第四話 美人先生の誘惑でお湯も沸く
「はぁ……これは相当悪い顔やなあ。どこでこんな歪んでもたん?」
「あの、先生。真面目にやってください」
優種は蹴りのダメージから回復するよりも先に、槙菜を背負って屋敷に戻ってきた。
槙菜は始めての実戦のショックもあり、すっかり腰を抜かしていたし、怪我の様子も思わしくなかったからだ。
槙菜の案内で屋敷内をどう歩いたのか、二人は医務室を訪れた。
そこは入口までは和風だったものの、中に入ると畳は撤去され、冷たいコンクリート打ちっ放しの地面といい見慣れたベッドや白いシーツ、仕切りのカーテンなど、医務室や保健室の雰囲気そのままだった。
「おや、珍しいな。お客さんかいな」
ネコのような甘い声を響かせたのは、長身の白衣姿の女性だった。
年の頃なら二十歳はとうに越えていそうな女医は、しかしメイドの証のように頭にヘッドドレスを乗せていた。
丸い顔に典型的な丸眼鏡、一本おさげが頭の後ろをふらふら揺れている。
優種は槙菜をベッドに降ろすと、すぐカーテンの向こうに追いやられてしまう。
閉められたカーテンの向こうで、槙菜がメイド服を脱ぐのが、シルエットでわかる。
その体に触れる女医の手が、どうにもいやらしいというのは、優種の勝手な情報の補完である。
「随分やられたもんやな。特にこの胸元の損傷が激しい。ぼいんぼいんに腫れすぎや」
「いやあの先生、真面目にやってください」
「しかし礼桐が見切り損なうとはな……やっぱりあのことが影響しているのか」
「あのこと?」
秘め事のように漏れ伝わる二人の会話を聞きながら、優種はその意味も考えずに悶々としていた。
やがて治療を終えたのかカーテンの向こうから出てくる女医は、自分の椅子に腰かけると、その対面に座っていた優種をまじまじと見つめ話しかけた。
それが最初のセリフだった。
思わず優種も真顔になってしまう。
「いやーすまんすまん。軽いジョークやん? あんたが新しいお館様候補やな。ここにお館候補が来るんは十年ぶりやな。男は珍しいから嬉しいわ、なかようしよや。うちは洞爺湖多苗。よろしくな」
気さくな多苗は、ばんばんと優種の肩を叩く。
「は、はあ……ぶさいくですがどうぞよろしく。多苗さんは二十代ですか?」
「いやん、女に歳聞くもんやないで。あ、言うとくけどごまかしたんちゃうで。ちゃんとまだ二十代や。うちは医師忍メイド(いしののめいど)な。これでもちゃんと国家試験通ってるで」
「はぁ」
「なんやねん元気ないな。もっとしゃきっとせなもてへんで。まあうちのほんまの力は、医者としての治療やなくもっと特殊やけどな。なんせここは怪我人が多いよって、普通の医術じゃどうにもならへんことが多いねん。自慢の技で、ちょっとあんたの顔も直したろか?」
「いや、別に自分の顔に不満はないんで」
「だから冗談やて。あんた思ったよりかわいい顔してんで。ちょっとその靴の跡が気になるけどな」
慌てて優種は顔をこするが、それを見て多苗は声を弾けさせて笑った。
「ここのメイドさんはみんな性格悪くないですか。槙菜には慣れているけど、礼桐さんとか千代丸さんとか、先生も相当意地悪ですよ」
唇を尖らして、さすがに愚痴っぽくなる優種。
だが多苗は、つい先程まで大笑いしていた顔を引っ込め、思ったよりも真顔で受け止めていた。
「うん、まあ千代丸は元からあんな奴や。あいつは友だちおらんのやろな。礼桐もまあ、きつい娘ではあるな。あんなことあったんやから当然やろうけど」
「あんなことって?」
「うん、そやなあ……それはあいつに直接聞いてみるんやな。うちからはちょっと言われへん。せやけどあの娘も悪い子ではないで。お母さんおらんようになってからも、気丈に頑張ってる努力家の娘や」
礼桐に直接聞いたところで、あの調子では答えてくれないだろう。優種は即座にその希望を捨てていた。
「久しぶりのお館様候補やから、みんなあんたのこと興味持ってんねんで。せやから女の子とは仲良うしたりや」
「いや俺のほうは拒絶する意図は全然ありませんけど」
「その割には全然相手にしてもらえへんって顔に書いてあるな」
「はい……ぃ?」
うなだれつつ頷いた優種の顎先に、細く女らしい指が触れる。
そのままゆっくり顔を持ち上げられると、すぐ傍に多苗の体が近づいていた。
そのあまりにもドアップな胸元に、優種はかちこちに固まって動けなくなる。
