第二話 メイドの里の厳しすぎる掟、夢なら早く起きて俺
ここは山間に囲まれた密かな地、メイドの里。
その里にあるメイド屋敷、広大な平屋建ての和風建築の中に、優種はいた。
十畳、いや二十畳? もっと広いかも知れない、あまりの広さにもはや百と千の区別もつかない場所に、優種と、その向かいに一定の距離を置いてメイド服姿の幼なじみ、槙菜が座っている。
最初は正座で座ってみたが、すぐ足が痛くなった優種は足を崩した。
槙菜のほうはミニスカートの奥が見えないようにしっかりガードしつつ、しかし最初から足を崩して正座の素振りさえ見せなかった。
想像もつかない場所で二人きりになった幼なじみ同士は、しばらくの間無言で見つめあうだけだった。
静かにしていると、なにかの鳥の鳴き声が、筒抜けの部屋の中に飛び込んでくる。
近くの沢のせせらぎすらも聞こえてくるようだ。
そんな雰囲気に居たたまれなくなって、口火を切ろうとした槙菜はしかし
「お茶と茶菓子は出ないのか」
と言い出す幼なじみを、ギロリと睨みつけていた。
すぐ思い直す彼女は、重々しく腰を上げる。
当然スカートがめくれて中身を見られるような愚は犯さない。
その見えそうで見えない、見せないように頑張っているポージングが、これはこれで中々扇情的で悪くないのではないのかなどと優種が思っていることは、粗忽な槙菜には見抜けない。
「わかったわよ、ちょっと待ってなさい」
それからたっぷり二十分は待って、槙菜はお茶とせんべいの乗ったお盆を持って帰ってきた。
その間優種は部屋を見回していたが、武家のような鎧兜だの、「冥土一心、お茶屋遊びは主の務め」などと書かれている掛け軸や、開け放たれた戸口から目に飛び込んでくる大自然の風景などには、大して興味も持てずに、すぐケータイを弄り始めた。
だが、いくら試してみても電波は届いていない。ワイファイも無理なようだ。
「無駄よ。そんなもん電源落としときなさい。電池の無駄。帰り道で困るわよ」
どかっと二人の間にお盆を置いて、申し訳程度に湯飲み茶碗を優種のほうに差し出すと、槙菜はもう自分の湯飲みと一緒に、せんべいを一枚手にしてそれを頬張っていた。
「槙菜、そのメイド服似合っているな」
「全くそう思ってない口調で言われても嬉しくないわよ。それよりこれから説明するから、ちゃんと一回で理解しなさいよ馬鹿優種」
バリバリとせんべいをかみ砕く幼なじみの顔を見ながら、小さく頷く優種は、入れ違いに自分もせんべいを手に取った。
「ここは日本を裏から牛耳る冥土家の本宅。人呼んでメイドの里よ」
「そんな場所があるなんてテレビでもみたことないぞ」
「当たり前でしょ。冥土一族は超がつくほど上流の一族なのよ。表舞台に登場するわけないじゃない」
「その冥土さんはメイドの格好をさせるのが趣味なのか?」
「あんたのツッコミに一々答えていたら日が暮れるから、私が喋っている間、黙ってお茶飲んでせんべいでも食べてなさい。いいわね」
「はい……」
バリバリと音を立ててせんべいを食べ始めた素直な優種を見遣ると、槙菜はこほんと咳払いをした。
「やっぱりうるさいからせんべいはやめて。こっちの最中にしなさい」
「はい……」
大人しく言うことに従う優種は、横につけられていた最中の包みを開いたが、そのガサガサという音が、また槙菜を刺激していた。
それが収まってから、もう一度咳払いの後、槙菜の話が始まる。
「冥土一族は日本の支配層に根を下ろす由緒正しき名門なの。古くは織田信長に仕え、その後豊臣、徳川と支配者が代わってもその存在を政権の中枢に置いた冥土家は、やがて仕える側から直接支配する側になったのね。そして明治維新以後の近代化の流れの中で、いち早く西洋の思想やしきたりを取り入れ、冥土家はメイドの里を開いた。これがこの里の歴史」
「それで、そこからどうメイドに繋がるんだ?」
