


 そう言いながら、傷だらけの息子を叩く。看護師が止めに入ろうとして、やめた。カエデの母は、カエデの体にすがりつくようにして、泣きむせびはじめた。


 強い人だと思っていた。カエデのために転職をして、カエデのために仕事をがんばって、いつも笑ってカエデを見守っていた。息子に謝ることを苦ともしないような、初めて会った「当たり前の大人」。その人が今、叫ぶように泣いていた。


 隣にいた看護師も、沈黙してうつむいた。


 カエデの母の同僚でもあるだろうその人は、私を、そっと外に出した。


 カエデの母としても、いつまでも私がいたら、一人息子の死を悼めないと判断したのだろう。その考えは、間違いじゃなかった。


 私は再度タクシーに乗せられた。歩けます、と何度も言ったが、「今のあなたじゃ、何があるか分からないから」と看護師さんが運転手にお金を渡していた。自分で払わなきゃと思ったが、体が動かない。頭が回らない。


 私はそのまま、自宅の前までタクシーに乗せられ、夢遊病者のように自室にたどりついた。布団に寝転がって、目を見開いたまま、壁のシミを見ていた。


――あれ、今日ってカエデと会う日だっけ。なんで私、ここにいるんだろう。


 ぼんやりと、そんなことを考える。


――今頃、カエデと「手、繋いじゃったね」みたいなこと言い合っているはずなのに。カエデは? どうしたんだっけ? 死んだの? 死ぬってなに? 生きてないってこと? なんで? なんでカエデが、生きていないの?


 混乱した。どうしてだか、何度考えても分からなかった。


――飛べない蝶のように死なないで。羽ばたいていくんだって誓ったじゃん。


なんで、何もできないまま死んじゃうの。そんなの、だめじゃん。ハッピーエンドが欲しかった。この世界は不条理だけど、二人でハッピーエンドを目指してたのに。


「私一人で、どうすればいいの」


 思わず声を出す。でも、答えはない。私を助けてくれる人は、もういないのだ。


「夏蝶ちゃん……」


 部屋の扉が開いて、母が顔を出した。私はぼんやりしすぎて、体を起こすこともできない。


「お友達……亡くなったんですってね。いま、病院から連絡が来てね。お宅の娘さんが来ていますって。それで、お父さんがこのことを知っちゃって。さっき回診に出たけど、そろそろ、家に帰ってくるから……」


 そんな母の言葉を遮るように、「夏蝶!」という大きな声が玄関から響いた。


 私の頭は、その声が父だと理解するのに時間がかかってしまう。


 父は大きな足音を立てて、まっすぐに私の部屋に向かってくる。部屋の扉を勢いよく開けると、その顔は、怒りに赤く染まっていた。


「お前は、私に迷惑をかけおって!」


 そう怒鳴ると、私の頭をつかんで、布団の外に引きずり出す。


「あなた……!」


 か細い声で、母が抗議するが、もちろん父は聞いてはいない。


「養われている身で色気づきおって。彼氏だ? 百年早いわ!」


「あなた、待って。この子も傷ついているところだから……」


「わざわざうちの病院に来るとはいやがらせか!」


 母の抗議を一切無視して、父が怒鳴り続ける。髪の毛をわしづかみにされて、顔を何度も床にたたきつけられている私は、答えることもできない。それにそもそも、今、何が起きているか分からない。


――カエデがいない。


 そのことすら、「理解」できていないのに、父の暴力に反抗することは不可能だった。


 すべてが、他人事のように流れていく。天井のそばに幽体離脱した私が、俯瞰でこの光景を見ているような、そんな不思議な感覚だった。


「おい、聞いているのか!」


 父に、髪を掴まれて持ち上げられる。


 私は、ぼんやりした顔で父を見る。


――こんな顔だったんだ。


 あまりに久しぶりに見たものだから、最初に抱いた感想は、そんな、今の状況とはちぐはぐなものだった。


「腑抜けおって!」


 父が、私のことを壁にたたきつける。


 母が、ヒッと息をのんで駆け寄ってきた。それでも私は、ぼんやりしたまま、力なく壁に背を預けているだけだった。カエデがいない。そのことに比べたら、父の暴力なんて、何でもない気がした。


「まったく、くだらない男にひっかかりおって」


――え?


