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挽歌の聞こえる丘( 完結)  作者: 神邑 凌
4/4

4-4 総理 国民の審判を

何も知らない、何も判らない好い時代であったと。

NPOのご厚意で父はまるで別人であった事が判り、それから間もなく聡さんは東京を後にして、奈良斑鳩に帰ったようです。

嫌いで嫌いで仕方なかった斑鳩が、その時は帰りたくて帰りたくて堪らなくなっていたようです。

朽ち果てて行きそうな大きな門、そして瓦が所どころむくれあがっている屋根、果樹園とは名ばかりで、荒れ果てて藤の蔓でさえ五センチの太さにもなり、丘の葡萄畑をふじ蔓が蔓延って牛耳っている悲惨な状態だったようです。


 聡さんは一年もの間、近くの高校生で英文科を専攻している女性にアルバイトをお願いして、世界中から来ている手紙の解読をして貰った様です。

それは思いもしなかった事に繋がったのは、その女性が数年ののち聡さんの事を伴侶の友であると思ってくれた様です。

手紙に書かれている内容は、お父さんの誠一を偲ぶものが多く、突然の死は世界中の子供たちに涙を流させた事を知った様です。


翻訳を買って出た女学生は、こんな良い人はどこにも居ない。嫌う理由等見当たらない・・・翻訳を繰り返していて、とうとうその様に心に決めてくれたようだと、聡さんは当時を振り返り語ってくれました。

聡さんはその方と結婚され、今一粒種が生れとても幸せそうにされています。

しかしその頃の聡さんは、荒れ果てた果樹園の立て直しに苦慮されていたようです。


 立ち枯れした木を伐採し、新たに葡萄の木を植え、それは過酷と言う意外に言い様が無かった様です。幼い少年期に持った鉈や鎌や鍬など全く経験のない事で、何もかも一掛けであったらしく、とても苦労の連続であったようです。

でもそれから九年近くが過ぎ、今立派な葡萄が実り、ましてやその味たるや、どこにも引けのとらない美味しさで、即売センターの中でも注目されている有望株と成ったのです。


 野際果樹園にはこのような歴史が刻まれている事を紹介させて貰いました。

新党凌駕は聡さんの父、野際誠一さんの悪評で、数を減らした事は言うまでもありません。

それは身内の聡さんでも同じで、避け続けた二十数年だったと思われます。聡さんは取材の最後にこの様に言われました。それは一枚のCDの話でした。


『編集長、私はこの葡萄畑の丘に佇んでいると、どこからとなく聞こえて来るのです。手紙と一緒に送られてきたCDに収められた、子供たちの讃美歌のような綺麗な歌声が・・・

あれはNPOの方の話では、アフリカのジンバブエの子供たちが伝染病で亡くなりかけた時、お父さんの支援で何人も助けられた事があり、その元気になった子供たちが、お父さんが亡くなった事を知り、悲しくて悲しくて、心の中から泣きながら歌った、お父さんを偲ぶ挽歌だと言われました。

とても綺麗な歌声で、聡さんはその歌声を耳にしながら父を思い、母を思い、そしてお爺ちゃんを偲び、荒れ果てた果樹園を来る日も来る日も、休む事なく甦らせたようです。


 ただ私はそんな聡さんに皮肉にもこの様に言いました。

「何故お父さんは法律に触れるような事をして迄寄付をされたのでしょうね?」と、それに対して聡さんは、

「私は寄付の事など全く知らなかったですが、父は常日頃から言っていたのは、

『人も葡萄もイチジクも実ると蜜が出るから誰かが集まって来るな。 それは人かも知れないし蟻かも知れないし蜂かも知れないし病気かも知れない。 だからそんな時集まって来るものはろくな者ばかり。覚えておきなさい。それは悪い事を企む奴か、あるいはそれは身勝手な欲の塊のような奴かも知れない、実は世の中ってそんな所かも知れないから気を付けることだよ』

その様な言い方をされました。


その言葉からおそらく父は、悪が何であるか十分わかっていたのでしょうね。」と返され、

「ではお父さんは何もかも判りながら、つまり法律はともかく、野心家が集まる場所から巧くお金を巻き上げ、あえて寄付活動に邁進したと言う事でしょうか?」と聞けば、

「そうなのでしょね。はっきりは分かりませんが、罪に成るものもあったかも知れません。、ただ父はお爺ちゃんの遺言を見事に守って生涯を通したと成るのでしょうね。」と

「よくわかりました。貴方のご希望通りに真実を書かせて頂きます。長らくの間ご協力下さいましてありがとう御座います。

 多くの有権者はこの事実を知って立ち止まる事に成るでしょうね。

事実とは一体何かとなり、政治家とは一体何者かと成り、今まで自分がしてきた一票の判断を、今一度見直す時を迎えるように誰もが成るでしょうね。」と言うと、


「親父の死が無駄に成らない事を願っています。

そしてこの話を持ち挙げて下さった元民政党議員で、私の同級生で、更に親友で、今は斑鳩農産物即売センターの出店者の仲間でもある、斑鳩菜園代表の相沢達治さんにお礼を申し上げたいです。

そして今なお父野際誠一のお墓にお花を供えて下さっている、亡き父の元後援会の皆様に深く感謝申し上げます。」

聡さんはこのように締め括られた。


           【追記】

 《人は見かけで判断してはいけない。》

野際誠一と言う人物は、事ごとくその事を実証した稀にみる人物であった。

 我々マスコミは同氏に関して好き勝手に書いてきた。そして決して良くは書かなかった。

どの誌も疑惑の根源の如く書いてきた。それは当時の各誌の活字を検索すれば明らかである。当然我誌は、申し訳ない限りであるが、最たるものであった。

 何はともあれ、二代に渡り世界中の多くの子供たちを救い続けた野際誠一氏に敬意を表したい。

 私は編集長として、野際氏にこんな一面があった事に、全く気が付かなかった自分を遺憾に思い憤りを感じる。

 これからの人生でこの教訓を噛み締め、反省を惜しまず、文屋としての我が身を戒めたく思う。

                           ( 国政新報編集長山下 治)


 この記事は大きくマスコミに取り上げられ、テレビのワイドショーでも物議を交わす結果となったが、

二代にも渡り世界中の多くの子供たちを助けていた事実に対し、絶賛の声は止む事はなかった。

 誰にも簡単には出来ない事である事は、誰もが知っていて、例えそれが塀の上を歩く様な内容が伏線にあったとしても、許される範囲と捉えられた。

 つまり野際誠一に関わった人物は、誰しもが欲と云う醜い心の持ち主であったからで、彼の様に伏線で世界中の子供たちの命を救う事など、考えている者など一人も居なかったのである。


だから野際のしてきた事には、誰もが承服せざるを得なかったと言うことに成る。

龍志が国会に背を向けてから丸三年が過ぎ、早いものであと一年で選挙がある。

 国政新報のこの度の記事は、新党凌駕を見直す

兆しが生まれてくる事は言うまでもなく、あれだけ正義感に満ち溢れていた民政党は、今や権力を傘に着た悪代官のイメージさえ芽生えていた。


 内閣総理大臣野村健三はまさにその人物で、前回の解散総選挙で裏工作をした事が今に至っても尾を引いていた。

「野村総理では持たない」

「民政党は新党凌駕の二の前になる。」

「これまでのイメージとは程遠い」

「一刻も早く野村総理を蹴落とさないと」


 思わぬ声が内部から囁かれる情勢になり、安閑としてられない野村健三総理は、新党凌駕の大きな波が押し寄せて来るのを感じさせられていた。

 それは若いころ新党凌駕の野際誠一を名指しにして、詰なじり続けた事に原因は遡っていた。

内閣総辞職を迫られたのも、そこに原因があった事は言うまでもない。

総辞職より解散を選んだが、その後に密約があった事は、大いに国民を馬鹿にした愚策であった事はこれも確かであった。


 陰りの見えた野村内閣も三年が経ち、次の選挙では勝てないだろうと、民政党の幹部からもヒソヒソと声が飛び交っていた。

当然新党凌駕の議員たちも同じで、野村健三内閣の末期を思わせる言動が蔓延っていた。

総理の任期は再選されればあと四年あり、間もなく総裁選挙があり、再選を目論む計算で野村総理は動いていたが、三役はどうも腰が重かったのか、威勢が悪かったのである。


そして秋になり、総裁選挙が行われる日が近づいてきて波乱の時を迎えることとなった。

それは来年の総選挙でおそらく相当数を増やす事が考えられた、新党凌駕の代表小暮道造と幹部連中が、民政党にこんな話を持ち出したのである

「次の選挙は我が新党凌駕がどこよりも票を伸ばす事は予想出来、民政党さんもお解りだと思うからはっきり申し上げます。


 それほどまでに野際誠一議員の記事はインパクトがあった事は言うまでもありません。それは貴方も感じられている筈。

ですから率直に申しまして、次の内閣は我が新党凌駕から総理大臣を出させて貰います。どうか納得して頂き、表向きはこれまでと変わらない連立をと考えております。

片意地を張って総理の椅子に執着しご理解頂けない場合は、万が一新党凌駕の議員が民政党の議員さんと比べて、これまでより多く成った場合は、そのオーバーした数だけ罰金を払って頂く事にしましょうか?


 次の選挙では民政党さんの数は我が党より少なく成るとはっきり言って思われます。

更に詳しく申し上げると、選挙の結果が民政党より新党凌駕の方が議員の数が多ければ、一人につき一億円ってのは如何でしょうか?」

「冗談ですよね?まるで脅しですね。私はそれほどまでに総理に執着していませんが・・・」


「本当に?でも聞く所によると、これは噂ですよ、噂では前の選挙では実際は機密費から十二億のお金を捻出されたとか?」

「まさか!今更そんな話を!」

「いや確かな筋から聞かせて貰っていますよ。何なら国会で審議されますか?困りませんか?

ねぇ総理もういいじゃありませんか?十分でしょう。野際議員の本来の姿が明るみになった以上、貴方は仕返しをされても致し方ない事。この際お引きに成って下さい。これは新党凌駕だけの事でなく、民政党さんの何人もの方が口を揃えて言っておられます。その事は貴方も正直言ってお気付きでしょう?」


「そうなの?随分失敬な聞き捨てならない事を、貴方は平気でおっしゃるのですね。」

「私は総理の為に言っているのですよ。万が一次期も総裁選に立候補されても、自党の民政党の方が素直に頷いてくれるでしょうか?潔く引かれるほど良いと思いますよ。飛ぶ鳥跡を濁さずって言葉があるでしょう。


 野際誠一議員のあの記事はそれだけインパクトがあったと言う事を貴方も十分お解りでしょう。下手すりゃ連立解消って事も頭の隅に入れておいて下さい。」

「そこまでおっしゃる。真面目な話脅しだね。」

「それが政治でしょう?議会で貴方はしばしば追及されている様に、誰もが賛同しない総理を相手にするのは本末転倒だと思うのですよ。


 貴方は総理と言う椅子に固執した四年間であっただけの事で、そこに国民は居なかったと思いますよ。貴方の党の右腕だった若い議員が先の選挙に出馬しなかったのも色々聞いていますからね。

 貴方に三下り半を突きつけて民政党から去って行った事も、貴方の付き人をしていた彼?え~っと?彼ですよ」

「相沢達治君かな?」

「そうそう、その相沢達治元議員。つい最近まで噂話になっていたではありませんか?」

「いやぁ彼は政治家に向かなかっただけだよ。みんな彼を買い被っているのかな」

「いえ、彼が民政党から出て行った理由は、貴方の心に民政党が培ってきたものとはかけ離れた何かが芽生えた事に気が付いたからだと聞いています。


それを貴方はお気付きでない、だから今こうして次期選挙の事で貴方にご忠告申し上げているのです。

選挙までにまだ日にちが少しならあります。民政党の幹部の方とよく話し合われて対処してください。今なら勇退ですが、欲張ってもう一度と色気を出せば蹴落とされると思いますよ。自他ともに、みんなが寄ってたかって」

「厳しいね。きびしい・・・一国の主にそこまで言う」

「だって不信任で消え去った総理だって何人も居るでしょう?」

「・・・・」

「総理、国民の審判を受けましょうよ。裏工作などせずに。このセリフは貴方の党が、いえ貴方が常に使うセリフだった筈ですよ。

 私利私欲など全く関係ない民政党ではなかったのですか?これ以上国民を馬鹿にするのですか?億の金をばらまく政権を維持して何になるのです?全部税金ですよ。]