「冥土一族はもともと忍者の系譜なの。織田信長と喧嘩して大分やられたこともあるけど、それでも忍の術は強力で、時の権力者はその力を欲した。後世信長が魔王とか散々言われたのも、明智が反乱を起こしたのも、元を正せば冥土一族の長年に渡る宣伝工作の結果なのよ。そうして続いた系譜が、西洋の忍術であるメイドと結びついたのは、時代の必然というものよ」
最中を頬張り終えた優種は、すぐ二つ目を手に取ったが、その手が止まる。
「そこがもうわからんのだが」
「あんたメイドがただ可愛い格好をして家事している人だと思っているの? そんなのゲームやアニメの中だけの話よ。メイドはね、日本の忍同様、時の権力者の傍に仕え、命あればさまざまな仕事をこなすプロフェッショナルなのよ」
言っていることは破綻していないが、説明にはなっていない説明に何故か鼻高々な槙菜は、さらに言葉を続けた。
「そうして西洋と和の空気が結びついて生まれたのが、忍メイド(しのびめいど)の存在なの。忍メイドは今も日本を支配する、偉大な一族なのよ」
「わかった、じゃあ俺は帰って寝るから、リムジンよろしく」
すっかり理解を放棄した優種は、お菓子をあらかた食べ終えてお茶を飲み干すと、腰を上げて立ち上がろうとした。
だがそれはすぐに槙菜によって遮られる。
優種の肩を押さえつけてもう一度強制的に座らせると、槙菜は苛立たしげに眉を吊り上げた。
「私の話聞いてなかったの!? ここに一度来たら、簡単に帰れるわけないでしょ!」
「いや聞いていてもさっぱりわからないんだけど。槙菜説明下手すぎないか。まだメイドの里のおらが村自慢しか聞いてないぞ」
「だから、それを今から説明するんでしょうが! 座って大人しく聞いてなさい」
「はい」
「いい? メイドの里にはね、任務に応じてさまざまな忍メイドがいるの。それを束ねる領主がお館様と呼ばれる存在。そのお館様は世襲制ではなく、里の出身者の中からランダムに選ばれる。胸にメイドの紋章を持つ人間が、お館様候補としてこのメイドの里に招かれて、昇進試験を受けることになるのよ」
優種は自分の胸を押さえながら、これまでの経緯を考えて、やっと納得した。
「そういえばちょっと前から胸のところに傷みたいなのがあるけど、あれがメイドの紋章なのか?」
「そうよ、ひっくり返ったエムの文字。それが全てを統べることを意味する、ターンメイドのマークなの」
「はぁ……それダブリューとなにが違うんだ」
さっぱり要領を得ない優種。
「じゃあそのお館様候補として、俺が選ばれたってことか」
「そうなのよ……どういう間違いか、あんたみたいなポンコツが選ばれちゃったみたい。私もここであんたの顔を見ることになるとは、思ってもいなかったわ」
優種は槙菜の呆れ気味の顔を見つめながら、リスのように首を傾げた。
「槙菜のほうは、なんでメイドなんだ?」
それを聞かれると、槙菜は意外に大きく膨らんでいる胸を張ってみせた。
「私はこう見えても冥土一族の血が濃いのよ。私の母さんも昔はこの里で、お館様にお仕えしたんだから。メイドの力はその娘にも自動的に受け継がれるの。私はこれでもご奉仕忍メイド(ごほうしののめいど)検定一級通ってるんだから。次のお館様が決まるというから、夏休みを利用してここに研修に来たのよ」
「なんだそのご奉仕忍メイド一級って。そういえば俺をここに拉致してきた人が、調理師メイドとか言ってたけど」
喋りながらお茶のお代わりを要求する優種に、槙菜は甲斐甲斐しく急須からお茶を淹れていた。
こういうところがご奉仕メイドらしいといえばらしい。
というかそこしかご奉仕メイドらしいところがない、と優種は考えていた。
「千代丸さんね、あの人は由緒正しい料理番の家系なのよ。調理師忍メイド(ちょうりしののめいど)は毒を盛り込まれない安全なお料理を作る、権力者の傍に絶対必須の技能なの」
「じゃあさっきのきっつい人は?」