 でも、その時、はじめて、顔を上げた。


 父は苛立ったように、腕を組んでいた。


「足の動かない男だ? 母子家庭で金もない。どうせ、うちの金目当てだったんだろう」


 違う、カエデも、カエデのお母さんも、そんな人じゃない。


 そう思うのに、声に出せない。


「大体、あの母親はうちの看護師じゃないか。そんな女が、息子を近づかせるなんてな。どうせ息子のほうも、お前じゃなくて、うちの金と地位がほしかっただけだろ。お前は勘違いしているようだが、お前になんてなんの価値もーー」


「ふざけるな!」


 その叫び声が、自分の喉から発せられたものだと、私はすぐには気づかなかった。


 全身が総毛だっていた。怒ったライオンのように、全身の毛が逆立っているように思えた。産毛の一本一本が、父に対して、怒りを示している。


「カエデのことを何も知らないくせに! カエデがどんだけ優しくて、カエデがどんだけ私のことを考えてくれて、カエデのお母さんもどんだけいい人なのか何も知らないくせに! この家のお金? 地位? くだらない。田舎で一番だからって何なの。東京に出たらお父さんなんてただのクズ医者じゃん。そんな人間が、カエデを悪く言うとかふざけてるの?」


「おまえ……誰に口をきいてるのか分かってるのか!」


「父親だよ! 私の父親。くだらなくて、金と地位にしがみつくだけの田舎のヤブ医者。妻のことも私のことも愛してもいないくせに、閉じ込めようとする頭のおかしい男だよ!」


「貴様!」


 父の手が、私の頬に伸びる。


 叩かれる! と思った瞬間、私の手も動いていた。


「あなた……!」


 母の叫びと同時に、私の手が、父の頬を殴っていた。


――僕が、お父さんを、殴ってあげますから。


 カエデはそう言っていた。でも、もうそのカエデはいないのだ。


 私は父を殴ったことを、終わってから気づいた。


 父は呆然としている。今まで言うことを聞いてきた娘から殴られるなんて、思ってもみなかったんだろう。「格下」の相手に頬を張られた。そのことがショックらしくて、動きもしないし、喋りもしない。


 私は、父の腹を蹴った。「うっ」といって、父が部屋に転がる。


「カエデは! あんたなんかと違う! 一緒に東京に行こうって言ってくれた。介護なんてする必要ない。自分の人生を生きればいいんだって。やりたい仕事に就けばいいんだって。お前なんかが、カエデを語るな! 私はーーもう、お前の奴隷なんかじゃないんだ!」


 母が、私と父を、交互に見つめていた。


 どうしよう、というよりは、陶酔したような顔だった。


 目の前の光景が信じられないような顔。


 私は言いたいことをすべて言ってしまって、息が荒かった。父の背中を何度も蹴るも、自分のことすら、自分では止められない。ただ感情のままに動くだけだった。


 父は、うめきながら、私を睨んだ。奴隷に反抗された奴隷主が、罰を与えようとする顔だった。目の端に涙が浮かんだ私は、父の顔がにじんで見えない。次の瞬間、父は私にとびかかってきた。


「やめて! やめて、あなた!」


 父が馬乗りになって、何度も私を殴る。


 私は顔を腕でガードしようとするけれど、それも外されて、また殴られる。顔がいたい。心がいたい。全身がいたい。


――カエデ。あなたも、こんなだったの? こんな痛みを感じたの?


 殴られながら、そんなことを考える。


――じゃあ、どうして笑ったの。救急車で笑ったって、本当なの……?