「そこまでおっしゃるのですね。・・・・・解りました。次期総裁選挙には身を引くように検討します。」


「有難う御座います。解って下さいましたか。両党で正々堂々と戦い、より相応しい人物を選びましょうよ。これぞ民主主義であると言う風に」

「解りました。十分わかりました。」

「それでは民政党の幹部と話し合って下さいますように、くれぐれもお願いしておきます。」

「解りました。」



 野村健三総理はしぶしぶ新党凌駕の幹部連中の言葉に屈した。

 その夜ある人物に電話を入れていた。

「もしもし、久しぶりだね。」

「どちら様?まさか・・・」

「そうだよ。野村です。」

「総理?どうされたのですか?」

「龍志君も意地悪だね。政界では貴方が私に三下り半を突きつけて去って行ったって未だに噂に成っているようだよ。」

「まさか・・・」


「でも今日新党凌駕の連中からそんな言い方をされて、一国の主がみっともない事だったよ。」

「すみません。でもどうされたのですか?」

「今度の総裁選に出たらダメだって、引いてくれって嘆願されたと言うか脅されたって言うか・・・」

「まさかそんなことを・・・でも総理、正直言って、総理の事を今善く言う人はあまり居ないかもしれませんねぇ。


 それはご存知のように、野際さんがあんな形で生き返ったからで、総理はあの方をこれまで散々叩いてこられた事も誰もが知っている事。

 国民党から不信任案が出された経緯もあり、逆風なのは致し方ないでしょう。 でも大変ですね。  まさか野際さんが亡くなられてから既に十数年が過ぎているのに、ゾンビのように政界を席巻しているのですから驚きですね。

 誰にも出来る事ではないと誰もが感じている事をしていたのですから、それは勝てないです。

どんなに頑張っても、長く積み重ねられた実績には勝てないです。」

「解ったよ。龍志君にまでその様に言われると、新党凌駕の連中に説教され追い込められたのと同じに思えてくるよ。。」


「申し訳ありません。失礼な事を言いました。」

「いやぁ私の負けだね。白旗を用意しておかないとね。

 それにしても野際誠一氏は、どうしてあんな事を出来たのか、私には不思議に思えるね。

 賄賂を掴んで其れで寄付をしていたなんて、はっきり言ってそんな割の合わないバカな事と思うね。 

 一体何かあったのかだな?先代から続いているなんて、勿論誠一氏の兄が亡くなったからって事は理由として解る事は解るが・・・


 どうも私なんかには解からない超越した何かがあるのだろうね?」

「かも知れません。雑誌が出たのは五月頃でしたから、あれから四か月が経っているのに、未だに野際さんの事で終始していますね。

 実は私今野際さんの息子さんと同じ所で働いていて、誰よりも身近に思っています。」

「そうだったね。本を読ませて貰って頑張っている事がよく解ったよ。

 君らしいな、農林族にも顔が利くだろうから大いに利用して頑張れば。」

「それで野際さんはともかく先生はどうされるのですか?」

「引こうと思う。総理に固執する訳ではないから

と思っていたけど、実際はそうだったのかも知れないね。


 新党凌駕に国民不在なんて駄目だって言われたよ。実際そうだったのかも知れないね。」

「総理、昔私の大学に来て頂いて、話をされた事を覚えて居られるでしょうか?今の総理とはかけ離れているように思います。ですから私今の総理をこれからも見ていかなければならないと思うと辛かったのです。

 内閣不信任案が国民党から出されて、新党凌駕の謀反で可決した時、総理は日の丸に最敬礼をして涙ぐんで居られた姿は、今でも鮮明に覚えています。私も議員席で総理のお姿を見守りながら、辛くて滝のように涙を流していた事も覚えています。

 でもあの後総理は一番しなければならなかった事は、謙虚さではなかったかと思います。


 噂のように裏工作をされ内閣を維持された事は間違いであったと思います。

 不信任案にはそれだけの理由があり、謀反を働いた新党凌駕さんにもそれだけの理由があったわけで、それを総理はお金と数でねじ伏せ釣り上げたのですから、大いに反発を食らっても仕方ない事だと思います。噂が殆ど本当なら」

「龍志君、もう良いから解ったから。


 今ね、あの頃の事を思い出しているんだよ。君らの大学へ行って色んな話をした頃の事を」

「そうですか?先生私・・・いや俺涙が湧いてきて、とても辛いです。」

「いやありがとう。目が覚めた気がするよ。まさか君に目を覚まして貰うなんて思ってもみなかったけど・・・決めたよ。今きっちり決めたから・・・私の時代は儚くも終わりらしいな。」

「先生」

「これでいいんだ。人生引き返す時が来たみたいだなぁ。突っ走って突っ走ってここ迄来たけど行き止まりらしいなぁ。」



「先生、きっと回り道があると思いますよ。

 先生がいつも若い頃に言っていた、私利私欲も名誉も要らない道が在ると思いますよ。

 だって今までその道を歩いて来たのですから、その道に戻れば良いのですから。」

「そうだね。もう一度やり直すよ。一兵卒で、龍志君が去って行った時に気が付くべきだったね。最近私の側で誰もチクリと言ってくれる者など居ないから、気が付かなかったと言うか、道を間違えたのだろうね。」

「それで先生が引けば、今度の総裁選は新党凌駕の誰かが立つのでしょうか?」

「彼らがその様に思っていると思う。

 勿論一年後の総選挙の事を考えたら、彼らが総理総裁に成るのが妥当かも知れないね。何しろ一年後でも新党凌駕は躍進する事は間違いないと思うから。野際誠一の霊が後ろで見張っているようだから・・・」


「それは解ります。特にここで居るとその風はひとしお感じます。

 毎日毎日どれだけ野際さんの関係者が来るか、計り知れません。お客の振りをして新聞社も雑誌社も取材に来るのですから把握出来ないです。

 それに野際果樹園が売っている葡萄は、オープンした時から人気が格別で、更にあの記事が出たでしょう。毎日凄いものですよ。」

「じゃぁ、当然新党凌駕の連中も、お邪魔しているかも知れないね。


 聡さんに出馬依頼をしている事は間違いないだろうな。お父さんの無念を晴らされるように言って」

「それは判りません。彼は決して政界に興味がある訳ではありませんから」

「みんな始めはそうなんだよ。でも周りから責められて気が付けば、誰よりもその気に成っていたって事、幾らでもあるからね。」

「そうかも知れませんね。私は彼がその様にしたいのなら応援します。 でもそれは元民政党の議員であった事を弁えて」


「私はね、むしろ聡さんが政界に出て貰いたいね。当然新党凌駕から出る事は承知だけど、お父さんの事を思うと、相当な逸材だと思うよ。

 万が一彼が出るなら民政党は奈良は遠慮してもいいと思うな

それがせめてもの誠一さんに対するお詫びと礼儀って所かな。」

「そうですか。でも政治は彼も私も別世界で」


「そうですか?では仕方ないな。今日は龍志君に電話して良かったよ。 話している間に吹っ切れたよ。これからは一兵卒でもう一度頑張ろうと思うから、君も菜園を頑張って大きくして、みんなの役に立ってください。」

「はい、ありがとうございます。生意気な事を言いまして」

「いやぁ本当に助かったよ。ありがとう。其れともう一つ、君がこんなにいい性格であったことに、今まで気が付かなかったことを今更だけど詫びるよ。申し訳無かったねぇ。」

「いえ、とんでも御座いません。」


 電話が切れた。まさか総理大臣からの直電など考えられなかった龍志は、電話を切ってからも興奮している自分自身を感じていた。

 そして結局その時の野村総理の心境がその儘反映して、総裁選は民政党から誰も出馬せず、新党凌駕の代表小暮道造を押す事を決めた。


 総裁選では満場一致で小暮道造がその地位を満たし、新しい時代が来た事は有権者の誰しもが思った事で、人を思う心の籠った政治が始まるように思えた。それは亡き野際誠一が有権者全てに言い残したようなものであった。



 確かに両論は何時までもあったが、それでもまるで石川五右衛門の様な野際誠一の只管な精神は、誰に於いても表だって責める者など居なかった。

 野際誠一とその父作之助は、二代に渡り続けた寄付は億にも達していると、皮算用をするテレビ局も出て来て、多くの苦しんでいた子供たちから見れば神にも思えた存在で在った事も判る事となった。

 国政新報に野際誠一が六ページにも渡り記事に成ってから、既に半年を数えていたが、その勢いはまるで衰える事なくしぶとく巷を駆け巡っていた。

 そして新政権新党凌駕が率いた日本丸は、これまでに無かった希望に満ちて心の籠った、人間味の在る政権と思われた。


 その現象は一年後の総選挙にも大いに影響を与える言動の繰り返しで、野村内閣の時には考えられなかった誠実さが蘇っていたのである。

 そして一年が過ぎ総選挙となり、新党凌駕は予想通り大幅に議員数を増やし、民政党は初めて大幅にその数を減らす事と成った。

 龍志たちの即売センターも、相変わらずごった返す毎日が続いていて、時の人野際の姓を継ぐ息子野際聡に、会えるだけでも意味があると言わんばかりの客も、後を絶つ事なく大盛況の毎日と成っていた。



 国政選挙が終わり、新党凌駕の小暮道造総理の率いる新内閣は、順調に滑り出した事は誰しもが望む事であって、民政党からも五人の大臣を割り振られていたので、丸く収まったのであった。


 一年も早いもので秋も半ばになり、野際果樹園の人気の葡萄もその数を減らし始めた頃、車椅子に乗った可也お歳の老人と、その息子夫婦らしい六十手前の初老の夫婦が、即売センターへやってきて、野際果樹園の聡さんに声を掛けている姿が龍志の目に入っていた。


 実は龍志はその車椅子に乗った方の事をうっすら知っていたので気に成った訳で在る。

 二十数年も前、国会で野村健三議員の鞄持ちをしていた頃、その老人が何度か国会に来ていた事を覚えていたからで、その時確かに野際誠一氏にくっついていた事を思い出していたのである。

 それが誰であるかなど判らなかったし、聞く事も無かったが、今目の前で聡さんと親しそうに話す姿から何となく思い出したのである。


 暫くの間その車椅子の老人は聡さんと話し込んでいたが、葡萄を箱ごと買って、その足で龍志の出店斑鳩菜園にやってきて、

「あんただね。やっとお会い出来ましたね」

「いらっしゃいませ。何方さんだったでしょうか?忙しくしているので失礼な事を?」

「とんでもない。今日初めて来させて貰ったのだからお気遣いなく、大盛況で喜ばしい事ですね。」

「はい、ありがとうございます。」

「あんたが前の総理に三下り半を突きつけて民政党から去った人だね。大したもんだ!相沢さんだったね。」


「いいえ、忘れて下さい。野村前総理からも直接電話が掛かってきて同じ事を言われまして、もう勘弁して下さい。過去の事ですから」

「ところで相沢さん、一度貴方にお話があるのだけど、時間がありませんか?」

「私にですか?どのような事で?」

「ええ、以前に国政新報を読ませて頂いて、貴方にお聞き願おうとその時思ったのですが・・・いえ、ご無理は言いませんが、出来ますれば・・・」

「そうですか、私でお役に立つのなら、お聞きさせて頂きますが」

「そうですか、有り難いです。初めてお会いして不躾ぶしつけな事をお願いして申し訳御座いません。

 まぁこれからも子供夫婦も孫たちも、こちらのお店を利用させて頂くように言いますから、一つご無理をお聞き願えませんか?」


「解りました。実は私は貴方様を初めてお目に掛かったわけではなく、以前から存じ上げていると思いますよ。国会に何度かお越しだった事を覚えていますから。野際さんとご一緒でしたねぇ。」

