第三話 メイドの里の使命、俺は相変わらず苦しめいられていた
「だからー、悪かったってば」
朝、味噌汁の香りで目を覚ました優種は、顔を洗って歯を磨き、また槙菜の給仕によってご飯を食べていた。
その傍には相変わらず不機嫌そうに、ただいるだけの千代丸。
昨夜ノックダウンされてから全く記憶がない優種は、ご飯をかきこみながら、やっと昨夜のことを思い出す。
そう、あれは酷い誤解であった。
「この里にはずっと男いませんでしたからね。先代のお館様は女性だったし。その娘も油断していたんでしょ。すぐに里におふれを出すように礼桐に言っておくわ」
興味なさげに会話に入ってくる千代丸は、しかし優種が視線を合わせると、プイと横を向いてそれをかわした。
高速で給仕する槙菜は、こんもりと綺麗に三杯分の山を小さな茶碗に作ると、それをそっと優種に差し出す。
黙ってそれを受け取る優種。
「そのお館様はどうなったの? 亡くなったとか?」
「あのクソおばばが死ぬもんですか、私より長生きするわよ。今でもその辺で雑草食って生きてるわ」
今日も千代丸の態度は凄まじく悪かった。
それは優種に対して限定というわけではなく、どうやら全方位らしい。
「ふうん。あ、槙菜。今度こそお風呂入りたいけど用意してくれる?」
「うっ……わかったわよ。畏まりましたご主人様」
言い直しながらも不服そうな態度の槙菜は、それでも立ち上がって席を外す。
残された優種は、千代丸にじっと見つめられながら食事を続けることになるが、それは非常に居心地の悪い視線だった。
「あのー、一人で食べてるから、千代丸さんは下がってもいいよ?」
しかし千代丸はそんな優種を馬鹿にしたように、はん? と唇を尖らせて蔑む。
それは最初に出会った時に感じたドキドキを返せ、と言いたくなってくるような邪悪な表情だった。
「ほんとになにもわかってないのね。私はただご飯を作る係じゃないのよ。調理師忍メイドはね、美味しくて安全な食事を提供するだけでなく、それをお館様がきちんと食べるのを見届けるまでが仕事なんだから。そこ、まだたれが残ってるわよ。ちゃんと舐め回して一滴残らず食べ尽くすまで終わらないからね」
確かに一滴も残したくないほど美味な食事のはずなのだが、優種は嫌いな給食を食べられず、食べ終わるまで帰れませんと居残りさせられる児童のような気分を味わわされていた。
「お待たせいたしましたご主人様。お風呂の用意ができました」
これまた仏頂面の槙菜が、食事の終わりとともに優種を迎えにやってきた。
案内されて、昨日の青のれんのゆのマークの場所にやってくる二人。
そういえば昨日のあの娘は誰だったのだろう?
ふとそんな疑問が湧いたが、聞いてもどうせ槙菜は怒るだけだろう、優種は素直に諦めることにした。
これが彼の対槙菜処世術であった。
「では私はここでお待ちして、あとから参ります」
深々と頭を下げる槙菜に、んと短く頷きながら、のれんをくぐろうとした優種は足を止める。
「そういえば槙菜と一緒にお風呂に入るのは何年ぶりだろうなあ」
顔を上げると目を剥いて睨みつける、槙菜の変化は忙しない。
「ちょっと、変なこと言わないでよ。私はご奉仕忍メイドとして仕事でやっているんだからね」
「査定に響くの?」
「くっ……」
どうやら図星だったらしい。
槙菜は継ぐ言葉もなく唸るだけだった。
昨日も見た岩風呂に、タオル一枚で躍り込む優種は、年頃の少年そのままだった。
「うはー、やっぱ広いな。しかも貸切とは。こりゃお館様やめられんな」
はしゃぎながら、まずかけ湯をしてお湯加減を見て洗い場に向かう優種の背後から、しずしずとやってくる人影。
「お待たせいたしました……では失礼します」
それは水着姿の槙菜だった。
体のラインがぴっちりと出ているオレンジのワンピースをまとった槙菜は、しかし優種が振り返ると、慌てて視線を逸らす。
「ちょっと、前くらい隠しなさいよ。ほんとにもう!」
「そんなこと言っても、体洗おうとしてたし」
「いいから前向きなさい!」
ぐきっと優種の首をひねって無理矢理前を向かせる槙菜は、背中にタオルの柔らかい感触を押しつけてくる。
しゃかしゃかと音を立てて背中に触れるタオルと、たまに当たる指先は柔らかい。
「あんた、いつまでこの屋敷にいるつもりなの? いい加減ボタン押したほうがいいわよ」
だが、言葉は相変わらず容赦のないものだった。