 そのうちに、父の鉄拳がまた飛んできて、私は意識を失った。


――カエデ……。


 そう呟いた気がするが、それも、定かではない。


 目が覚めたとき、はじめに見えたのは、白い天井だった。


 いつもの使用人室じゃない。驚いて体を起こそうとすると、全身の痛みにうめいた。


 白い部屋におかれた、ベッド、キャスター、そよぐカーテン。ようやく、そこが、父が院長をつとめる病院の個室だと理解できた。窓の外は、すでに夜だった。


――なんでここに……。


 そう思っていると、個室の扉をあける人がいた。カエデの、お母さんだった。


「起きたのね」


「……どうして」


「あなたのお母さんが通報して、警察と救急車が呼ばれたの。……痛み止めを打ってるけど、辛いわよね」


 そういって、カエデの母が、私の頬をなでる。その瞬間、痛みが走った。


 顔をしかめると、カエデの母が、泣きはらした目で心配そうな顔をする。


「顔に、結構な数の打撲と切り傷があるから。腫れあがっちゃってるから、三日は引かないと思うわ。無理しないで」


 言われてみれば、顔が動かしづらい。


「……お母さんが、通報したの?」


 そう聞くだけでも、口元が切れて痛かった。


「ええ。娘を助けてって、錯乱状態だったらしいわ」


「珍しい。世間体を気にして、絶対他人に言わないと思った」


「……お母さん、さっきまでは、ここにいたのよ」


 カエデの母が、病室に備え付けられた小さな椅子を見る。


「もう面会時間が過ぎてしまったから、お帰り願ったけど。今日は、家には帰らない。病院のそばにある民宿に泊まるって言ってたから、明日も来ると思う」


「……お母さんが? 家に帰らない?」


「結婚してから、初めてだって言ってたけどね」


 泣きはらした目のカエデの母が、柔和に微笑んだ。


「がんばったわね。お父さんにちゃんと反抗して、言いたいこと言って、やりたいことやって、がんばったわね」


「そんな。何も考えられなかったんです。カエデが……カエデがそういうことになって、もうどうしようもなくて、どうやって生きたらいいか分からなくて。いっそ死んでしまってもいいって思ったら力が湧いてきただけで……」


 そういうと、カエデの母は、また泣きそうな顔で私のことを抱きしめた。


「お願い。あなたは死なないで。ずっと、ずっと生きていて」


「……お母さん……」


「カエデのことを覚えていられるのは、私と、あなただけなんだもの。カエデのことを話せるのも、この二人しかいないんだもの。お願い。死のうなんて、考えないで」


 目の奥が、ツンと痛くなった。


 カエデが死んだんだ、という事実が、あたたかいカエデの母の体を感じるたびに、「理解」できてしまった。


「ごめんね、さっきは」


「え……?」


「自分のことで精いっぱいで。大人なのに、あなたの前でカエデにすがりついて泣いてしまって。一番泣きたいのはあなたよね。ごめんなさいね」


 その言葉に、私は決壊した。カエデは、本当に死んだのだ。もう、戻ってこないのだ。この病院の霊安室で固くなって動かないまま、二度と笑ってはくれないのだ。


 そのことを胸のなかで「納得」した瞬間、涙があふれてしまった。


「……カエデ」


「うん。うん、そうね、辛いわよね」


「カエデ、なんで死んじゃったの」


「ほんとよね。なんでだろうね」


「カエデ……馬鹿! 生きててほしかった。ずっとそばにいてほしかった!」


 そう叫んで、カエデの母の胸の中にだきつく。カエデの母は、強く、強く私を抱きしめてくれた。


「カエデ……!」


 すがりついてそう叫ぶと、私の目のどこにこんなに水分があったのだろうかというくらい、涙が零れ落ちてくる。


 大好きだった。


 話した期間は短いのに、私の心の半分を持っていったひと。


 私が読みたかった本を、毎日のように貸し続けてくれたひと。


 親と和解できないなんて可哀そうなんて、絶対に言わないひと。


 やりたいことをやればいい、言いたいことを言えばいいと励ましてくれたひと。


 そのひとがもういない。カエデの形に、心がぽっかり空いてしまったみたいだった。


――蝶のように、羽ばたけばいいんです。


 そういってくれたカエデは、秋に地面に落ちた葉っぱみたいに、死んでしまった。羽ばたくこともできずに、あの青い空をもう二度とみることもできずに。


――寂しくなくなっても、ずっと一緒にいようね。


 そういっていたはずなのに、カエデが私を寂しくさせた。


――ちゃんと、告白しますから。


 そう真剣な顔をしたのに、その前に死んでしまった。


「馬鹿、馬鹿、カエデぇ……戻って来てよぉ……」


 無理なことを叫ぶ私を、カエデの母がぎゅっと抱きしめる。誰かに抱きしめられたのは、一体どれくらいぶりだろう。物心ついてから初めてかもしれない。涙が傷にふれるたびに痛むのに、私は安心してしまって、その夜遅くまで、カエデの母の腕のなかで、泣き続けた。


 翌朝、母は面会時間に、私の着替えやタオルを持ってきた。


「……ご飯、食べれた?」


 そう聞く母に、私は首をふる。


「そうよね……食べれないわよね」


 そう俯いて、私の横にたたずんでいた。


 着替えを持っているということは、家に戻ったんだろうか、と考えた。家には戻らない、民宿に泊まると言っていたのに、どういうことだろう、やっぱり母は父と関係を続けていくんだな、と。