「そうでしたか・・・昔のことで・・・それはそれは失礼な事を。私も既に九十を超え、何時お迎えが来るかこんな姿で、子供たちに迷惑を掛けているのです。」

「では日時を言って下されば、お伺い致しますから、出来れば雨の日が在り難いです。」

「そうですか、ではそんな日が来れば早い目にお電話致します。」

「はい招致致しました。心積りしておきます。今後ともご贔屓にお願いしておきます。」


 それから野際果樹園の棚にはカキや栗や梨が並び出し、葡萄の姿はどこにも見られなく成った時、先日話し合った老人の息子から電話が龍志の家に掛かってきた。

 そして龍志は言われる儘に言葉に従った。

 訪ねたその宅は立派な構えで風格のある家で、白井俊太郎と表札が掛かっていて、緊張しながらチャイムを鳴らした龍志は、ある意味何か怖いものを感じていた。また政界のごたごたに引きずり込まれはしないかとさえ、その時に成り感じ初めていた。


「よくお越し下さいました。この雨の中をご無理申しまして、さぁお入りください。」

息子の嫁が愛想よく満面に笑みを浮かべてその様に口にした。

「はい、私でお役に立てるか判りませんが、昔、野際先生のお供をされているお父様の姿を、国会議事堂で何度かお見かけした事を覚えていますから、、政治の話は今の私ではお役に立てるかどうか判りませんが」

「まぁいいじゃありませんか、骨休みだと思ってごゆっくりなさって下さい。

 私は相沢さんのお店にも何度もお邪魔させて貰っているのですよ」

「そうでしたね、なんとなくお見かけしたように思って来ました。」

「これからは覚えて下さいね。」

「はい。」

「あなたのお店は忙しいから無理もないですね。」

「はい、ごめんなさいです。」


「父は離れでいますからご案内致します。今日は主人も子供たちも誰も居ませんから、お父様と私だけですからお気楽になさってください。

 難しい話をするから誰も来ない様にって言っていますから、お二人で存分に。

 ではご案内いたします。お父さまはあのお歳ですが、耳も目も達者で足が悪い事くらいで、至って健康ですからご遠慮なくお相手して下さって、我まま聞いてあげて下さい。」

「解りました。お役に立つのなら」



「お父様、お連れしましたよ。相沢さんです。」

「おーぉ、よくお越しくださいましたね。こんな雨の中を申し訳御座いません。さぁ入って、入って」

「お邪魔致します。」

「ではお父様何か御用がございましたらお声お掛けてください。」

「悪いね。澄子さん」


「よく来てくださった。一年半前の国政新報で野際誠一氏の事が書かれていて、その最後に貴方にお世話になった事も聡さんが述べていた事を読ませて貰って、実はあの時から心で決めていた事があったのです。申し遅れました、私は表札も見て貰ったでしょうが白井徳太郎と申します。御歳 九十一歳の老いぼれで、少なくともあと僅かでこの世から居なくなると思っているのですが。

 人間不思議なもので、後僅かでと思うと妙に緊張してきて、それが生きる為には必要な事なのか、もう直ぐ死んでしまうなら好い物を食ってと考え、美味しくて柔らかい肉を食べて、それがまた元気の源に成っている様で、至って健康で、勝手なものですなぁ。相沢さんは今年でお幾つに?」


「はい四十六に」

「お若いですなぁ。私の半分ですね。

思えば私もよくここまで生きて来たもので、野際の倅は、いや誠一さんは随分早く亡くなったものだとよく思いますなぁ」

「そうですね、あんな亡くなり方をして、本当にお気の毒でしたね。其れに奥さん迄が」

「そうですね。前代未聞の出来事でしたね。

親父の作之助さんも同じような歳で亡くなっているから、孫さんも気を付けないとね。」

「でも彼は果樹園で汗をかいていますから、お父さんたちより健康的だと思いますよ。」

「それも言えるね。政治家なんて誰でもとはいかないですからね。いやぁこれは失敬な事を、貴方だって政治家だった時もあるのに」


「いえ過去の事です。辞めたけど後悔なんか一切ありませんから」

「貴方が当時の野村総理に三下り半を突きつけて国会を去ったと噂に成った時、この辺でも大変な騒ぎだったの覚えていますよ。」

「もうその話はよしましょう。ところで今日はどのようなお話で?」

「そうでしたね、本題に入りますか・・・良いですかよくお聞き下さい。


 とても大事な話をこれからさせて頂きます。其れで最後に貴方にお願いしたい事がありますから、突然呼び立て、こんな事と思われるかも知れませんが、貴方が野際聡さんのお友達である事を思うと、貴方以外に適任者は居ないのではないかと、私なりに考えこの様にさせて頂いたわけです。

ではお話します。私は遠い昔野際作之助爺さんの選挙に携わっていたのですが、野際誠一さんのお父さんです。


 言わば後援会長と言う様なもので、もともと野際さんの家は昔ながらの大百姓で、作之助さんのお父さんは権力者で、農地委員をされていた人物、発言権もあり力もありました。

 それが切っ掛けになってお爺さんは選挙に出られそれからとんとん拍子に力を付けられ、国政にジャンプして国会議員に成ったのです。

 幼いころから私と作之助さんとは竹馬の友で、何でも相談しあい、長く信頼しあう兄弟の様な付き合いをしていたのです。

 元々彼も私も百姓をしていて、彼はお父さんから譲られた農地で葡萄を作り始め、必死になっていました。


 ですから野際果樹園の初まりはその頃からです。それまでは貴方方の様に野菜や麦を作っていたのですが、県から助成金が出る事で一部を果樹に切り替えたのです。

 作之助さんがまだ政治に関心を持つ前の事ですが、当時は新婚で生きていれば私と同い年位ですから、随分昔の事と成りますが、御父さんの反対を押し切って葡萄作りを始め、彼は寝る間も惜しんで必死に頑張って、何とか葡萄が取れ始めた時、葡萄畑に泥棒が入り損害を受けたのです。


 それでもその年の秋、またしても泥棒と思う族が畑で居たので、大きな声を張り上げ、その泥棒に石を投げ追い払ったと、彼がその夜私に「困っている」と言ったのです。

 泥棒は葡萄を取る為に棒を持っていて、見た目は子供だったようでリュックを担いでいて、背丈はまだ小さかったから、それで棒で引っ掛けて取る積りだったと思うと、

それは夕方でしたのでやや暗かった様ですが、見た目には間違いなく少年であったと言っていました。


 その泥棒の少年を大和川の淵迄追いかけて行き、畑に落ちていた石を投げたと、其れで更に追い、竹藪の下の川原の葦が生え揃っている所に逃げ込んだから、その付近を目がけて石を投げたと、

 だから彼は『もうこれであの泥棒は怖くなって二度と来ないと思う』と腹立ち紛れに言葉を荒くしてその夜に言っていました。余程腹が立ち辛かったのでしょうね。折角出来た葡萄だっただけに。

作之助さんも若かったし、その頃男の赤ちゃんも出来てこれからと言う時だったから、気が張っていたのでしょうね」

「・・・」

「ところがまだ生れて僅か一月足らずの子供さんが、訳の判らない病気に成って急逝してしまったのです。可哀想に・・・」

「どれほど生きていたのですか?」

「一か月も居なかったと思うな、宮参りもできなかったと思うから、あっけなかったですよ。男の子でしたが火葬場で焼く事も出来なかったから。


 ところがそんな時斑鳩ではもっと大きな事が起こっていて、それは何かと言うと、小学五年の男の子が行方知れずに成って居たのです。

夏休みに岡山県からお父さんと一緒に引っ越ししてきて、慣れない地で行方知れずに成っていたわけです。  そして約二か月が過ぎた時に、その子と思う亡骸が大和川の葦が生い茂った中で発見されたのです  それはまさしく野際作之助さんが作っている葡萄畑の近くで、私はまさかとその時は思いましたが、しかし友達を疑う事など出来ないばかりか、彼は今一粒種を喪い、どんなに打ちのめされているかと思うと、この大和川で死んでいた子の事に触れる事など出来ませんでした。、


 ところが以前葡萄泥棒の事を作之助さんが話された時期と、小学生が行方知れずに成った頃と合致し、私は頭の隅で何か引っかかるものを感じていたのです。

 作之助さんは葡萄泥棒の少年を追いかけた事を言っていた事や、少年が亡くなっていた葦原は、時期的にも場所的にも同じ所であった事や、手に棒を持っていたと作之助さんが言っていたのは、それは後に鑑識の結果からも、釣り道具屋のおばさんの証言で、亡くなっていたその少年が持っていたのは釣竿であった事が判ったのです。


 釣り具屋のおばさんの証言によると、遠くから引っ越して来た少年で、幼い時から川へ行く事が好きであり、確か岡山の吉井川付近で育った事を聞かされ、行方不明になる前日にその手に持っていた釣竿を買って貰ったと言っていたようでした。

 はっきり覚えているのは、おばさんがその少年が小遣いを貯めてその竿を買いに来たらしく、大和川の汚さに驚きながらも、魚が多く居る場所を見つけて、夕方でありましたが釣りに出かけたようです。

 奈良へ来て日も浅く、まだ転校して来たばかりであったから友達も出来ず、大好きな魚釣りを夕方ではあったがしたかったようです。


 また少年の後頭部には陥没があり、そこに石の欠片が刺さっていて、どこかで転んでか何かが起こり、事故に遭った様であると、警察は見識を述べていたのです。

 その時、少年があまりにも発見されなかった事から、事件の可能性もあり、またお父さんが岡山から奈良の斑鳩に引っ越した理由は、金銭トラブルであったらしく、その巻き添えに少年が成ったのではないかと、警察は色んな可能性を考えている様でした。

 何故なら少年の父親が居場所がばれることを警戒して、警察に捜索を依頼する事を躊躇ったからでした。其れで遅れたようです。


 その時の事で新聞に載っていて覚えているのは、少年が釣竿を買った時は、実は一メートルほどの長さの竹竿で、三本に成っていて、使う時は繋ぐ様にするわけですが、彼が持っていたのは僅か十五センチほどに成っていて、それは何を意味するのかと言えば、おそらくその少年は何かに追われ、例えば野犬とか、恐怖のあまり近くに竹藪があり、その下へ降りると葦で覆われている場所があったから、竿を握りしめながら竹藪の中に逃げるか、また葦が生い茂った中へ逃げ、その時とても大事にしていた釣竿であったから、夢中に逃げながら何処かへ引っ掛け、気が付けば両端が折れていたのかも知れないと、犯罪心理に詳しい元刑事だったか、その様に解説していた事を覚えています。


 更に折れている事さえ気が付かないでその竿を握りしめて少年は死んだかも知れないと、

 或はその少年はどこかで頭をぶつけて、それで気を失ったかで、その儘何日も放置され、やがて衰弱して亡くなった様に書かれていました。

 何しろそれからも雨が降ったりして、大和川の水も氾濫したりで頭の傷以外に何も無かったのです。 親子二人だけであったその少年の父親は、大和川の河川敷工事に従事していましたが、子供さんが亡くなった事で気が塞ぎがちになり、お酒に溺れてある日同僚と喧嘩に成り、警察沙汰になって会社を辞めさされた様です。


 それからいつの間にか父親は斑鳩を後にして、どこかへ行ったらしいです。

 相沢さん、貴方のお父さんがご健在なら、この話を知っておられると思いますよ。

 少年は結局夕方に居なくなったと言う事で、釣りに行き単独で事故に遭ったものと判断され、幕が下ろされたのです。

 それから一年が過ぎ、作之助さん夫婦に二人目のお子さんを授かった事が判り、一年間辛く苦しんでいた彼もやっと笑顔を見せるようになり、その内男の赤ちゃんが生れ、その子の名を同じように誠一と名付けたのです。

それがあの野際誠一さんなのです。


誠一さんはお兄さんと違って順調に成長され、それで誠一さんがまだ小学生の頃でしたか、お父さんが政界に進出する決心をされ、無二の親友の私に力に成って貰いたいと言って来て、私は彼の期待に背くわけにいかず、それからあの様な不幸な事件に巻き込まれるまで、二代に渡り長い付き合いが始まったのです。

 勿論当選した日から忙しい毎日が始まり、折角始めた葡萄畑も軌道に乗りながら尻すぼみに成ってしまい、元々葡萄に関心を示さなかった作之助さんのお父さんは、いくら暇があっても葡萄には構わなかった事もあり、次第に葡萄畑は朽ち果てるようになって行き、何時の間にか雑木の生い茂る荒れ山になってしまったのです。


 政界に進出した事はお父さんにとって痛し痒しだったのか、息子のした事をその儘にしてあげたかったのか、それとも只々葡萄作りを反対していたのか、結果的には荒れ放題になり、突然国会議員に成ったのですから仕方なかったのでしょうね。

 相沢さん、長々とお話させて頂きましたが、 お解り頂いて居られるでしょうか?」

「ええ、よく解ります。でもこの話は葡萄泥棒と思っていた少年と、野際作之助さんとの因果関係と言う事ではないのでしょうか?