そのいつも通りのやり取りに、しかし優種は釈然としないものを感じていた。
「なんでそんなにみんなして俺を帰らせようとするんだ。大体、槙菜は俺以外の男がお館様になっても、こんなことするのか?」
槙菜の指はその言葉を聞いて止まった。
「そ、それは……しょうがないでしょ。それが私の仕事なんだから。大体あんた以外って、私はあんたのものになった覚えはないわよ」
「さよですか」
心なしか肩を落とした様子の優種に、槙菜の顔も曇る。
だが優種の次の言葉に、神妙になった槙菜はすぐに後悔した。
「前も洗ってもらおうかな」
ばちーん、と強烈な音をさせて、背中にもみじの花が咲く。
「調子のんじゃないわよ! そんなことしたら死罪よ死罪。はい終わり!」
くずおれて痛みに震える優種は、それでも振り返ってきっと槙菜を見据える。
その気合いに気圧される、水着姿の槙菜。
「じゃあ俺がお館になったら、槙菜にどんどんエッチなことしてやるからな」
その言葉に絶句した槙菜は、言葉を返せないでいたが、やがて諦めたように肩を落とす。
「勝手にしなさい」
駄々っ子をたしなめる母親のような声を発する諦観の槙菜は、しかしその後も優種と一緒に湯船に浸かり、最後まで傍にいた。
濡れたオレンジの水着越しに、ぷかぷかと揺れる膨らみを見つめて過ごす優種。
それをなんの咎めもなく受け入れている槙菜は、なんだかんだ言ってやはりいい幼なじみであった。
「こちらにいましたか。本日はご案内したいところがあります。おつきあいください」
ほかほかと湯気を立てて、着替えの着流しの和服に袖を通した優種は、廊下で礼桐と出会った。
その言葉に、背後からついてきた槙菜の顔が緊張する。
「もしかして、結界に行くのですか?」
「ええ、この子には現実を見せつけたほうが早いと思うから。貴方にとっても初めての経験ということになりますが、こういうことは早いほうがいい。覚悟を決めなさい」
「結界ってなに?」
二人の深刻な会話に割ってはいる優種の声は、のんきなものだった。
「このメイドの里は絶えず外敵の脅威に晒されております。その敵から身を守るため結界を張っているのですが、その外側ではやはり敵勢力が結界を破るために攻撃を繰り返しているのです。それを討伐に向かいます」
「敵ってなに? どこからやってくるの?」
やはり優種の声はのんきだったが、礼桐の顔は真剣そのものだった。
「メイドの里に成り代わって日本を牛耳ろうと企む、別の里からでございます」
三人は屋敷を出て、南側の小山へと登った。
先を行く二人のメイドは普段よりも緊張の度合いを高めていたが、それを後ろから追う優種は相変わらずのんきで、まるで自分が無敵かのように、今はじっと二人のお尻とめくれそうなスカートを覗き込もうと、角度を気にしている始末だった。
「ここです」
礼桐が立ち止まったのは、小山の山頂のあたりだった。
見ればそこはなんということもない、遠くまで緑の景色が続くのが見渡せるだけの場所だったのだが、しかしそれは明らかに異様な光景であった。
「なんだ……あれ」
ガン、ガン! と壁にぶつかるような音をさせながら、空中を浮遊する塊が、何度も空にあるガラスの壁にぶつかっている。そんな光景だ。
確かに一面の青空が広がっているだけなのに、パントマイムでもしているかの如く、そこには透明の壁と思しきものが存在している。
それに必死でぶつかる物体によく目をこらすと、それが人型の小鬼のような存在であることがわかった。サイズと跳躍力からして、普通の人ではありえない。
「敵の式神です。彼らは決して破られることはないこの結界に一日中、いえ何日もひたすら無駄に攻撃を続けて圧迫しているのです」
「なんのために?」
優種はそれを見上げながら、ぽけっとした顔で尋ねた。
「油断して結界を解けば、すぐにでも里に対して攻撃に移るという意思表示でしょう。私たちを防備で疲れさせる意図もあると思います。実際に結界を解けば、この式神は里を瞬時に焼き払うでしょうから、気を抜くことはできません」
「そんなすごい奴なのか」
「だから、定期的に結界の外に出て奴らを狩るのも忍メイドの仕事なのよ」
会話に入ってきた槙菜の声は、聞いた優種もぞっとするほどに震えていた。
実際に目を転じた優種は、かたかたと肩を震わせる槙菜の姿を見た。
それは十年来のつきあいで初めて見た、幼なじみの真剣な表情だった。