「礼桐さんは忍メイドのトップ、メイド長よ。彼女は生粋の剣士忍メイド(けんしののめいど)で、新幹線だってあの背中の刀で真っ二つにしちゃうわよ」
ふむ? とやや懐疑的な視線を向けながら、優種は質問をさらに重ねた。
「じゃあご奉仕忍メイドってなんだ?」
「それは……ありとあらゆるご奉仕を提供するのよ」
「槙菜が? うそくせえー」
ガウン! 槙菜は足を崩して座る体勢から、片足だけを上げて、かつ絶対にスカートの奥を覗かせないスピードで、その足を蹴り出して優種の体を吹き飛ばしていた。
すぐにピンと張った足が戻ると、まるで優種が一人で後ろに吹っ飛んだような構図になる。
槙菜は涼しい顔をして、お茶のお代わりを啜っていた。
「こ、これのどこがご奉仕なの……」
幼なじみの本気キックを浴びた優種は、畳の上に転がりながら、そこに顔をめりこませるような体勢で呟く。
「ご奉仕とは無償の奉仕にあらず、主の間違いを正すもメイドの道なり……ってね」
そんなこと言われてもしらんがな、と返す気力は、その時の優種にはもうなかった。
「ああもう、あんたのせいで全然話が進まないわね。いい? あんたはこれからお館様候補としてこのメイドの里で暮らして、その素養を試されるのよ。メイドたちにとっても貴方が主になるかどうかは大きな問題だから、みんな注目してる。だからって美人のメイドだーとかって浮かれ気分でいられても困るのよ」
「いやどっちかというと、会ったメイドみんなに冷たくされている気が……」
やっとのことで起きあがった優種は、槙菜の傍に戻ると、痛む頬をさすりながら、涼しい顔の幼なじみを恨みがましく見つめた。
「そりゃそうでしょ。私だってまさかあんたが来るとは思ってなかったわよ。せっかく夏休みの間は顔見なくてすむと思ったのに」
「もし正式に忍メイドになって、他のお館様が出てきたら、槙菜は学校やめるつもりだったのか?」
そのなにげない問いに、槙菜の顔はわずかに曇った。
「しょ、しょうがないでしょ。私の本当の仕事はここにあるんだから……あーあ、あんたじゃなければ、もっとご奉仕力駆使していろんなことして差し上げたんだけどなあ」
「いや、俺にしてくれてもいいんだけど……というか他の男にエッチなご奉仕とか、そんな娘に育てた覚えはありませんよ」
「あんたに育てられた覚えはないわよ! それと言っとくけど、お館様候補の間はメイドに手を出すのは絶対禁止だからね。もし破ったら一発で失格よ。失格したら死罪だから」
さらりと言う槙菜に、ははっと乾いた笑いを浮かべる優種は、まさかと思っているようだ。
だが
「この冥土一族の主になるということは、この国を、世界の一部を支配する力を得るに等しい。だからお館様には敵も多いの。暗殺の危険もあるのよ……あんた、そこまでやる覚悟あるの?」
さらに冷たく言い放つ槙菜の声は、酷く暗いものだった。
「まさか……そんな危険なことなのか?」
まだ笑い顔な優種にため息を漏らすと、槙菜は小さなベルを一つ、その目前に置いた。
「掟を破り死罪か、敵に殺されるか、そうじゃなければこのベルを押しなさい。安全装置がかかっているから、それをこうして、そんで思い切りこのボタンね。そうすればあんたは自動的にお館様候補の資格を失う。そうすれば記憶を消されることにはなるけど、晴れて元の暮らしに戻れるわ。あんたのために言ってあげるの……早くそのボタンを押しなさい。じゃないと、ほんとに危ないわよ」
槙菜は立ち上がると、空になった湯飲みと菓子盆をまとめて持ち、部屋を出ていった。
最後に振り返った時の槙菜の寂しげな瞳に、優種は冷や汗をかいていた。
それから一人部屋でぼーっとしていた優種は、渡されたベルのようなスイッチと睨み合いをしていた。
これを押せば記憶を消されるが、元の暮らしに戻れる。
ここに残れば殺されるかも知れない。
殺されずにお館様になれれば、槙菜を含めてメイドの女の子とエッチなことし放題?