今双方の話をお聞きしていて、繋がる何かが在るのだろうと考えながらお聞きしていました。」

「まさにそう言う事で。ではこれから真髄に成る部分をお話し致します。


 誠一さんが可也大きく成られた時に、あれは成人式を迎えられたずっと後でした。二十二歳くらいでしたか・・・お父さんの作之助さんが病で倒れられ、長い闘病生活を虐げられていた時の事です。

 其れでいよいよ危ないと担当医から言われ、その時に私と息子の誠一氏をベッドの隅に呼び寄せ、作之助さんがとんでもない事を言い始めたのです。

病室は個室だったから作之助さんの言われる事は私と誠一さんだけしか知らない事で、二人で目を見合わせながらその話を聞かせて貰ったのです。


 それは葡萄泥棒の話でした。

少年が葡萄畑に入って葡萄を取っていたと思い、その少年を追い掛けて大和川まで、更に追い掛けて石を何度も投げ続けたと言う話をされたのです。

私は直ぐにその話を思い出しました。何故ならその頃作之助さんが初めて出来た子を亡くしていたからです。


「あんたあの頃そんな事言っていたなぁ。其れで、葡萄泥棒に遭い

『これであの泥棒は二度と来なくなるだろう』と息巻くように言っていたなぁ。

それがどうしたのかな?」

その様に言うと作之助さんが、


「だから私はこれで二度とあの少年は葡萄畑に来ないだろうとあの時は思ったが、それから私の葡萄畑のすぐ側の葦の生い茂った河原で、子供が死んでいた事が判り、そしてその子が釣竿を握りしめていた事も判り、釣具屋のおばあさんが心を痛めて言っている記事も読み、もしかしてと考えたのです。」

「其れはあんたがその少年に石を投げて追いかけ、それが原因ではないかと?」

「そう、あの時犯罪心理学の元刑事が、少年が持っていたのは、とても大事に思っていた釣竿であったと、それに少年は野良犬とか何かに脅えて、あの様に追い詰められたのではないかと、そして石に頭をぶつけて気を失い、その事が原因で亡くなる羽目に成ったと。


 私は自分の子が訳の分からない病魔に侵されていて、少年の事を気に成りながら、それどころでなかった。

 何しろ自分の子がどう成るか判らなかったから毎日病院で暮らしていたようなもので、つい新聞を読む機会が多くなり、少年の記事は毎日神経質に目を通していて、それから自分の子供が死んでしまい、そのあと同じくして少年も白骨化した死体であの葦原で発見され、それから今この日まで辛い毎日と戦って来たのです。


 白井君にも後援会長としてお世話に成ってきて、誠一にもこんな話をしなければならなく成って誠に申し訳ないと思っている。

 もし私が投げた石が少年に当たっていたなら、それが原因であの少年は短い命を終わらせてしまったかと思うと、何度警察にあの日の事を話そうと思ったか、それでも話せなかった。

自分が選挙に出ていつの間にか先生と言われる様に成り、少年の事を自ら忘れようと努力さえしていて、


でも自分の死んだ子は三回忌や七回忌などの法事を執り行うと、その子も不憫に思えてきて同じように思い出していたな。

それで東京で耳にしたある方法で、苦しい思いを少しでも和らげる事は出来ないかと思うようになり、NPOの医療関係に寄付を始めるように成りました。

せめてその様にしないと私は生きて居てはいけないと思うように成り、議員として頂く報酬の出来るだけ多くを、毎月匿名で寄付させて貰っていました。


勿論NPOの方にはあまりにも金額が多い時があり、出処が悪いといけないと言うことで、実名を申しておりましたが、あくまで匿名でと言う事で、外部には絶対出さないと言う条件で続けさせて貰っていました。

 この事は今始めて話す事で家内も知りません。

今日こうして話させて貰ったのは、私の命は遠からず終わると思うからで、長年後援会長を務めて下さった白井君にだけは真実を聞いて頂きたくて、それに誠一も出来れば父さんの遺志を継いで貰えないかと絶ってのお願いと思い、話させて貰った。


 誠一が同じ道を引き継いでくれるかは判らないけど、白井君が道を付けて下されば、何とかなるように思うから、でも白井君が私の過去に拘れば、それも不可能かも知れないな。ただ誠一はこれからも許される範囲で、NPOの方に、これ迄と同じ様に寄付を続けて貰いたい。父さんからのお願いだから・・・田地を売ってもいいから」

「作之助さん、あんたそんな事をしていたなんて誰も知らなかったなぁ。あんたが少年を殺したかも知れないと思い込んでいるんだな?苦しい人生だったな」


「そうかも知れないと常に思って生きてきた。

それに誠一の兄が訳の判らない病気に成ったのもその子が私に成した罰でなかったのかと思っている。 だから自分の子が法要で思い出すのなら、その少年も思い出さないといけないと思う様になり、それで寄付を始めたら、少しばかりは気が楽に成り落ち着くように成って・・・でも辛かったし苦しかった・・・」「そうか・・・まさかねぇ」

「父さん僕政治家に成れるか判らないけど、何に成るにせよ父さんの気持ちを大事にするから安心して、その少年を実際父さんが何かをしたのか誰も判らないと思うけど、でも父さんがその様に思っているならそれでいいじゃない。父さんは十分反省しているじゃない、苦しんで苦しんで誰よりも辛い人生を歩んで来たじゃない。解ったよ父さん、僕NPOにこれからも送り続けるから。だから

約束するよ」


「誠一ありがとう。すまないね。父さん向こうの世界に行ったらあの少年を探して謝るから」

「わかったよ。父さん、もういいから・・・」

 こんな会話を交わしてそれから何年か後に作之助さんは、入退院を繰り返し議員のままで亡くなられたのです。

それから私が取り持って、誠一さんはお父さんの地盤を引き継ぎ、新党凌駕から立候補され、見事全国で最年少で当選され、お父さんの後を一度の落選する事なく受け継いだのです。


私はその後は引きましたが、それから何期もの間議員として活躍され、幾度も疑惑を掛けられましたが、それでもめげず怯む事もなく、お父さんのご遺志に逆らう事もなく、寧ろお父さんの時よりまだ金額を増やして、更に多くの寄付を続けられたのです。時折電話を頂いていて、そのことはわかっています。

この事実を知っているのは今や私だけとなり、誠一さんは見事にお父さんのご遺志を継がれたのです。

作之助さんの思い過ごしであったかも知れない事ですが、お父さんは自分の子もその時亡くなっていた事から悲観的になり、少年の命を奪ったものと思い込んだと思われます。


 あの時警察に少年の事でと言えばはっきりしたと思われますが、それは私も彼が亡くなる間近に言いましたが、その時は自分の子の事で一杯であったと、更にその前にも葡萄泥棒に遭っていた事で気が立っていたとも言っていました。


 それで何故相沢さん貴方にこの話をさせて頂いたかとなるのですが、今やあの雑誌が出てから奈良北地区は大騒ぎですね。 勿論全国の有権者は野際誠一さんの事で良かれ悪かれ話に弾んでいたと思います。 


 新党凌駕の関係者も、もしかして日参して来ているかも知れません。誠一さんの元後援会長からも相談を受けた事も事実です。是が非でも聡さんを

 国会にと。

それとあの国政新報の記事に聡さんが書かれていた記事を読んでいて『この人も事実を知れば苦しまなければならないだろうな』と咄嗟に思えたのです。


 この人がお爺さんの真実を知り、お父さん同様に苦しむ運命になど成ってはいけないと思い、それで万が一新党凌駕から聡さんに出馬依頼が掛かれば乗らざるを得ないとなり、親子三代で同じ思いの苦しみが始まるのではないかと思われたのです。


お父さんの誠一さんは暴漢に殺された時、自分で引き金を引いて死んだと書かれていました。

犯人がその様に供述したと、それはお父さんがお爺さんの気持ちを思って、更に河原で亡くなっていた少年を思って、その様にしたのではないかと私は勘ぐりました。

『親父見ていてね。命を差し出して少年に謝まってあげるから。』と

その様に言って、お父さんの顔を思いだしながら、優しい顔で引き金を引いたような気がします。


聡さんは荒れ果てた葡萄の畑を、讃美歌の様な挽歌を聞きながら開墾に励んだと、それは正にお父さんを偲ぶ歌であったと、

聡さんはそれだけを思い、綺麗な気持ちでこれからも葡萄作りに励んで頂きたいと、私は切に思うから貴方にこの思いを託すのです。

聡さんに万が一新党凌駕から何かを言って来ても、心を変えない様に言ってあげて下さい。

そしてどうしても政界に出たいと聡さんが言ったなら、残酷かも知れないが、これまでの話をしてあげて下さい。


 私が居なく成れば貴方だけが知っている事実ですから、聡さんの良きお友達として。

これでお解り頂けたでしょうか?生々しい話で恐縮です。」

「ええ、よく解りました。それに何故私にお話しして下さったかも。」

「私は今にも死んで行く身、作之助さんは決して大往生とは行かず、まだ若かりし頃に亡くなりました。息子の誠一さんもあんな死に方で、ですから野際の親子は決して幸せだったのかはわかりませんが、せめて孫の聡さんは人並みであって貰いたいです。

どうかよろしくお願い致します。


 大和川は今や群を抜くほどの汚い川、段差がある所には洗剤でしょうか泡が出来ますね。

私は思うに人も同じで、長い人生の間に周りが見えなくなる事があるようです。

それは誰しもで、気が付いた頃には既に手遅れと言うか、取り返しがつかなくなっている事も多くあります。

 他人を蹴散らす事をしては必ずしっぺ返しが来るでしょうし、他人に害を与えるものならそれは罪で必ず罰が待っているようですね。

 それは誰でも起こる事で、まさに泡の中に引き込まれる状態なのでしょうね。自分を見失うって事は」


「おっしゃってる意味は良く解ります。

どんな世界でも同じだと思います。私が民政党に嫌気をさしたのも同じ事だったようです。実は昨年の秋に当時総理大臣であった民政党の野村さんから電話を頂き、生意気にも説教染みた事を口にしましたが、でも当たっていたのでしょうね。総裁選には出られなかったから。その時貴方が今言われたような事を言わせて頂きました。

まさに泡の中で居たと、だから総理は電話を切る時『ありがとう』と言って下さり、『一兵卒で一から出直すから』と言ってくれした。総裁選を目の前にしていた時に」


「成るほどね。安心しました。私の見た目に狂いはなかった。では野際さんの事をくれぐれもお願いしておきます。」

「ええ」

「これで安心して向こうの世界に行けるってものです。」

「よくわかりました。責任をもって聡さんを見守って行きます。」



 ❼

固く約束を交わして龍志は白井家を後にした。

雨は相変わらず止む事なく、まさに骨休みの一日が続いていた。

それでも白井俊太郎が口にした事は衝撃で、龍志の心をいつまでも動揺させていた 

態々遠回りをして若い頃よく行った法隆寺の前の喫茶店に腰を下ろし、物思いに老けながら時間が流れるのを感じていた。


客は龍志の他に居らず観光地だと言っても、この朝からの雨が人々を寄せ付けていなかった。

コーヒーを呑みながら二つの事が龍志の頭を埋め尽くしていた。

その一つは、野際のお爺さんが少年に投げた石がまともに頭を捕え、少年はその場に倒れたが、その事で気を失ってしまい、雨にも叩かれ、体が衰弱して誰にも発見される事なく死んでしまった。

それは言わば野際の爺さんの犯罪で、言わば殺人かも知れないと言う事になる。

もう一方は野際の爺さんには全く関係なく、少年が釣りに行っていて岩場で転んだ時とか、崖から転げ落ちた時とかに頭を打ち、それが原因で打ち所が悪く亡くなってしまったと推測できた。