 声は出ない。昨日泣き続けてしまって、喉がかれていた。


「……これ、あげるわ」


 そういって母が差し出したのは、通帳だった。


「……?」


 首をかしげる私に、母は「開けてみて」という。


 おとなしく従った私は、目を見張った。そこには数百万の貯金が記帳されていたのだ。


「まだ日がのぼらないうちに、一度あの家に戻ったの。あなたの着替えと……通帳をとりに」


「これ、どうしたの」


「お母さんもね、いつか、あの家を出ていこうと思ってたから」


「え……」


「でもね、ずっと言い訳してた。結婚しちゃったんだから仕方ない。あの人を選んじゃったんだから仕方ない。子どもたちがいるんだから仕方ない。夏蝶ちゃんがいる間は、私がいなきゃって……」


 母は俯いていたが、顔を上げる。なにかを結審した顔だった。


「でも、もう夏蝶ちゃんは、外に出ていこうとしている。私は、なんにも言い訳ができなくなったの。どうしたいか考えたら、あの家を出たい。もう一度、私らしく生きたいって思ったの」


「でも、それじゃあ、このお金は貰えないよ。お母さんが外に出るためのキップでしょ」


「そう思ってたんだけどねえ……ばかよね、私」


 母が私の頬に手を伸ばす。昨日父から殴られたことが頭をよぎって、ビクッと体を震わせた。母は一瞬ハッとしてから、私の頬をやわらかく包んだ。


「今まで守れなくてごめんなさい。これは、だめだったお母さんができる最後のことなの」


「でも……」


「お金なんてなくても、家は出ていけるもの。でも、若いあなたが未来を掴むには、お金がいる」


「……出てって、いいの? あの家を」


 母はうなずいた。もちろん、というように。


「あなたは、もう好きなことをやって。お母さんも、もう勝手にやるから」


 そういって立ち上がって、母は病室を出ていこうとする。


「……お母さん!」


 必死になって、呼び止めた。顔の腫れが引かなくて痛かったけれど、絶対に言わなきゃいけない、と思った。


「今まで、ひどいこと言ってごめん。本当はお父さんに言うべきなのに、お母さんなら許してくれると思って、甘えてた」


「……いいのよ」


「でも、ちゃんと謝らなきゃって」


「その気持ちだけで、嬉しいから」


 母は、そういって微笑んだ。


「……夏蝶。東京で暮らしていた立場として、伝えるわ。あそこは、成功するための場所じゃないの。誰でもが成功できる場所でもないの」


「……うん」


「でもね、よそ者の集まりよ。寂しい者同士が、肩身を寄せ合ってる場所なの。ちゃんと探し続ければ、あなたにも、絶対に居場所が見つかるから」


 母は、急に若返ったような顔でそういった。


「だから……がんばろうね。二人とも、がんばろうね」


 母は、こんなにきれいな人だっただろうか、と考える。


――そうか。エプロンを、してないんだ。


 キッチンに閉じ込められていなくて、窓から差し込む光のなかにたたずむ母は、昔アナウンサーをしていたというのが信じられるくらいに美しかった。


「……うん。そうする」


 そう呟くと、母はゆっくりと微笑んで、病室を出ていった。


 母に渡された銀行通帳を見る。父は、母に最低限の生活費しか渡さなかった。母がおしゃれするお金も、一切なかった。


 なのに、口座には毎月二万円近くが振り込まれている。おそらく、食費や、自分の生活費をすべて削って、貯金を続けてきたのだろう。あの家の規模からしたら少額かもしれない。でも、毎月毎月、家を出ていくことだけを考えて貯めてきた母を想うと、胸がいっぱいになった。


――絶対に、大事に使わなきゃ。


 そう思って通帳を抱きしめると、どこか、温かい気がした。



(第四章)



 旅立ちの日は、三月二十日だった。


「夏蝶。もう行っちゃうの?」


 卒業式をでたその足で、私は、駅に向かおうとしていた。引き止める香奈の胸には、私と同じ造花が飾られている。卒業を祝う赤い花は、香奈の未来を燦然と応援しているように見えた。


「うん。駅まで、遠いからさ」


 私は、傷の残った顔で笑う。


 父から受けた暴力は、すべては癒えなかった。頬の隅にできた傷は、生涯のこり続けるだろうと医者にはいわれた。でも、それでもいい。鏡をみるたび、二度と家に戻らないと決意できるのだから。