じゃあ押す理由はないな。
誤解なく槙菜の説明を解釈し、そして納得した優種は、そのベルを懐にしまうだけしまうと、腰を上げて表に出てみることにした。
すると白砂が広がる庭先で、もこもこしたものが動いているのに、いきなり目を奪われた。
「誰……?」
その動くまりものような物体は、よくよく見ればただのうさぎの着ぐるみだった。
ドのつくピンクで派手派手しい色合いのそれは、箒を手にして、庭を掃いている。
くるりと振り返るうさぎは、軽く横に首を傾げてみせると、すぐに手を伸ばして握手を求めてきたので、優種は大人しくそれに応じた。
固く握手をかわすと、うさぎは後ろ手からホワイトボードを取り出して、きゅっきゅ音を立てながら、マジックでそこになにかを書きつけ始める。
そのボードを優種に向けると、そこには「私けもっていうの、仲良くしてね」と女の子らしい丸文字が書かれていた。
「これはこれはご丁寧に。わたくし、今回お館候補としてこの屋敷に連れてこられた、優種といいます。以後よろしく」
するとうさぎはボードを黒板消しのようなものでさっと拭くと、またなにかを書き始めた。
「ご主人様、よろしくなり。うさぎで役立つことがあったらいつでも言ってね」
結構な時間を経て示されたボードには、そう書かれていた。
「いやいやご丁寧な挨拶、いたみいります」
優種は礼儀正しくお辞儀すると、うさくんは軽く手を振ってから、徐々に後ずさり去っていった。
「なんだったんだろう、あれは。着ぐるみ忍メイド?」
一人残された優種の呟きを、カナカナと鳴く蝉が遮った。
「まだおられたのですか」
さらに後方から声をかけられてドキッとした優種は、その冷たい声の主の方向に振り返る。
そこには銀髪の礼桐の姿があった。
新幹線をぶった斬るという刀に、なんとなく見入ってしまう優種に、緊張感はまるでない。
「言ったはずです。私は貴方をお館とは認めません。他のメイドたちもそうでしょう。ここにいて無事にお館になれば、女の子とハーレムだわーいなどと考えているなら、必ず後悔しますよ。早くギブアップボタンを押してしまいなさい」
優種は冷たすぎる声を聞くと、それに反発するでなく恐れ入るでもなく、また首を傾げてしまった。
むしろ槙菜と同じことを言っている礼桐を、滑稽に感じたくらいだ。
「礼桐さんは、俺にここにいられるとなにか困ることでもあるの?」
「もちろんです。私は貴方が嫌いなのですから」
即座に返事をする礼桐は、顔を背けて優種から目を逸らし、そのまま去ろうとした。
が、それを呼び止める優種。
「あの、ご飯まだかな。それとお風呂もよろしくね。俺、着替えも持ってきてないから」
そののんきすぎる声に、礼桐は振り返ると怒気を孕ませながら口元を歪めた。
「畏まりました。すぐにご用意させましょう」
すたすたと足早に去っていく礼桐の背中で長い銀髪が揺れるのを、優種はただじっと眺めていた。
しばらくして夕食を運んできたのは、調理師忍メイドの千代丸と、ご奉仕忍メイドの槙菜の二人だった。
槙菜はともかく、千代丸はあからさまに態度が悪い。
「どんなくだらない人間でも食事は必要ですからね。お持ちしましたよご主人様、犬の餌よりは幾分ましなだけのお食事」
そのきつすぎる言葉に、しかし優種は大して反応を示さなかった。
それを憂色の瞳で見つめる槙菜。
「あんた、本気でギブアップする気ないの?」
おひつからご飯を茶碗によそう手つきこそ如才ないものの、言うことははすっぱな幼なじみのままの槙菜。
優種は二人の顔を見比べると、自分の四面楚歌状態を改めて認識したが、それでもやはり反応は静かなものだった。
「ところでなんでご主人様なの? お館様じゃなくて」
「はっ、お館様とはこの屋敷、メイドたちの頂点に君臨されるお方ですわ。貴方のようなその辺の一盛り百円にもならない腐りかけのお野菜と同列にしたら、お館様が汚れます」
「その割にはご主人様って言ってるけど」
オーバーアクションで罵りを繰り出す千代丸に対して、しかし優種は全く動じなかった。
どうせ粗雑な扱いは槙菜で慣れている、という本心は、ここでは口に出さないでおいた。
だがつきあいの長い槙菜は、優種がなにを考えているか、大体の予想はついていたようだ。
「大事なお客様として、私たちはお館様候補に誠心誠意仕えるように命じられているの。それも訓練のうちだから」
いつの間にか山盛りになっていたご飯を差し出しながら、槙菜は今度は味噌汁を掬うためにおたまに手を伸ばしていた。
「俺は実験台か。にしても全然誠心誠意仕えてもらってないけど」
「本当に貴方なんにもご存じないのね」