 そして結論から言えば野際の爺さんが、石を少年目がけて投げ、更に追い詰めるようにして投げ、川に逃げ込んで行った少年の生きている姿を確認する事なく、

『ここまですれば少年は脅え、二度と葡萄を取ったりはしないだろう・・・』と判断した所に、大きな落とし穴があったのかも知れないと思えた。

野際の爺さんはそれからの人生を棒に振った事になり、少年の亡霊と暮らす羽目になったのである。更に爺さんは一粒種の息子にもその負い目を背おわせ、生涯に渡り少年の事を意識させ続けた訳である。

 白井俊太郎氏はその頃の野際の爺さんの事を、まるで泡の中であったと言いたかったようであった。

結婚し子供が出来、親父が反対をしていた葡萄作りもその時になり見事に実ってきて、野際の爺さんは脂が乗っていたのだろうと、だから泥棒を追いかけて蹴散らした事を興奮気味に話していたと、それは言わば周りが見えていなかった。


自分だけの事で一杯であり、少年の事など只々泥棒と思い込んでいたのだと、ところが少年が持っていたのは葡萄を引っ掛けて取る棒ではなく、小遣いで溜めて買った大切な釣竿であった事が新聞に載っていて、健気な少年の心を知った。その釣竿を決して放す事なく、死んでからもしっかり握りしめていた事のその意味も知った。

野際の爺さんは自首を何度も考えたようであったとも言っている。

しかし政治家になり、いつの間にか先生と言われる様に成り、心の中で一方は先生で、一方は犯罪者と相反する気持ちが葛藤していたのである。


 その代償は生涯に渡り途切れる事のない寄付行為であった。それは亡き少年に対する悔やんでも悔やみきれない思いや、その少年の父にも少年を産んだ母にも、少年の先祖にも限りなく悔やみ続けていたのである。

 雨は止む事なく降り続き、それは龍志にとって、少年の涙を思わせ、野際の爺さんの涙にも、誠一さんの涙にも思えていた。


 その時ふと龍志は父信也が言っていた言葉を思い出していた。

龍志はまだ二十歳の頃の事である。

野村健三に惚れ込んでその旨を父に伝えて、その時に話し込んだ事があり、その時父から聞かされた言葉を思い出していた。

「龍志、そんなに惚れ込んだのか大坂の野村健三に、まぁ民政党は小っちゃな党だから夢はあるが、でも主流に成れないと思うよ。国会でも隅で地団駄を踏んでいる程度で消化不良になりはしないかな。


 その点新党凌駕は大したもんだから、政治集団の集まりと父さんは思うよ。勿論与党の国民党が何よりだけど。国民党か新党凌駕に関われば、遣り甲斐があるってものだと思うよ。

あの奈良北地区の野際さんの噂聞いているだろう?」

「いえ俺は何も知らない。」

「そうか、そうだな、お前はまだ若いから関心もなかったからな、野際さんなんてお爺さんの時代から、そりゃ凄い噂が出ていた人だから」

「どんな噂が?」

「例えばな、野際家にひっきりなしにお客が来るわけ。お客と言っても野際さんは鍵も掛けない元百姓の家柄だから往来が激しいわけ。


 それでどこそこの誰ですと名乗って訪ねて来た客が、『今日は法隆寺に初めて行って来て、仏像の見事さに感銘致しました。其れで見慣れた物で珍しくなどないと思われますが、随分お客さんが並んでいて、つい衝撃的にこれを買って来ました。泰法堂の御饅頭で御座います。お口に合われるか判りませんがおひとつ・・・』

 殆どこの様なセリフで誰かが訪問して来るわけ、

それで箱の下には十万円とか多い時は三十万円とか入っているらしいよ。勿論これは噂だけど、野際の爺さんの時代から誠一さんの時代も同じ事が繰り返され、同じ噂がどこからともなく囁かれ、我々庶民はその噂を耳にしてきたわけ。」


「でも父さん、俺が尊敬している野村健三さんはそんな人じゃないと思うよ。もし野村さんがその様な人なら俺そんな人と拘わらないよ。

 野村さんは野際さんの事を言っていたなぁ、狡猾な男だって、野際さんの事を悪い例として挙げていたよ。」

「そうだと思うよ。野際さんはその点では有名だから。そうか・・・龍志が政治に興味を持ったとは・・・

 民政党は新党凌駕の様な事はないな。間違いが無いと思うが、でも日本の役に立つかな?何しろ小さ過ぎるからな。でも気に入ったのなら頑張れば、若い内はそれも善かろうと思うから」

「でもそれが事実なら野際さん饅頭箱の下にある一万円札を抜き取っていたと言う事だね?」

「そう言う事に成るな」

饅頭でも茶菓子でもお酒でも奈良漬けでも、箱の下にお金が忍んでいたら、ある意味醍醐味かも知れないね、力も感じただろうね。」

「これが政治だって思った日もあったと思うよ。

父さんね、確かな話として聞いたのは、野際さんの家に出入りしている業者が、多くの業者から送られてくる品物や直に持ってくる土産物で、返す必要があると判断する危険な物をその業者が処分していたと言うんだ。


 つまり嵌められる可能性があるもの等は、触る事もなく丁重にお返しするって事だな。それを受け取ってしまえば命取りになるからな。

だから信頼の於ける業者に頼んで、その人の責任で品物を返していたようだよ。           『気を使います。』とその業者が口にして判ったようだよ。でもそれは野際さんに及ぶものなど、何も無いから法的には問題無いって事だよ。」

「どこまでも悪いんだね野際さんって」

「だから龍志は政治家を目指すのは結構だけど、それが今は信頼のおける野村健三であっても、何もかも信用なんかするんじゃないよ。善と悪の区別を忘れるようになってはいけないよ。」

「あぁ」

そんな父との会話を思い出していた

 目の前には過ぎし日に父が言っていた饅頭屋の泰法堂が雨の中で静かに佇んでいる。

若かりし頃を思い出しながら龍志は家路についた。



 秋も終盤になり野際果樹園も出し物がなくなってきたころ野際聡から龍志に誘いの電話が掛かってきて、『食事でもしない?』と成り、付き合う事にした。

 その誘いにピンと来たものがあり、龍志が思っていた事が的中する事となった。

「龍志君、君にだけ言っておかないとと思い、今日は無理を言って付き合わせてしまって」

「いいよ、それで何?」

「多分気が付いていると思うけど、新党凌駕の大臣が来て、いや正直選対部長が二度も来て、今度の選挙に出てくれないかと。


それに小暮総理からも電話が掛かって来て」

「つまり選挙に出ようかと思いだしたって事?」

「そうなるかな?私は政治に興味なんか無いけど

でもそれは親父が悪い噂が絶えなかった時の事で、今では時の人って言うか、世間の目は正反対に成っているから」

「そうだね。親父さんのおかげで、今や新党凌駕は一国を牛耳っているのだから、聡さんの言う事は十分判るよ。其れで出る決心をしたの?」

「まさか…大事な果樹園を放り投げてそんな事出来ないし、したくもないけど」

「じゃぁ断れば、はっきりと言えば」

「あぁ、一人に成ったらその様に思っているけど、彼らが押し掛けて来るとつい気がぐらついて、それにこの様に毎日が暇に成ってくる閑散期は、気が変わりそうで・・・収入が無くなるからな」

「そうだね。もっとみかんとか他の物も手を出さないといけないんだろうね。地産地消ではなくなるし薄利かも知れないけど」

「そうだと思うよ。葡萄で上げた利益の蓄えはあるけど、収入としては五分の一に成るからね。」

「それって葡萄で儲け過ぎじゃないの?」

「それは言えるけど、でもお客さんが並ぶから」

「贅沢な悩みなんだね。お父さんのお蔭かも知れないな。」

「つまり私は何をしても親父の顔が見え隠れするようだね。それも致し方ないか・・・」

「それで聡さんはお父さんと同じように寄付を続けるの?」

「それはしないと思っている。でも政治家を目指すなら判らないけど。その様にしたくなると思うから。



「それで新党凌駕の話を誰かに相談したの?例えばお父さんの時代から後援会長をして貰っていた方とか?」

「それはしていないよ。だって龍志君に話したのが始めてだから。」

「そうなの。それなら俺の意見を言わせて貰えば、せっかくここまで来ているのだから勿体ないと思うな。

 滅多に聡さんが政界に未練を感じたりはしないと思うけど。評判高い葡萄も作らなくなるってなると、それこそ一大事だと思うよ。

 

俺は政界は二度と戻りたくないから、はっきり言ってそのように思う。政界で蹲うずくまっているより、土をいじって汗をかく事が、どれだけ意味があるかって思うな。

 誰でもその人の人生があるからごり押しはしないけど、これは単純に俺の考えだから、それに聡さんが万が一政界に向かうと言うなら、今度は俺から聞いて貰いたい事があるから」

「龍志君から?」

「そうだよ、そうなれば言っておかないといけない事があるから。でもそれは今の段階ではまだ早いけど」

「何なのかな?意味深な言い方だね?」

「でも来る日が来たら必ず言わせて貰うから。」

「それって一体何かな?私にとっていい事?」

「それはわからない。おそらく嫌な事だと思う、聞かなければ良かったと思う事だと思う。」

「そうなの?私が知らない事がまだあるんだね。それって父の事だろうな?せっかく父の噂がひっくり返って今や善人の面影を醸し出しているのに、

一体何があるの?」

「いや、お父さんと決めないでくれる。だから今の時点では言いたくないから・・・でも聡さんが政治に興味を持って、新党凌駕から出馬でもするような事になれば、その時ははっきり言わせて貰から」

「そうなんだ。だから龍志君は私が政界に進出する事は良くないと」

「まぁそうだね。それは判らないけど。聡さんが政界に進出してお父さん以上に活躍するかも知れないから。でもこの話は時期尚早って事で止めとこう。」


「解った。私が政界に出るって事は龍志君を苦しませるって事に成るようだね。なんかその様に思えて来たよ。」

「その様に捉えてくれてもいいと思うよ。」

「わかった。何か大きな事が私を取り巻く環境にあるって事だね。善悪はともかく、その様に捉えていれば良いんだね?」

「ええ、その様に考えてくれていいから、だから結論を言うと、聡さんが是が非でも政界に出たいとなればはっきり言うから」

「解りました。龍志君の言っている事を耳の隅に置きながら、今後は彼らと関わるから、それでいいんだろう?」

「思うようにして。」

「怖いね、そんな言い方は」

「でも一回の人生だから悔いの残らない様にだけ」

「なんか葡萄を作っているほど幸せに成れそうだと龍志君は言っているようだね。」

「そう思うよ。だって国政新報に載った記事は、聡さんが将来葡萄畑を、昔の様に荒れ果てさすなんて事書いてないだろう?あの葡萄畑は未来永劫に続く流れだと誰もが思うよ。違う。何故かって挽歌の聞こえる丘だから」

「そうだったね。そう挽歌が聞こえる丘だから、私は死に物狂いであの荒れ地を甦らせたのだったね。」

「そうだよ。だから聡さんは多くのお客さんに美味しい葡萄や果樹を提供する事が使命かも知れないよ。国会へ行っては挽歌は絶対聞く事は出来ないよ。そうだろう?」

「そうだね。わかった。」


「よかった。もし構わなかったなら、「国会なんかに興味を示さないよ」と言って貰えないかなぁ・・・」

「興味なんて全くないけど、新党凌駕の方が来られて、其れに総理までが電話を下さり、だから正直はっきり言って追いつめられるよ。わかるだろう」

「解る。俺も当時野村総理から電話が掛かってきた時は声が震えていて、手も小刻みに震えていたからな」

「龍志君は野村さんの側で何年も働いて居た訳だから、でも私はそんな事全く無いから、だから電話など掛かってくれば大変だから・・・全くの素人じゃない私って」

「そうだね」

「しかも私は父の事を避けていたから、正直新党凌駕の事を快く思った事など無かったから、結構プレッシャーで、あの人たちはそんな事微塵も思っていないから、今は奈良北地区では絶好のチャンスとそれだけだから」


「やっぱりその口ぶりでは聡さんは押されてしまう様に思ってくるな。何時か葡萄の事も頭から消えてしまう日が来るように思えてくるな。」

「私はね、新党凌駕から言われているからと言うより、寧ろ長年父を嫌って来た自分が過去に居たから、それも何十年もの間も、学生時代そして卒業してから東京で暮らしていた時も、帰る家など無いと思い続けていた事も確かだから、

