素晴らしい結婚
月が影に飲み込まれた夜に産まれた子は、神の祝福を受けている。
神はその愛し子をほかの者の目から隠すために、月の光を奪ったのだから。
僕の国にはそんな言い伝えがある。
前時代的で、つまらない迷信だと思うだろう。祝福を受けた僕自身ですらそう思う。けれどそれはまるっきり妄想だというわけではない。月の隠れた夜に産まれた僕は、間違いなく神の祝福をこの身に宿していた。
災いから己の身を守る力。そして守る力をほかの人間に分け与えること。それが僕の「祝福」だった。
物心ついたころには、僕はもう周囲から「月の神子」と呼ばれていた。月の光から隠されるほどに、神の寵愛を受けた子ども。古い月の神子が年老いたころ、新しい神子が生まれる。
ひとりの人間を永く愛してやればいいものを、神というのは随分薄情らしい。
両親は幼い僕を神の化身か何かと思っているようで、やけにへりくだった態度で僕に接した。僕にとって、彼らは家族ではなく、使い勝手の良い召使いだった。実の息子に怯える彼らを、尊敬できるはずがない。
十二の歳になった日、僕は正式に神子として教会へ入ることとなった。前任者が天に召されたためだ。まるで前の神子などいなかったかのように、僕は大切にされた。
僕も死んだら、こうして忘れ去られるのだろう。神子と呼ばれながら、僕は神という存在に何の感慨も抱いていなかった。罰を下したければ下せばいい。ただ愛し子を見つめるだけの存在に、一体何の意味があるというのか。
教会での僕の役目は、神から受けた「祝福」の一部を民に授けることだった。めでたいこと、つまり婚姻や赤子の誕生の際には、僕は彼らを祝福しなければならない。僕の祝福を受けた夫婦は皆心穏やかな結婚生活を送り、赤子は健やかに育った。
馬鹿らしいと内心笑いながらも、僕はその役割を好いていた。恭しくかしずかれ、感謝される日々は存外悪くない。僕はこの国で最も尊ばれるべき人間なのだ。神なんて不確かな存在よりも、ずっと価値がある。
僕には五つ年嵩の兄がいる。
兄は大らかで快活な人だ。月の神子である僕にも、あくまで兄として接した。家族のなかではある意味腫れ物扱いだった僕の名を、兄は臆せず呼んで太陽のように笑った。僕が小さな悪さをすると、耳をきつくつねり「いたずら坊主め」と嗜める。
僕は月の神子なんだぞ、と噛み付けば、兄はいつも「それがどうした」と言い返してくる。そのたびに両親は顔を青くしていた。僕はそれを見るのがおかしくて、好きだった。僕は兄に叱られたくて、わざと何度も悪戯をした。
教会へ入ると同時に両親との縁は途切れたが、兄は「お前が心配だ」と言い度々僕に会いに来た。
寂しくはないか。無理はするな。皆お前を神子だ何だと言うが、俺にとってお前は大事な弟だ。神子という役割を与えられただけの、ただの悪ガキだ。辛くなったら、いつでも帰って来い。俺がお前を守ってやる。
兄はお人好しなうえに世話焼きなのだ。僕は兄よりも格段に上の暮らしを送っているというのに。僕は彼の言葉に嫌味ったらしく「お節介だな」と返しつつも、その笑顔に救われていた。
この世でただ一人、僕の名を呼び、対等に接してくれる兄。俗世から隔絶された毎日のなかで、兄の存在だけが僕を癒した。
教会の者たちは皆、兄の態度に眉をひそめたが、追い返すことは僕が許さなかった。
僕のたったひとりの兄だ。「月の神子」としてではなく、僕そのものを見てくれる存在。
そんな兄の婚約を知らされたのは突然だった。
相手は兄の幼馴染みの素朴な娘だ。僕もよく知っている女だった。気立てが良く穏やかで、美しく伸ばした髪からは野花の清潔な香りがする女。
僕は二人が恋仲だったことすら知らなかった。
——お前の祝福を受けられるなんて、俺はなんて幸せなのだろう。
婚姻の儀の日取りが決まった日、兄はわざわざ僕に会いに来て、咽び泣きながらそう言った。兄が泣いているところを見るのは初めてだった。みっともない、ぐしゃぐしゃの顔だ。見ていられなかった。
大事な弟から幸福を預けられる喜びに、兄は身を震わせていた。僕はその声を、酷く凪いだ心で聞いた。
婚姻の儀では、僕が一晩かけて紡いだ糸を使う。
月の光を浴びながら神の御力を注ぎ込んだ糸を、僕が新郎新婦の薬指に結びつけることで、祝福は成る。
二人は永遠の幸福を約束されるのだ。
兄の婚姻の前夜、僕はそれまでで一番長い時間をかけ、心を傾けて糸を紡いだ。きらきらと繊細な光を放つ糸。まばたきをするのも惜しかった。
月の光は、僕の手元を薄青く照らした。もしかしたら、僕を咎めていたのかもしれない。
晴れ姿の兄は、僕の知っている兄とは違う男のように見えた。少しはにかんで、けれど堂々と、傍らに佇む可憐な花嫁を愛おしげに見つめていた。二人は時折視線を絡ませては、綻ぶように口元を緩める。何者も立ち入れない親密さが、そこにはあった。
兄は女を心から愛していた。僕にはそれが分かった。かつて僕に「お前を守ってやる」と言ったその唇で、一体何度彼女に愛を囁いたのだろう。
祭壇へ上った二人が僕の前へ進み出る。花嫁の手には、彼女の友人たちが幸せを祈って摘んだ、鮮やかな紫の花束。
誰もが二人の結婚を喜んでいた。
たったひとり、僕だけを除いて。
神よ、敬虔なる若き二人に祝福を。
厳かな空気のなか、僕はもう何度唱えたか分からない言葉を口にした。兄が僕を見て泣きそうな顔をする。僕はそれを、静かに笑んで受け止めた。
彼女と一緒になれることが嬉しい。
生意気だった弟に、祝福を授けてもらうことが嬉しい。
兄はそう感じているようだった。
僕は神に愛されし者に相応しい優雅な動作で、二人の薬指に順に糸を結んでいく。そして誰にも気づかれないよう、僕はちらりと上目で女を見た。
田舎臭くて凡庸な女だ。何の力も持たない、ただの女。兄はなぜこんな女を選んだのか。
光に照らされて金に光る糸の美しさに、花嫁は小さく「きれい」と漏らした。喜びに満ちた澄んだ声に、反吐が出そうだった。
当たり前だ。これは僕が紡いだものだ。血を吐くような想いを込めて、一睡もせずに紡いだ糸。
二人を結びつけた糸に、これまで僕が込めていた「祝福」は宿っていない。代わりに込めたものは、口に出すのも憚られるほど、どす黒く煮詰まった醜い想い。
幸せになどしてやるものか。
兄は僕のものだ。
僕だけのものでいればいいのだ。
糸を結び終え、僕は顔を上げて二人の顔を見つめた。花嫁は僕に感謝を込めて小さく首を垂れたが、兄は美しい花嫁に、熱の込もった視線を向けたままだった。
二人は明るく素晴らしい未来を期待しているのだろう。僕の祝福は絶対だ。その力を疑うものはいない。この国では、誰も。
僕は微笑みかけながら、告げた。
「兄さん、幸せになってね」
いつか僕が、本物の幸福を教えてあげる。