千代丸は一層強く眉を寄せて優種を睨みつけるが、それ以上口を動かすのをやめてしまった。
優種はその態度を見て「もうお前とは喋らん」と言われているように感じた。
感じたが、それを深く考えることはなかった。
ぱくりと一口出された焼き魚定食の魚を口にすると、優種の口元が綻ぶ。
「千代丸さんはまだ十八なのに、もう調理師忍メイド三段にまで昇段しているのよ」
槙菜の言葉もろくに聞かずに、ご飯をがっつく優種。
「プロフェッショナルというのは、与えられた仕事に対して全力を尽くすものなのです。私の仕事は絶対に美味しく、絶対に安全な料理を作ること。そのことにかけては誰の追随も許しませんわ。それ以外のことは知ったことじゃありませんけど」
悦に入って胸を張っている千代丸の声も聞こえているのか、優種は高速でおかわりを要求し、槙菜もそれに答えてコンマ一秒の世界でおかわりをつぐ。
すっかり無視された千代丸は憮然としていたが、その間にも空になった茶碗が置かれ、優種はもう楊枝を使って歯間掃除をしていた。
「じゃあなんで俺を迎えに来たの?」
つい先ほど会話が中断されたように尋ねる優種。
「あれは町に調味料と食材を買いに行ったついでに頼まれただけですわ。でなければ誰が貴方など迎えに行きますか」
「千代丸さんも俺のこと嫌いなのかな」
「嫌いですらありませんわ。全く関心がありません。ただの一ミリも」
「そうか、ありがとう。槙菜、お風呂に案内してよ」
千代丸の侮蔑の言葉にもまるで動じない優種は、立ち上がりごちそうさまと小さく告げると、もう廊下に歩き出していた。
慌てて槙菜が追う。
その槙菜に、千代丸が呆れ気味に呟く。
「この子、大丈夫なの?」
槙菜は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ちょっと、あんたおかしいんじゃない? そんな無気力無関心な人間じゃなかったでしょ」
長い廊下をしずしずと歩きながら、思わず槙菜は尋ねていた。
だが、当の優種も首をひねってはいるものの、あまりその言葉に反応を示したとはいえない。
「さあ……自分でもよくわからんけど。まあメイドさんに囲まれて、感覚が麻痺しているんだろうな。いまだに夢でも見ているとしか思えないし」
そこでやっと我に返ったように呟く優種。
確かにその様子は、少しおかしいといえばおかしかった。
槙菜もそれに心配そうな顔をしていた。
「ま、あの人らに怒ってもしょうがないし」
くるりと踵を返すと、優種はまた歩き出した。
「うーん、よっぽど欲ボケしちゃっているのかもね」
無理矢理納得しようとする槙菜に、またすぐ優種が振り返ったので、槙菜はドキッとした。
「なあ、お風呂一緒に入る?」
「なななななな!?」
ドキッとするどころか、熟れたトマトのように顔を真っ赤にして、槙菜は爆発してしまった。
だが、目線を左右に激しく振って動揺を示しながらも、槙菜は否定の言葉も、暴力的な行為でごまかすこともなかった。
「か、畏まりました……では誠心誠意お世話させていただきます」
驚いたことに、槙菜は拒絶するどころか優種の提案を受け入れていた。
目を見張る優種に、槙菜はまだ顔を真っ赤にしながら、それでも苦り切った顔で、恨みを込めて優種を見つめた。
「わかってるでしょうけど、変なことしたら即失格で死罪だからね。それでは準備をしてまいりますので、先に湯でお待ちください」
しっかりと頭を下げると、槙菜はどこか力無く、それでも素早い動きで来た廊下を引き返していく。
優種はその背中を若干不安な面持ちで見送った後振り返る。そこには「ゆ」の文字が刻まれた青いのれんがかかっていた。
銭湯のような趣ののれんをくぐると、優種は広い脱衣場を抜けて、露天になっている岩風呂の戸を開けた。
まるで温泉旅館のような仕組みに、すでに暗くなった月夜の空を眺めながら、しばしぼうっとする優種。
その横を、小さな女の子が全力で駆け抜けていく。
ぎょっとした優種は、思わず胸元をタオルで隠しながら逃げるように走る小学生くらいの身長の女の子のお尻を、ずっと眺めていた。
それは想像以上に膨らんでいて、女らしさをにじませていた。
「あれ、ここ女湯だったのか?」
つかつかと一度廊下に出ると、紺に近い青ののれんを改めて眺める優種。
「あ・ん・た・は~!」
怒りの声に振り返った優種は、その般若のような槙菜ではなく、その遙か後方でこちらをうかがう、先ほどの美少女を見つめていた。
が、その視界も程なくして真っ暗になる。
槙菜怒りの稲妻キックを食らった優種は、その日目を覚ますことはなかった。