 だから今新党凌駕に言われて、父さんの汚名を挽回されてはと言われたり、これ以上のチャンスは無いと言われたり、お父さんに被せられ続けた汚名を貴方が払拭されるべきだとか、お父さんが受け続けた疑惑も、貴方が書き換える必要があるのではとか、あの人たちは色々手を変え品を変え言って来ているよ。

 でもどれも皆頷ける内容で、それは子供の私でさえ思い続けた事だから、心の中に食い込んでくる内容だよ。辛いね~どうしよう・・・」

「俺は何時の時代を区切って思い浮かべても、近しい親父と子供だったから、聡さんの言っている意味が解り辛いけど、でも少しは解る様な気がする。

 でもそんなお父さんを思う気持ちがあるのなら、俺にはどの様に等言ってはいけないと思うな。聡さんが思うように決めればいいと思うな。


 聡さん、この話はこれで幕を引く事にしようよ。後は聡さんが決めればいい事だと思うよ。親を嫌い続けた気持ちも、今親を思う気持ちも、俺には其れなりに解るから、だから聡さんがこれからの道を自分で判断すれば良いと思う。」

「そうするよ。取り留めのない話で申し訳なかったね。」

「いいよ。よく俺に言ってくれたね。ありがとう。よく考えて」

「あぁ」


 龍志は野際聡と別れてからも彼の胸の内を察し心が重くなる事を感じていた。

 誰でも人生には分岐点があり、その時の判断を誤れば時には躓くこともあり不幸にもなる。しかし思わぬ幸福を掴む事もあり富を築くことさえある。しかしどちらの道を選ぶか等、その時点でどのような環境で生きているかが大いに問題となる。


 それが身の程と言う意味だろう。

選んだ道が正解か不正解かは、どちらも歩む事は出来ないから、決して解る事はないが、えてしてあの大和川の段差のある所のように泡が立っていて、それは言い換えれば、周りが見えなくなって来る、正にその時が分岐点に差し掛かっているのである。

 聡さんが今その時なのかは知らないが、流れから言って、お爺さんの後を追い、お父さんの後を追い、聡さんもまた二人が味わって苦しんで来た道を歩むのではないかと、不吉に思われ懸念されたのである。

 つまりそれは世界中の子供たちには大いに喜ばしい事であるが、また世界の平和に貢献している事も確かであるが、野際一族にとっては試練である意外に他ならない。

 人知れぬ苦しみの連続である。聡さんはまさに今その世界に踏み込もうとしているような気が龍志にはしてならなかった。


聡さんの踏ん切りの悪い心の内を読み取りながら龍志は家路についた。

 しかしその事で龍志が悩む事など全くなく、

元来高校の時から特別扱いであった野際聡を案じても、それは余計な事であった。

 だからその話は以後即売センターで聡と出会っても話す事もなく、お互い軽く頭を下げる程度の毎日であった。特に聡は出品物が無くなった事で、毎日センターに来なくなり、龍志と顔を合わせる事すら疎まばらになっていた。

 ところが淡々とした中で、それは嵐の前の静けさに似て、年末の忙しい時期を迎える緊張感が漂よい始めた時に、龍志の元に一通の黒縁の葉書が舞い込んできた。


【喪中につき年末年始のご挨拶を控えさせていただきます。】

 それは秋の終わりの雨の日に話し込んだ老人、野際のお爺さん作之助の当時の後援会長、白井俊太郎(九十一)が他界した事を知らせる喪中の挨拶状であった。

 龍志は驚くばかりで言葉をなくした。

「あんなに元気だったのに・・・目も耳も何ら悪い事無かったのに、判らないものだな・・・」それだけであったが、何故かお気の毒に思える気持ちと、お爺さんが残して言った言葉を同時に思い出されて、心が急に重く成って来るのを感じた。

 龍志とお爺さんの間に約束事があった。

それは聡さんが政界に引きこまれそうに成った時に、聡さんに亡き聡さんのお爺さんの若かりし時の出来事を言わなければならない事であった。

 それはまさに明日かも知れないと思う状態であった事は言うまでもない。


 聡さんが優柔不断と言うのか、悩んでいる事は確かで、この最近の野際果樹園は殆ど収入が無い事も喫緊の課題と思わざるを得なかった。

 一枚の黒縁の葉書は、一本の線香を挙げさせて貰っただけでは収まらない事を重々承知であった龍志は、とりあえず白井家を訪ねて仏様に手を合わせていた。

「相沢さん 生前父が貴方の名前を口にされ、とにかく早くお会いしたいと諄く言っていました。

 其れであの時お越し頂きましたが、もしや貴方様に何かご無理難題を口にしたのではなかったでしょうか?

 どうしてかと申しますと、父はそれまで随分悩んでいましたが、あの日以来急に明るくなって『これでいつでも死ねるよ聡子さん』なんて、笑いながら口癖のように言っていたのですよ。


 ですから何か悩み事を貴方に押し付けたのではないかと危惧していたのです。

 お野菜を買いに行かせて頂いた時にも、お聞きしようと思いましたが、お忙しくされていて、そんな事は聞けないですし気にしていました。

 でも父も亡くなってしまい、今なら遠慮はいりませんから、ご無理難題を申したのでしたなら、お断り下さってもいいのですよ。」

「いえ、そんな事ありません。ご心配なく」

 結局龍志はそのような言い方しか出来なかったが、心の中で『その様にして下さい』と言いたかった事は確かであった。


 結局写真に成った白井俊太郎さんの顔を拝んだだけで白井家を後にした。

 慌ただしく年末がやって来てとうとう大晦日は片づけに手間取り、除夜の鐘を聞きながらセンターから家路についていた。

 新年は間違いなく寝正月で、くたくたに成った身体がストを起こすように、その様に指図するのであった。

 龍志の妻亜紀もすっかり百姓家の女将さんに成り済まし、色は朝黒く成っただけで他に変わった事等どこにもない。むしろ龍志より彼女の方が水を得たような所があるのは、やはりボランテイアと言う精神がそうさせているのであると龍志には思えた。


 相沢家の誰もが幸せである事を感じている環境であった。

 ところが新年早々気合を込めて神社に詣で、お寺さんにも参り、お墓にも参り覚悟を決めている男が居た。

それは年末の間に決意を固めた野際聡であった。

政界進出をする決意を固めたのである。

 その噂は瞬く間に斑鳩の街の中を駆け巡り、龍志の耳にも入って来たのである。

 その噂で苦しんだのは誰でもない龍志だけであった。 

 その内地方紙に『野際聡氏政界へ、正に弔い合戦か』と活字になって、誰もが驚き誰もが納得し、誰もがそう願った事は言うまでもない。


 やがて二月になり、肌寒い日に龍志は野際聡を訪ねていた。 日に日に聡が政界に進出する事が、具体化される有様が堪らなかったのであった。

 だから心を鬼にしてでも、白井俊太郎と交わした約束を是が非でも守りたかったのである。

 それは野際聡が今後苦しむ事があってはいけないと言う、白井俊太郎の絶っての望みである事を聡に伝えたかった。


 肌寒い畑で聡は葡萄の木の手入れを行っていて

龍志の顔を見るなり驚いたように目を丸くさせ、それから直ぐに笑顔を作って近づいてきた。

鼻から鼻水が垂れていて、如何に寒いかを物語っている状態であった。

「こんな寒い日に頑張っているんだね。其れでやっぱ今度の選挙に出る積りなんだ。」

「いやまだ決めていないよ。新聞にあのような書き方されたけど」

「でも困っているような感じじゃないから、満更でもないようだね」

「もしだよ。もし出ると成ったなら、騒がれるのも宣伝かと思うけど」

「そうだね。」

「でも正直凌駕さんに日参するように、あんなに詰め寄られては私としては・・・」

「新党凌駕に?」

「そう、断り続けるのもどうかなって思うように成ってきている事も確かで、みなさん東京から態々だから、申し訳なくって、決して東京は近くではないから・・・」

「・・・」

「それで何だけど、もし私が政界に出るなら、龍志君が、前に何かを私に言わなければ成らないって言っていただろう、それって何?」

「まぁここでは寒いから俺の車にでも乗って話そうよ。温かいコーヒーも買って来ているから」

「わかった」


二人は舞台を葡萄畑の隅に停めていた龍志の車に移した。

「聡さん、こんな寒い中でいつも仕事をしているんだね。あの立派な葡萄はこうして精魂を込めて頑張っているから出来るんだね。

 それに聡さんが前に雑誌に書いていたように、この地に来ると、あの讃美歌のような挽歌が聞こえるんだね。」

「そう、この近くの畑で母が働いていて、私がまだ小学生のころの事をよく思い出したよ。時たま父も帰ってきて手伝っていたから・・・でもここは荒れ放題で、だから今こんなに成った事は不思議な位だよ。


 父にNPOの方から手紙が来て色んな事を知らされ、誤解が取れ、それでここへ帰って開墾した頃は、がむしゃらだったけど、それでも必死だったな。

 畑の隅にテープを置き、あの挽歌を聞きながら仕事に励んだものだよ。父を思い、母を思い、あんなに嫌っていた父だったのに」

「でもそんな日があったから今があるって訳だね。

よく頑張ったと思うよ。其れに尊敬出来るお父さんを見つける事が出来て良かったじゃない。」

「そうだね、それが一番かも知れないね」

「だから聡さんは政界に向かう事を決めたのかな?」


「決めるかも知れない。葡萄も今まで通り作って行こうと思っている。

 それは嫁とも話をしているから、それに何人もの人が相談に乗ってくれているから、何とかなると思う。但し収入は今迄通りにはいかないと思うけど。」

「ではそこまで話し合っているんだ。」


「一応は。でもはっきりすれば、龍志君に話そうと思っているんだよ。

 其れで意見も聞かせて貰いたいし、だって前に話した時に、私のはっきりしない態度で嫌気がさしたと思うから、だから心が固まるまではと思って」

「じゃぁまだ心が固まっていないんだね?」

「そうだね」

「聡さん、俺が言うべき事は、聡さんが政界に進出を決めた時だと思っていた。

 でもそれは今思えば残酷で、むしろ今が一番よりよいと今思ったよ。それだけ重たい話をしなければならないと俺は思う」


「何なの?龍志君が言いたい事って?前も言っていたね?」

「それを今言うのは本当に間違っていないのか、それも気になっている。」

「だから言ってよ。私の事なら、それも政界に進出するなら、言わなければ成らないって事だろう。

前にも言っていたように?何が私にあるの?其れとも親父に?それとの野際家に?」

「聡さん、はっきり言って、間違いなく政界に進出するの?」

「かも知れない。おそらくかな・・・」

「かもとかおそらくなんて言わないでくれる。はっきり言ってよ。はっきり男らしく言ってよ」

「其れじゃ言うよ。元旦に神様も先祖にもそのように報告をしてきた。」

「つまり出るって事をお願いして来たってわけ?」

「そう」

「だったら出るんだね。政界に進出するんだね。次期選挙で新党凌駕から出るんだね?」


「そう成ると思う。そうしないと親父に悪いと思うから、長年嫌っていた事に対する私の懺悔のようなものだから、そんな理由でもいいからって新党凌駕の代表が言ってくれている。

 どんな理由でも野際の名前が物を言うと言ってくれているから」

「そうなの。其れなら聡さんに言っておかないとね」

「だから言ってよ、龍志君が言いたい事を」

「なら言うよ。」

「もし私の事で龍志君に迷惑を掛けている様なら、それはいけない事、そうだろう?」

「聡さん、君も知っていると思うけど、年末に白井俊太郎さんが亡くなったね。」

「知っている。でも白井のお爺ちゃんの事どうして龍志君が知っているの?」


「それはあの方が国政新報の六月号を見られて、それで聡さんが俺の事を親友と書いてくれたから、それで知ったらしいよ。それに息子さんの奥さんが良く菜園に野菜を買いに来て下さっていて、それで」

