新たな世界へ
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批判や指摘は存分にあるだろうが、男性と女性の生活スタイルに於ける大きな違いのひとつは、朝の準備時間でないかと思う。一分でも長く寝ていたい私は、起床→朝風呂→着替え→出社までを最短15分程度で済ませることも可能だ。
一方、妻は私より明らかに早く起きているにも係わらず、準備開始から出社までに1-2時間程度要するケースが多い。一度観察したことがあるが、やはり圧倒的に異なる点は鏡の前に居る時間である。
これを時間の無駄だとか言うつもりは毛頭ない。寧ろ、複雑な処理をいとも鮮やかに行うその手腕に感嘆する。その日のコンディションに応じて微妙に調整される表情は、芸術の域にすら達していると思う。ひと塗り重ねるかどうか。化粧品のベースによく使われる酸化亜鉛(ZnO)一分子あたりの大きさは、長辺でおよそ5オングストロームらしい。1オングストロームは0.1ナノメートルに相当する。これを1,000,000倍したものは100マイクロメートルとなり、およそ人間の髪の毛の太さに相当する。即ち、果てしなく小さい単位である。化粧品パウダーは、そのZnOが凝集したマイクロメートルサイズの微粒子を主成分にもつ。ひとぬりあたり髪の毛の幅にも満たないと思われる。
ちなみに、人間の目の画像分解能としては約100マイクロメートルが限界であり、これより小さいものを人間は認識することができない。もちろん個性による部分も大きいが。化粧とは人間の認知の限界に迫る究極の芸術品と言えよう。私も研究者の端くれとして、試料特性に合わせた測定条件の設定や妨害成分の考慮を行ったりするが、とても真似出来るとは思わない。
背伸びしたいお年頃の娘についても同様に、幾分鏡の中の自分と対話する時間が長い。
ファンデーションとは、先にあげた様にZnOの微粒子で構成されている。これらが肌に乗るというのは、肌細胞の隙間に引っかかることを意味している。表面摩擦係数がゼロとなる理想的な板には理論上乗らないのである。赤子の頃からを知っている身としては、この子の肌がどれほど潤っていてキメ細やかであるかと考えてしまう。そう、幼子には元々化粧が乗りにくいと考えられるのだ。(それ様に開発された化粧品も勿論あると思われるため断言は避ける。)
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鏡の前に陳列された複数の化粧品を前に、そんな言い訳を考えていた。
とりあえず乳液でも塗っておけばいいんだよ、保湿だけはしっかりね。などと逃げ続けていた自分を今更ながら呪う。せめてこの世界にもインターネットの類があれば、すぐにでも調べて何とかするのだが、と無能っぷりを再度痛感する。
これからの旅を思えば荷物は最小限にすべきだが、一体女性冒険者の荷物の中身はどうなっているのだろうか。
あるときは草原、あるときは木々生い茂る森林、またあるときは光の届かない洞穴へ。とても整った環境とは思えない場所であっても、創作話に於ける彼女たちの美貌はけして汚されない。
電車内で修繕作業に勤しむ人を見ることもあったが、妖魔の類を前にして作業道具を広げる余裕はとてもないだろう。ご都合主義的展開を期待したい要素のひとつである。
結局、冬になると肌のかゆみに襲われる私としては、保湿だけは欠かしたくない。
親目線で見て、この子に化粧の必要はなしと半ば強引に判断した私は、乳液と思しき容器だけを手に取るのであった。
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「こんなもの...かな?」
如何でしょうか、アリシアお嬢様。
鏡の前には、比較的こぎれいに身支度された少女の姿が映っている。
遡ること約1時間。
彼女の寝室に戻った私は、再度土下座を済ませたうえでタンスの捜索に踏み切っていた。最後のイベント、着替えと髪型のセットである。
ある程度アリシアに憑依したこの状況に慣れてきた私は、非常に申し訳ない気持ちを示しながらも彼女が普段身に着けていたであろう衣服を手にとっていた。
またしても無駄に目を瞑ったまま扉を勢いよく握った結果、ササクレによる棘の洗礼を受ける羽目になったが、これを禊として許していただこう。
この世界で目が覚めた時から分かっていた話だが、装飾の類に関する技術は元居た世界と遜色なく思われた。機械製法に比べれば幾分のガタツキは見られるが、十分だ。
元々派手な格好を好まなかった私としては、これくらいシンプルな方がありがたい。洗濯の際に取れてしまったリボンについて、涙ながらに責められるのは困るのだ。
とはいえ、クローゼットを確認する限り、アリシアはごく一般的に年頃の子が身に着けて居そうな衣服を中心に所持しており、ボーイッシュという様子は見られなかった。
この世界のスタイルと言われればどうしようもないが、パンツ(下着ではないと断っておく)の類はほとんど見られなかった。
スカートを履く選択を余儀なくされた私は、薄皮一枚のプライドとしてレギンスに足を通すことにしたのだった。