「ではご主人様はここで観覧を。決してそれ以上前にお進みにならないように。槙菜、いいわね?」
それだけを告げると、二人は空高くジャンプする。
その高さは普通の人間のジャンプ力をゆうに越え、優種の頭の遙か上を跳んでいた。
短いスカートの中が丸見えになって、純白と縞のパンツが覗いたのも一瞬のこと。
二人は空中にある水面のような壁にぶつかると、それをするりとすり抜けて空間に波紋を沸き立たせながら、“外”へと出ていた。
同時に礼桐は背中の忍者刀を抜き去り、その決して日本刀より長くはない刀身を閃かせる。
槙菜は、一見するとモデルガンのようにも見える銃を構えた。
それを両手でしっかりと持つと、すぐに銃口を構える。
そのまま落ちていく二人は、少し先の山に着地した。
それに反応して式神と呼ばれる小鬼の化物が、壁にぶつかるのをやめて、二人に挑みかかろうと方向転換する。
その数は最初は二体だったが、すぐに分裂して五体ほどになる。
「危ないと思ったら貴方は下がりなさい!」
礼桐が叫ぶと同時に再び跳躍すると、すれ違いざまに一体の小鬼を斬り裂いた。
さらに二体が空中に跳んだ礼桐を追う。
残った二体は槙菜のほうにその華奢で骨張った体を向けるが、それよりも先に二射される銃弾によって、一体が肩を吹き飛ばされて、そのまま落下していった。
「やった!」
「油断するな!」
たしなめるように叫ぶ礼桐は、さらに一体を斬ったが、残った一体ずつの式神は再び分裂すると、自分と同じ形の分身を周囲に飛ばして、それぞれが攻撃を仕掛けてきた。
なにもできずに、その絵空事のような光景を、まっすぐに見上げているだけの優種。
再び着地した礼桐に、小鬼は一斉に群がる。それを横一閃、斬り捨てる忍者刀。
分裂した鬼を一撃で全て掃討した礼桐は、それで満足せずに翻弄される槙菜の援護に向かった。
槙菜はまとわりつく小鬼に攻撃され、メイド服を切り裂かれる。
無駄弾をばらまき、弾丸を撃ち尽くした槙菜は、小鬼と距離を取ってマガジンを捨てて新しいものと交換しようとする。
それに間髪入れずに群がってくる小鬼たち。
「ひっ!?」
その悲鳴と同時のタイミングで、小鬼たちは後ろから来た礼桐によって一閃され、全ての分身を破壊された。
息を呑んで見ていた優種は、切り裂かれた小鬼が、ひらひらと舞う数枚の紙片に変わっていくのを見た。
そして二人は息を整える暇もなく、また空中の出入り口のような場所を抜けて、こちら側に戻ってきた。
周囲に戻る静寂。
「まだまだね、貴方は無駄弾が多すぎるわ」
「は、はい……すみません」
「すごいんだな、二人とも」
叱られて小さくなる槙菜の声に被せるように、優種のやや場違いな称賛が響いた。
それに礼桐は美しい形の眉をきつく吊り上げた。
「貴方は無駄口が多すぎます。これでわかったでしょう。こんなことはこのメイドの里では日常茶飯事。槙菜も一歩間違えれば死んでいたのです。早くギブアップなさい。それが貴方にはお似合いです!」
いきり立つ礼桐は、憤然とした様子で踵を返すと、そのまま一人で去っていこうとした。
最後に一度だけ振り返る顔には、一転して憂いが大きく覗く。
「槙菜は多苗に診てもらいなさい。お別れは短いほうがいい。想いを残すと辛くなりますよ。今夜一晩だけは大目に見ますから……」
憐れみの表情を満面に浮かべた礼桐は、そのまま振り返ると今度こそ去っていく。
刀を大きく振ってから鞘に戻す背中は、どこか寂しげでもあった。
「なんだ? 今夜は大目に見るって」
だが、そんな心情を一つも汲み取らない優種は、まだあっけらかんとしていた。
「な、なんでもないわよ! メイド長は勘違いしているだけよ。いいわね? 変な勘ぐりして本気で手出したら、ほんとに死罪だからね!」
だが言葉の意味がわかっていない鈍感優種は、首を傾げるだけだった。
「つっ……」
痛みに自分の腕を抱く槙菜に、優種はやっと反応して心配そうな瞳を向けた。
が、
「あっ」
「え……?」
優種の視線は、刀の鋭利な刃によって、綺麗に切れたメイド服の胸元を見ていた。
ぺろんとめくれたそこから漏れ出す、槙菜の大きめの……
「いやぁぁぁ!」
また槙菜の本気の蹴りを食らった優種は、槙菜以上のダメージを受けていた。
見切りを誤って敵だけでなく槙菜のメイド服まで斬ってしまった礼桐の動揺の正体を、この時の優種は知らなかった。