「車出してくれないなんて、本当にひどいよね」


 香奈が怒ったようにいう。私を殴りつづけ、救急車を呼ばれた件は、この田舎町中に広まった。病院の院長先生が、娘を使用人室にしばりつけて、介護をさせようとして進学も就職もさせようとしなかったことも、いつの間にか知れ渡っていた。噂のもとは、なんとなく分かっている。カエデの母と、私の母だ。私の未来を守るために、きっと流してくれたんだろう。


 そして、その噂話を補強するように、私はしばらく学校に通えなかった。顔の腫れ自体は数日で落ち着いたし、普通に考えれば入院が続くはずもない。ただ、「死んでしまおうか」という思いが消えなかった。


 カエデの母には、何度も「カエデのためにも死なないで」と言われたのに、消えてなくなりたいという思いが消えなかったのだ。家には、もちろん、私の父がいる。そんな場所に帰宅させたら、本当に自殺してしまうかもしれない。


 医者はそう判断して、私を入院させ続けた。私のこころがカエデの死をある程度受け入れ、「死にたい」と言わなくなるまで。もちろん、父から恫喝されただろう。それでも、患者である私の心を守ったのだ。


 田舎町の医者とはいえ、良い人もいるんだと初めて医者を見直した。


 私が入院し続けていることも噂として広まり続け、結果、神宮寺家の評判は地に落ちた。別段、それで父が院長の座を追われるわけではない。でも、世間体を気にしていた父にとっては大きなダメージだろうと思うと、嬉しかった。


 ある程度、気持ちが落ち着いてからは、カエデの家から学校に通うようになった。


 カエデの母と、カエデの思い出話をするのは楽しかったし、はじめて「あたたかい家庭」を体験できるのは、私の大きな糧になったのだ。


 そうして半年が過ぎて、私は、卒業の春を迎えた。


 地元で就職する子や、遠方の大学にいく子たちに紛れて、私は、単身上京することになっていた。


「しばらくは、お兄ちゃんたちの家にいるつもりだからさ。香奈も、気が向いたら来てよ」


「もちろん行くよ! でも、平気? お兄ちゃん達とも、別に仲良くないんでしょう」


「うーん。そうなんだけどね」


 私は、桜を見上げる。兄二人も、見上げたはずの卒業の桜を。


「でも、お兄ちゃんたちも、お父さんたちに思うところあったみたいでさ。今まで兄弟として話したりできなかった分、これから仲良くなれたらなあとは思うよ」


 私は、本当は一人暮らしをする予定だった。バイトを何個も掛け持ちしていけば、頑張れると思っていた。でも、それを兄たちが止めたのだ。


――学生は、勉強するのが仕事だ。それ以外のことは考えなくていい。


 そう言ってくれたのは、上の兄だった。


 結果、私は上の兄の家で暮らすことになった。下の兄も近くに住んでいて、三人で引っ越し祝いもする予定だ。今まで交流がなかったのが嘘のように、あの事件のあと、兄たちは親密に話をしてくれるようになった。


「でも、夏蝶はすごいね。お医者さんになるんでしょ」


「お医者さんじゃないよ。理学療法士。リハビリとかをする人」


 そういった瞬間、胸が痛んだ。いくら成績が良くても、いくら学年で一位でも、今から医学部を目指すのは難しい。でも、カエデがなりたかった理学療法士の道に進むことはできる。理学療法士なら専門学校に行けばいいし、大学に比べたら学費も安い。上の兄の家から電車で一時間ほどの場所にある専門学校に、四月からは通う予定だった。