髪型はどうしようか。写真に相当するものは残されておらず、アリシアが普段どのような髪結いをしていたのかは知る由もない。
ふと、葉月のことを思い出す。腰まで伸びた、つややかでさらさらとした長い髪。
氷を操るお姫様とその妹の家族愛を描いた映画があったが、その髪型がしたいとねだられ、何度練習したことだろう。
緩やかな三つ編みを肩から前に出すそのスタイルは、目を瞑っていても対応できる唯一の髪型だ。
それが彼女のお気に召すかはわからないが、ここは許していただきたい。
当時と寸分違わぬ手際で編みこんだ髪をヘアゴムで留めた私は、鏡越しにアリシアへその出来を伺うのであった。
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スカートを選択した理由にはもうひとつあった。戦闘の可能性である。
生前、精神集中を目的として居合いを学んでいた時期があった。当時先生に教えて頂いたことだが、武士が袴を履いていた理由のひとつに、足裁きを相手に悟らせないことがあるらしい。
振りぬく際、後ろ足を軸にすることが多いが、カーテンの様に垂れ下がった袴の中では軸足の動きが見えにくい。
果たしてどの程度効果があるものか検討もつかないが、私が唯一扱えるある種のスキルとして、ここはセオリーに従いたい。
勿論この子を危険に晒す様な真似は絶対に避けるつもりだが、言葉の通じないだろう獰猛な動物たちを前に丸腰というのはそれこそ危険だ。昨日にも考えていたが、事情が事情だけにこの旅路の護衛を王国衛兵協会に依頼することは困難だろう。この子の安全は、私自身で護る必要がある。
これも奇跡というべきか、屋内には女の子には似つかわしくない物騒な品が、その存在をひときわアピールしていた。
大事そうに壁がけされた打刀様の武器には埃ひとつ乗っている様子はなかった。
アリシア自身によって手入れされていたのであろう。とても大切な一振りに違いない。
生前、わきまえる様教育頂いたお陰か、自然とその刀(と呼ぶことにする)に一礼した私は、それを手に取り、抜き身の状態を慎重に確認した。
一切の曇りや欠けのない、素人目に見ても一級品と分かる業物だった。
この刀の出自については明らかにされていないが、それ自体から幾分の熱量を感じる。
心が温まるような感覚に、わずかばかり血の滲んだ棘の跡に目をやった私は、その傷跡がきれいに消えていることに気づいた。
いわゆる治癒効果が付与された武器と推察される。魔法の存在を前に理屈の考察は野暮というもの。素直に有難い。
対象を殺めるために在るのではなく、使用者を護るために造られたであろうこの刀は、きっと両親からの贈り物だろうか。
二尺三寸程度あるその刀は、16歳の少女には幾分長くもあるが、畑仕事で養われたしなやかな筋肉は思いのほか刀の重さを感じさせない。
物騒などと言って大変申し訳ありませんでした。
この子の命を護って頂けるよう、神とこの子の両親に深く一礼し、腰に差した。
さて、そろそろ頃合だ。
路銀と幾ばくかのアイテムを詰め、まっすぐ前を見据える。
出立の準備に時間が掛かったのは、不慣れなことも理由のひとつだが、それ以上に最後の覚悟までもう少しだけ時間が欲しかったからではないかと思う。
彼女の机にひとつの封筒を置いた私は、静かに目を瞑った。
旅の終わりに晴れて彼女が自身を取り戻すことが出来た場合、きっと私は消滅しているだろう。
これまでに何があったのか、自分がどのような状況にあったのか知る権利が当然あるし、私もまた彼女に報告する義務がある。
はじめましての挨拶。
「呪い」を受けたあなたが、恐らくは脳死と思われる状態にあったと推察されること。
その間、時を同じくして死んだ異世界の男が、あなたに憑依していたこと。
その男の愛娘があなたにとても良く似ていたこと。
成長した暁には、きっとあなたのような立派な女性になっているんだろうね、と。
死して尚幸せを貰ってしまった男の、せめてものお礼として、君の願いを叶えさせてほしい、と。
それこそが、私がかつて生き残った理由だと信じたいから。
あなたが今この手紙を読んでいるならば、それはきっと自分を取り戻したことを意味するでしょう。
そのときはどうか、あなたの両親に感謝して欲しい。
あなたの両親は、ずっとあなたを見守ってたよ、と。
そして、これから先も変わらずすっと見守ってくれるよ、と。
異世界の男のワガママにつき合わせてしまい、本当に申し訳ない。
これからは、どうか胸を張って生きて欲しい。
ありがとう、さようなら。
最後に、もう二度と名乗ることはないだろう、生前の名前を記載した。
私はもう、私であって私ではない.かつての誓いを果たすために、もう一度だけチャンスを貰ったただのちっぽけな存在である。
「いってきます」
誰に、というわけでもなく深く一礼した私は、振り返ることなく家を後にした。
ようやく家を出るところまで漕ぎつけました...(苦笑
科学系のウンチクについては、一応エビデンスも抑えているつもりですが、私の思い込みがあったらご指摘頂けると幸いです。
化粧乗りが悪いと嘆くそこのあなた。
それはあなたの素肌がとても素敵だからかもしれませんよ。