「あの、先生?」
「なんや? 不満でもあるんか? うちが手ほどき……したろいうのに」
「え、えええぇぇぇ!? いや、それは死罪が」
「死罪ってなんやねん。恋愛は基本的に自由やで……そやろ?」
すぐ間近に近づく唇が、甘い吐息を吐きながら優種の耳たぶをくすぐる。
それはつまり、さらにほわわんとしたたわみが、目前に迫っている証でもあった。
怪獣映画で海を割って巨大なあいつがお決まりのテーマソングで迫ってくるような錯覚を覚えながら、優種は指一本動かすことはできなかった。
背後のカーテンが開いて、そこから本物のケモノが現れるまでは。
優種の脳内では、今度こそあの怪獣のテーマが流れ始めていた。
「あ・ん・た・た・ち~、いい度胸ね。私がいる場所でなにをいちゃついているのかな~?」
軽く巻き舌で喋りながら、ゆっくりと歩みを進める槙菜は、シーツのようなもので胸元を隠して半裸だったが、そんなことはもう完全に念頭にないようだ。
優種は一歩ずつ近づいてくる槙菜の足音に、一々ドシンという効果音を、自分の脳内だけでつけ足して鳴らしていた。
あの巻き舌と冷酷な瞳は、槙菜が本気で怒っている時のクセだ。
彼は長年のつきあいにおける勘で、槙菜の怒りのポイントから、どこが臨界点かをくまなく察していた。
察しているだけで、決して予防しようとせず、ダムが決壊してから後悔するのが彼の若さと青さなのだが。
ゆっくりと手を多苗の肩に置いた槙菜。
それに怯えて振り返る多苗は、それでも槙菜に無駄な抵抗を続けた。
「ごめーん、彼氏取ってまうつもりはなかったんや。うちもたまにはピチピチの男の子と一時的接触してみたいやん? ちょっとくらい許してや。ちゃんとあとでのしつけて返すから」
「多苗先生!」
あー、やってしまったな先生。優種は一人心の中で合掌のポーズを取っていた。
そして多苗の体が自分から離れたのを見計らって、優種はそーっと立ち上がり、後ずさりながら医務室から逃げ出すことにした。
槙菜の怒りは、現在「彼氏」という言葉に過剰に反応して、多苗一人に向かっている。
ならば逃げるのは今しかない!
そして多苗は、一人自分の職場で、槙菜の冷酷なるお説教モードの犠牲となった。
無事に脱出した優種は、十分距離を取ってからほっと一息つき、そのまま庭に出ることにした。
どのみちまだこの広大なメイド屋敷内には不案内なので、なんとかして庭に出てしまうほうがわかりやすかったのだ。
その庭も無数にあるため、やはり迷ってしまうことに違いはなかったのだが。
ふらふら歩いていた優種は、着慣れない着流しの着物に裾を取られた。
なんとか踏ん張ろうとして前に手を出す姿は、まるで盆踊りでも踊っているかのようだった。
むに。
その手に柔らかい感触が触れる。
だがそれは女体の神秘の類ではない。
もっともこもこしていてふにふにだ。
その感触を確かめるように両てのひらいっぱいに揉み込んだ優種は、ゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、薄いピンクの着ぐるみの姿だった。
「あ、けもちゃん。ごめん、こけそうになってつい」
着ぐるみの胸の部分を思い切りもんでいた優種は、悪気もなく姿勢を正した。
が、うさぎのほうは明らかに腰を引いて、まるでドン引きしているようだった。
いや着ぐるみのうさぎは表情を変えることはない。だがその物腰は、明らかに恐れを抱き、優種から逃げようとしているようだ。
「あれ、どうしたの?」
慌てて背中からホワイトボードを取り出すうさぎの姿に、優種は完全に油断していた。
そこになにか文字が書かれるのかと思っていたら、うさぎは躊躇せずにそのボードで思い切り優種の頭部を殴っていた。
くわんと感じる衝撃に、ふらふらと地面に膝をつく。
その間にうさぎの着ぐるみが逃げ去る足音が、優種の耳に届いた。
「優種ぅぅ……探したわよぉぉぉ」
その地獄の底から響き渡るような低音を聞いて、優種は顔を上げる前に観念していた。
「一人逃げられるなんて思わないでよね……たっぷりお説教してあげるから」
「槙菜、怪我はすっかり治ったんだ」
「ええ、多苗先生の力のおかげでね。さ、今度はあんたの番よ」
槙菜の怒りはその時最高潮に達していたらしい。
優種はその後数時間、槙菜に散々お説教され、足が痺れるまで正座を強要された。