「どっちでもすごいよ! 夏蝶が助けた患者さんは、きっと幸せだと思うな」


「香奈だって、大学に進みながら音楽続けるんでしょ。私ずっと応援してるから。いつか、香奈の音楽を大きなホールで聴くの、楽しみにしてるから」


「うん。絶対、夏蝶のこと呼ぶからね!」


 香奈の笑顔に、私まで嬉しくなる。最後まで私の友達でいてくれたことに、心から感謝していた。あの事件のあと、離れた人もいるからなおさらだ。


「じゃあ、私、もう行くね」


「荷物、本当にそれだけでいいの?」


 香奈が心配そうな顔をする。


 私が家から持ち出したのは、リュックサック一個分だけ。ちょっとの服と、専門学校の書類。それから、カエデの母と作った、楓の押し花だけだ。


「身軽でいいでしょ?」


「そうだけど……もう、夏蝶は、この町には戻ってこないんだろうね」


「まあ、そうなるね」


 香奈は、「そうかぁ」とつぶやいて、私の体をぎゅっと抱きしめた。


 私も、香奈の体温を感じて、抱きしめ返す。香奈も私も生きている。


 だからなんにでもなれると思った。


「元気で」


「うん。香奈も、元気で」


 そういって、私たちは別れた。


 この町と、この町の思い出に、決別した。


 駅までの道を歩きながら、白い息を吐いた。


 母は、今頃、もう電車に揺られているはずだ。母の実家は、母が離婚することを許さなかった。だから、母にとってもこれからの人生は一人の船出だ。兄や私は「一緒に住もう」といったが、母はすべて断った。


――お母さんは、あなたたちに何もできなかった。助けてあげられなかった。それなのに今更頼るなんて虫がよすぎる。


 そうきっぱり言った姿は、今までとは比べ物にもならなかった。母は、一人になって自分を見つめ直し、新しく生き直すのだと思うと、これからのことにワクワクした。きっと、アナウンサー時代のように、素晴らしい人生をもう一度作り直すのだろう。


 でも、駅まで二時間かけて歩くしかないのは意外と辛い。学校靴だし、雪が降ったばかりで歩きにくい。


「……カエデ。前途多難だよ」


 思わず、そう呟いた。最近は、カエデと名前を出しても、泣きはしなくなった。ただ、胸の奥が熱くなるのは、変わらない。短い期間で、私の人生を大きく変えていったひと。もう二度と話せはしないのに、私の心のなかにずっといるひと。


「本当にうまくやれるのかなあ。大見得切ったけど、やっぱりダメでしたってならないかなあ」


 初春の冷たい空にそう呟く。奇跡が起きたのは、その瞬間だった。


――大丈夫です。


 そんな声が、はっきりと聞こえた。


 驚いて辺りを見回す。カエデの声だった。間違えるはずがない。思い出せないはずもない。


「カエデ!? どこにいるの!?」


 思わず、雪道で叫ぶ。


 生きていた時とおなじ、カエデの声。


 幻聴というには、はっきりしすぎているその声。


 どうして聞こえるか分からないのに、私はまた叫ぶ。


「ねえ、カエデ! 生きてたの!? ねえ、返事して!」


――大丈夫です。夏蝶さんなら、きっと、うまくやれますから。


 その声は、笑っているように聞こえた。横たわりながら、苦しみながら、それでも、何かを思い出したように笑顔の声。


 ハッと思い出す。救急車で、カエデが笑っていたということを。


「……そこに、いるの?」


 私はたずねる。返事を待った。雪が降り始める。ちらちらと、私の視界を雪が舞う。そのさきにカエデがいないかと目を凝らしたが、ただ、雪道が続くだけだった。


 私は、リュックを背負いなおした。


 大股で、一歩を踏み出す。


 奇跡は、何度も起きはしない。カエデが救急車で運ばれていくとき、最後におくったエールが今私に届いた。本当かどうかわからなくても、それを一生、私は覚えているだろう。


「私、頑張るからね」


 泣きそうになりながらも、涙はこぼさずに歩き続ける。


「私、絶対、カエデと同じような子、助けるから。天国に行くときがきたら、夏蝶さん、頑張りましたねって言ってね」


 もちろん、答えはない。でも、カエデなら、きっと「当たり前です。待ってますけど、ゆっくり来てくださいね。本当に、ゆっくりでいいんで」と答えただろう。


 前を向く。桜並木が続いていた。


 雪道の間に桜が咲いているなんて、十年に一度、見られるかどうかだ。


 私は、足にぐっと力をこめる。


 次の瞬間、私は、一瞬の風になっていた。


 風が吹く。跳ねる心臓。寸断なく前へ進み続ける私の足。


――ここから、スタートなんだ。


 あの夏のリレーの時と同じように、走り始める。あの時と違って、カエデはいない。ゴールテープも見えはしない。未来は真っ白で、どうなるか分からない。だから、私は走る。カエデが生きれなかった分まで。


――さあ、始めよう。私の新しい物語を。


 あの青い空の向こう側に届くように、大きな一歩を、踏み出した。 


(了)


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