「其れで白井さんが何を?俊太郎爺ちゃんが何かを龍志君に言ったの?それで?」

「そうだね。これから重大な事を言うけど、でも聡さんが政界に興味を持たなかったなら、何も言わない。」

「気になるね。一体何?」

「俺としては話したくない事だから、聡さんも『聞きたくないから、墓場まで持って行って』と言って貰いたいけど」


「龍志君、いいから言って、察するにそれは我が野際家の事だと思うから、野際家に圧し掛かった何かと思うから、まさか白井さんが出てくるとは思わなかった。

 それは言い換えればお爺ちゃんも絡んだ事だと思うな。野際家の、それは言うなれば汚点かな、それともとんでもない事が起こっていたのかな?まさか犯罪なんて事ではないのかな?それが時効に成っているとか?あ~ぁ判らない。龍志君言ってよ。今更言えないって事も困るから。どんな試練でも受け留めるから」


「わかった。じゃぁ言うから・・・

実はね、まさか白井さんが暮れに亡くなるなんて事思ってもみなかったよ。だから面喰って、でも聡さんは政界に興味を持ち始めたから、気がせいて、

では言うから、

 去年の秋の雨の日に白井さんから呼ばれて、白井さんのお宅へお邪魔をして、お爺さんと二人だけになり、その時、『この話は私と誠一さんと作之助さんしか知らない事だ』と言う話を聞かされたの。

 どうしてこの俺にその話と思ったけど、それはあの国政新報で聡さんが俺の事を親友と思ってくれている事が書かれていたかららしい。


 だからこの話は万が一聡さんが政界に魅力を持ち、その気に成ったなら言って貰いたいと言われ、つい約束をしてしまったわけ。

まさかこんなに早く亡くなるとも思わなかったから、だから葉書が来てびっくりしたよ。

 それで白井さんが今と成っては、遺言の様に言った言葉を言うよ。話してもいいかな?」

「だってここで聞きたくないって言えないだろう。野際家の跡取りとして」

「でも絶対聞かなければ良かったと思う話だよ。聡さんが俺の事をこれから恨むような話かも知れないよ。」

「そんな内容?」

「かも知れない。」

「やだなー龍志君と仲たがいに成る様な話?」

「かも知れないな。」

「いやそんな事はないよ。だって龍志君私の事思って話してくれるのだろう?身を案じてとか・・・」

「受け止め方だと思うよ。なぁ、止めようよ。政治に興味なんか持たないで果樹園で頑張ろうよ。」


「龍志君、ありがとう。気を遣わせて、

でも私は両親が殺されたと言う稀な運命の男、だからどれだけの試練があっても、生きて行かなければ成らない意味を誰よりも解っているから、

考えてみて、どこに居てる両親が殺された子など、そうだろう?

 まともな家庭じゃないよ、私の家は。

 だから善きにせよ悪しきいにせよ、乗り越えて行かなければいけないと思っているんだ。こんな事いつも思っている事だから、でも今始めて口にした事だけど。

 だから龍志君の事は、今もこれからも善き友達と思っているから、だから何があっても変わらないから、葡萄を作っていようが、政界に進出しようが、だから遠慮なく言って、私がどれだけ傷付く事であっても」


「わかった。これは白井の九十一に成ったお爺さんの、絶ってのお願いとして俺に言った言葉だから、一口に言って聡さんまで、お爺さんやお父さんと同じ思いにさせてはいけないと、それって白井さんの思いやりだと思う。

今となっては遺言に成ってしまったけど、ここで話をするのが一番相応しいかも知れないね。この葡萄畑で・・・この時期に・・・」

「ここで何かが起こったって事?」

「話すよ。聡さんのお爺さんがここで元々野菜や麦を作っていた畑だったようだけど、助成金が出る事でお爺さんは葡萄畑にしたらしいよ。


 それで何とか上手く出来るようになり、親に反対されていたけど、見事な葡萄がなり始めた時、泥棒にやられ被害が出てお爺さんは気が立っていて、丁度その頃赤ちゃんが出来、つまり誠一さんの兄さんが出来たんだね。

 でもそれから一か月も経たない内に、お気の毒にその子は死んでしまったのだけど、それまでお爺さんはそんな病気の子を気遣いながら仕事に励んでいて、ある日の夕方この葡萄畑に来た時、薄暗い中で少年が葡萄の木の下で居たので、てっきりその少年が棒を持っていた事もあり、葡萄泥棒と思い込んで、その子に向かって『泥棒』と大きな声で怒り石を投げ、更に怒鳴りながらその少年を追いかけて、その少年は川沿いの竹藪に逃げ込み、それでもお爺さんはその子に向かって石をまた投げ、しばらく見ていたが『これで二度と葡萄を盗まないだろう』と思い込んで家に帰ったらしい。


 その夜白井のお爺さんに電話を掛けて来て『泥棒で困っている』と、興奮気味に子供の事を一部始終話していたようだよ。

 でも誠一さんのお兄さんは、僅か一か月も生きる事なく死んでしまい、白井さんはそんなお爺さんに掛ける言葉も見当たらず、そっとしていたらしいけど、でもそんな時にとんでもない事が起こったわけ。それは・・・それは・・・言いたくないな~」

「龍志君言ってよ。覚悟は出来ているから」

「そうかな?」

「言って」

「・・・」

「言ってよ」


「お爺さん病院へ通っていた時、何が起こったかと言えば、実は少年が行方知れずに成っていて、大騒ぎに成っていて、それから二か月近くも過ぎてから、大和川の河原でその子は死んでいたんだよ。

 背の高い葦の中で包まれるようにして、それもこの葡萄畑の直ぐ下の方で、ちょうどあの辺だと思う。」

「待って、それでお爺ちゃんが関係しているってわけ?」

「だからその少年が発見されたのは、既に亡くなってから二か月も過ぎていて、半ば白骨化していたらしいよ。

 後頭部に大きな怪我があり、石の欠片が刺さっていて、其れで亡くなったとか、どこかで転んで石に頭をぶつけたとか、只その子は死んでいたにも拘わらず、手に釣竿を握っていて、それも十五センチほどの長さの釣竿を。


 でもそれは釣り道具屋のおばさんの話では、その店で少年に買って貰ったので、元々長さは一メートルある三段繋ぎの釣竿で、それが十五センチになっていたと言う事は、少年が大事にしていた釣竿だったから、死んでも放さなかったのかも知れないと、犯罪心理の刑事のコメントが当時新聞に載っていたらしいよ。

 其れでその少年は何かに脅えるとか、脅されるとか、突飛な事が起こり竹藪に逃げ込み、葦が生い茂った中に身を隠し、それで石に頭をぶつけ気を失い、衰弱して、その後も二か月の間に台風も来ていたらしいから、葦の中に埋もれるようになって死んでいたようだよ。釣竿を放さずに。


 其れで白井さんが言うには、お爺さんが自分の子供さんを亡くされた事で、気が空くんでいたから、この話の事は出来なかったけど、でも後日機会を見て話したようだよ。

 つまりお爺さんが石を投げて、泥棒と思い込み蹴散らした少年は、正にその時の少年であった様だと、でもはっきりは判らないとお爺さんは答えたらしいよ。

 でも自分の子供が死んでしまったのは、この泥棒と思い込んでいた少年に与えられた罰では無かったのかと思う様に成り、何時の間にか少年は、お爺さんが殺してしまったと思うように成ったらしいよ。

 それから折角売れる迄に成った葡萄畑も、少年のことが気になり、心に迷いも生じ、何年間はしたけど上手く行かなく成って、木に病気も発生して、それでその頃農地委員をしていたお父さんの影響で政界に出るように成ったらしいよ。


 聡さんの家族の事だから知っている事や、思い当たる事は幾らでもあると思う。

 でも白井さんが言っていたこの事は、おそらく知らなかったと思う。

 お爺さんは政界に出てから、お金が入って来る事を知り、それと同時に少年が亡くなった現実から逃れられない事も知り、それはお父さんもお爺さんも、聡さんでさえ、多分同じだと思うけど、同じDNAの持ち主だから、嘘は嫌だった筈で、それが辛かったと思う。

 だからいつの間にか自分の子も少年の事も、決して忘れる事など出来なかったので、警察にも何度も行って何もかもを話そうと思ったらしいけど、結局其れも出来ず、その内先生と言われる様に成って、常に心に重みを感じながら生涯を終えたようだよ。


 でもお爺さんは少年の事を思い、それは言わば懺悔だったのか知らないけど、世界中の病気の子供の為に寄付を続けていたようだよ。

 病気の子供、薬のない子供、不自由な子供、NPOの方にお願いして匿名で続けていたようだよ。

 でも、お爺さんはいよいよ病気が思わしくなくなって来て、亡くなる間際に成って、聡さんのお父さんと白井俊太郎爺さんを枕元に呼び、この話をして、それで誠一さんにも寄付を続けて貰いたいと遺言を残して、二年ほど闘病生活の後息を引き取ったらしいよ。


 それで誠一さんがその遺志を継ぎ、殺されるまで寄付を止めなかった。

 言い忘れたけど葡萄畑でお爺さんが見かけた少年は、その近くの大和川で、魚釣りに行く時か帰る時だったらしいよ。

 それは居なく成った日に釣り道具屋のおばさんが、その少年と話をしていたから、後日判った事だけど、手に持っていたのは葡萄を取る棒ではなく、釣り竿であったそうだよ。お爺さんは夕方だったし見間違ったらしいよ。」

「それで聞き辛いのだけど、肝心なのはやはりその少年はお爺ちゃんが投げた石で?」

「それは判らない。お爺さんが最後までその少年を見続けて、何処かから出てくる所を捕まえて、説教でもしていたら判っていたのだけど、持っていたのが釣竿であった事も、葡萄を盗る気など無かった事もはっきりしたと思う。」

「ではお爺ちゃんは石を投げてその子に当たり、その子はそれが原因で亡くなったかも知れないと」

「少なくともお爺さんはその様に捉えていた様だから、長きに渡り寄付を続け、更にお父さんの誠一さんにも同じ事をさせたと思うよ。だから狡い性格ならあり得ない事だと思うよ。」

「でもお爺ちゃんは誰よりも狡い性格だったかも知れないな。血の繋がった人でも・・・

それでその少年の死因をどの様に警察は結論を出したのだろう?」


「事故死だった様だよ。その子は亡くなる迄は岡山で住んでいて、お父さんに連れられて夏休みに斑鳩に転校して来たようだけど、まだ来たばかりで友達も居なくて、でも川があったから、でもそれは大和川だから、向こうで居た頃は吉井川って川だから綺麗で、幼い頃よく遊んだと言っていたようだよ。 汚い大和川であったけど、そこに一人でも遊べる場所があったって事だと思う。それがこの辺りの場所だと思うな。この下で亡くなっていたから。」

「じゃぁお爺ちゃんがやはり、事故死じゃなくって」

「かも知れないね。だから何かを感じて警察にも行こうと思い、それができなくて、二代にも渡って寄付を続けていたと思うよ。


 でも事実はどうあれ、お爺さんはそうしていると気が少しは楽に成ったと思ったそうだよ。その様に白井さんに話していたと。

 言わなかったほど良かったかな?聡さんがどうしても政界に興味を持ったなら、これも事実だから、お父さんもお爺さんも苦しみ、気を使い、今となっては少年は、お爺さんにはっきり言って命を奪われたと誰もが思うね。

 その時に子供だからと少年の立場を考えていたなら、でもその様に思う事も無く葡萄のことばかりが頭にあったから、つまり判断を間違えたから、仕方ないと思うね。」

「爺ちゃん何をしていたのだろう?」


「おそらくその何日か前に泥棒に葡萄を取られ、ご自分の子供さんが生死を彷徨っている時でもあり、判断が狂ったんだろうね。

 白井さんはお爺さんの事を大和川の泡に例えて、自分を見失って居たのではと言っていたね。

 結論から言って白井さんは聡さんに同じ思いの人生を歩んで貰いたく無いから、死ぬ迄にこの事を伝えたかったのだと思うよ。その使者が俺であったと言う事だと思うよ。

 白井さんはお爺さんと竹馬の友とか無二の親友だったと言っていて、その白井さんが聡さんが政界に出れば、苦しまなければならないと思い込んでいたのは、それだけ政界は人を変えるかって事かも知れないね。 

 作之助さんも誠一さんも、白井さんから見て、どの様に見えていたかって事だと思うよ。

 おそらく作之助さんもお父さんも、政界に進出して変貌して行ったと思うな。それは白井さんは口にしなかったけど、心の中で苦しんでいたかも知れないな。



幼馴染が、その息子が、悪い性格に変わって行く姿を見届けていたんだろうね。寄付のことなんか知らなかったから。

 聡さんこの話を聞くまでに思っていた気持ちと今も同じかな?

今でも政界に興味があるのかな?」

「いやぁわからない。まさかこんな話だとは思わなかったから。只々驚いている」

「でも遅かれ早かれ聞かされるとしたら、俺は早く知るべきだと思ったから、今なら自分を見失うまでに判断出来ると思ったから。先生と言われる事もないから・・・


 聡さん前に雑誌に書いていたね。この丘は讃美歌のような綺麗な声で、アフリカの子供たちが、お父さんを偲んで歌っている挽歌が聞こえる丘だと、でも今は全く同じかな?

 しかしお爺さんは少年の声が聞こえたのかも知れないと思うよ。それはお父さんも同じで、切なく悲しい少年の泣き声だったかも知れないと思うよ。

 白井さんはお爺さんと付き合い出してから、何十年もの間無二の親友であったから、その孫には同じ思いをさせたくなかったと切に願っていた筈。 


 一粒種の息子に同じ思いをさせた事で、どれだけ辛かったか、どれだけ息苦しかったか、

たった一つの間違いだったと思う。大人としての責任が欠けていたかも知れないし、身勝手さがあったかも知れないし、僅か二人の親子の人生を変えてしまったのかも知れないね。」

「龍志君よく判ったよ、今夜じっくり今日の話考えてみるから・・・」

「だから知らなかったほど良かっただろう?」

「だからもういいから・・・」

「そうか・・・」

「うん、もういいから・・・」

 聡さんは泣き出した。

 龍志はそれ以上何も言えなかったが、聡の肩に手を当てトントンと叩くように慰めた。

聡はやがて声を出して泣き出し、その涙は滂沱の如く両手の間から抜け出すようにズボンの上に泪が落ちた。


 悔しそうな、辛そうな聡の思いが龍志には十分過ぎる位わかった。

その涙は留まる事のない状態になり、聡の目が乾くまで続いていたように龍志には思えた。

「ごめんな。こんな醜態しゅうたい見せて。」

「いや俺が余計な事を言ったからこんな事に」

「そうじゃないよ。ありがとうな。よく言ってくれたな。何も知らなかったなら私も間違った人生に成っているかも知れないよ。ありがとう。」

「これでいいんだね。これで」

「ああ」

「・・・」

「今夜しっかり考えるから、心配掛けて申し訳なかったなぁ。龍志君を苦しませて」

「いや俺なんかより白井さんは何十年も苦しんだと思うよ。お爺さんと言う竹馬の友を思って」

「そうだね。」

「いやお父さんもそれに誰より聡さんを案じて」

「そうだね。」


 聡にとって晩夏の聞こえる丘はこの瞬間から全く意味の違う丘になった。

 それから二か月近くが過ぎ、三月の終わりの丁度桜の花の頼りがあちこちで聞こえ始めた時、龍志は聡から電話を貰い、もう一度あの丘に至急来てくれないかと言われた。

 葡萄の丘に着くと聡が待っていて、人が変わったように明るい笑顔で迎えてくれた。

「ごめんね。忙しく成って来たのに。」

「どうしたの?何なの?」

「ごめん。龍志君に見て貰おうと思って、実は今日除幕式ってわけじゃないけど、畑の隅に、あれなんだけど」

「あの白い幕が掛かってあるの?」

「そう、とにかく見てほしいから」

「うん」

二人はゆっくり歩きながら白い幕が掛けられたその前に立った。

「これなんだけど」


聡はそのように言ってそっと白い幕を引いた。

その下から銅で作られた二人の子供の銅像が現れた。二人は笑顔で手を繋ぎ、共にまるで明日を見ているような希望に満ちた顔であった。

 龍志にはそのように見えた。そして龍志にはその意味が瞬時にしてわかる事となり、思わず目頭が熱く成って来た事が判った。

「成るほどね・・・こんな立派な物を」

「こんな事でもしてあげようと、あの日から毎日考えていて、それで何とか出来て来たので、昨日の夕方から足元をセメントで固めて、周りにも桜の小苗を植え、きちんと出来たら和尚さんにもお願いしようと思っているんだけど、でもまず龍志君に見て貰いたくて」

「これってもしかしたら、一か月も持たずに死んでしまったお父さんのお兄さんと、其れと河原で死んでいた子供かな?」


「そう、だから事実はどうあれ、二人が手を取り合って、未来に向かって力を合わせて歩んで貰いたくて、彫刻をされている先生にお願いしてこのように成ったんだ。」

「大和川の方を見ているんだね。」

「そうだね。同じような事故が二度と起こらない様にと思って、其れにこの子たちが見守ってくれる事を願って」

「随分高かったのじゃないの?」

「葡萄を売った貯えを全部はたいて」

「全部?」

「仕方ないよ。嫁は怒っているけど、でも真実を知ればわかってくれるから。でも真実は知らないほどいいと思って。

 龍志君、このような形しか出来ないけど、これから末永くこの子たちを守って行こうと思っている。


 世間の人が見ればこれは親父とおふくろと思ってくれるかも知れないし、銅像と言うよりオブジェとして観てくれるかも知れないけど、どのように見て貰ってもいいと思っている。

 でもこれを建てた事で、この葡萄畑は今迄通り、晩夏の聞こえる丘に戻ったように思えてくるんだ。

 あの日、龍志君からとんでもない事を聞かされたから一晩涙が止まらなかった。

 でも嫁に見せられなかったから、『今日は冷えるね』って言って布団を頭から被って寝た事を覚えているよ。

 でもあの日からここへ来ると、少年の苦しむ声が何となく聞こえてくるようで、どれだけ苦しかったか、おそらく気分の性だと思うけど、でもいつも同じ思いになって、あの綺麗な挽歌は何所へやら消えてしまって、それで毎日考えていてこの様な結論に成ったんだ。嫁も子達もこの像に手を合わせてくれると思う。」


「良かったね。誰も聡さんの事は責めないけど、でもこうして立派にしてあげたら、多分少年だって許してくれると思うよ。立派な鎮魂だと思うよ。

 この像の後ろではに二代に渡って寄付を続け、多くの子供たちの命を救い続けた事実があるのだから。そうだろう」

「ありがとう。龍志君にその様に言って貰えて嬉しいよ。安心したよ。

 それともう一つ言いたい事があるんだ。この銅像の前ではっきり言うから」

「何?」


「野際聡は今後一切選挙には出ないって事を誓います。新党凌駕にはっきり政界には興味が無い事を伝えています。この像にも龍志君にも白井の爺ちゃんにも誓います。

 龍志君有難う。私は葡萄や果樹つくりに専念するよ。この丘で汗を流し寒さで鼻水を垂らして、そしてあの挽歌を聞きながらこれからも毎日頑張るよ。」

「そう、ありがとう。これからずっと毎日会えるんだね。センターで毎日会って、話に弾んで助け合って・・・悪かったね。苦しませて・・・でも良かったじゃない。

何も知らないで生きるより、知って懺悔してでも真っ直ぐに生きるほど絶対いいから。

 この子たちのように目が輝いていて、明日を夢見て、そんな人生ほど絶対いいから」


「これからもよろしくご指導ください。」

「何を・・・とんでもない。こちらこそ」

「昨日ね、これを建てていて大和川を見下ろしたら少年が現れてきて、その少年が笑顔で、

「おじさん、おじさんは間違っているよ。僕はね魚を釣りたくて岩の上に上り、そこから勝手に落ちたんだよ。其れで岩に頭をぶつけて…だからお爺さんなんか関係ないから、第一お爺さんなんかその時居なかったから」

 そんな事言ってくれたように思えて、気が落ち着いて・・・でもそれは身勝手な思いなのかな・・・」

「でもそれも正しいかも知れないよ。ただ今となっては調べようが無いから、だからご冥福を祈る以外にないんだろうね。」

「そうするよ。」

「これでお父さんもお爺さんも白井さんだって喜んでくれると思うよ。」

「あぁそうだね。そうあってほしいね」


 龍志は心置きなく詰まっていた何もかもが、消えて行く様に思えながら爽快な気分で聡と別れた。

 数百万円は下らなさそうに思えた銅像であったが、聡の只管な心の内が見えて龍志は嬉しくて堪らなかった。

 白井のお爺さんもさぞ喜んでいる姿が目に映りまた野際誠一氏やその奥さんや祖父も同じ思いである事が目に浮かんできた。

野際家に降りかかった災難は、この日が最後となったように龍志には思えた。

 野際家は聡氏によって穏やかな家族に姿を変えようとしていたが、その野際家を狂わせた男は苦悩の毎日と向かい合っていた。



 それは政治結社「凛」の首謀者木原信光であった。

同志斎藤鉦治は既に逮捕後警察病院で他界し、木原は九年の刑に服し、出所してから一年が過ぎていたある日、野際誠一が長年に渡り、多額の寄付を世界中の子供たちに続けていた事を新聞で知る事となった。

 木原とは同志斎藤鉦治を呷あおり、野際誠一夫妻を拳銃で撃ち殺させた正にその男である。

『野際誠一は賄賂に埋もれた男、悪い噂の絶えない男、こんな男は世の中から排除しなければならない』と

、当時の民政党野村健三に惚れ込んで、早合点した身勝手な解釈と残虐な犯罪であった。

 その裏には木原の悲痛で壮絶な事情があった。

妻が新婚の時にバイクで轢き殺された事実が、この男の生涯に圧し掛かっていた。

 されど思いの募りとは裏腹で、妻を轢き殺した犯人は捕まる事もなく今に至っていて、それは時効と言う言葉で何もかも幕で閉じられたのである。

 木原にはその瞬間をどの様に受け取っていたのかは誰にも判る事はなかったが、木原は獄舎でその時を迎えたのか、それとも娑婆に出てその日を迎えたのか、誰も知る由もなかった。


 只誰もが記憶している事実は、新党凌駕の副代表野際誠一を殺した犯人だと言う事実であった。

 反対に風化した木原の妻の事件など誰一人として知る者は居なく成っていて、警察でさえその事件に触れれば、煩そうな態度で耳をほじくっていたのであった。

 刑を終えた木原は夢遊病者のように毎日を重ねていたが、国政新報で野際誠一の誰も知らなかった姿が世に出て、其れに目を通す事はなかったが、野際誠一のニュースが、テレビ始め新聞各紙を賑わし、週刊誌にも登場するように成り、ついに木原の目にも止まったのである。


 【黒い噂の絶えなかった男、野際誠一が多額の寄付を長年繰り返していた事実が判明。世界の子供たちを病気から救う事に邁進して、匿名で寄付を続けた。

 野際は生前、『政界とは偉くなると蜜が出て蟻が蠢き、その蟻たちは皆貪欲で狡猾で跋扈でもある。そんな連中から吸い上げるのである。』 と口にし、それを寄付していたのである。寄付は父作之助氏時代から続けられ、どの様な手段でかき集めたお金であったのかは兎も角、決して誰にでも出来る行為では無い事を伝えておきたい。その額は数億にも達したようである。人は見掛けによらないものである。】


 木原は何時の間にか身震いしながらその記事に釘付に成っていた。

 そして自分がした事がどれだけ稚拙で浅はかなものであったのか、同志斎藤鉦治に説き続けた持論が、どれだけ愚かであったのか、情けなさが全身に漲みなぎっていた。

『私は今何を思う。こんな私が政治に興味を持った所で何になる。

これっぽっちも力の無い私に一体何が出来る。

妻は、妻は、妻の人生はどうなる?妻を殺した犯人は今どうしている?

民政党はもう私の心から消えた。新党凌駕も興味などない。国民党は野党に屈した。政治家とは一体何者ぞ?

 私の明日は真白である。真っ暗ではない、あくまで真白である。無気力でしかない。疲れた・・・馬の刺繍が入った服を着た犯人を探してこれからも生き続けるのか・・・それももうどうでもいい・・・

 善が何で悪が何かなど私には見分けられない。

警察が善なら早く妻を殺した犯人を探して貰いたい。でもそれさえ出来ない。

 この儘生きて居ても良いのだろうか?罪を償ったからと言っても、また新たに思いがけない大きな罪が私に圧し掛かって来た事は言う迄もない。


 野際誠一の御霊が私に圧し掛かって来ている。

善と言う意味を持った重たい御霊である。

 私など決して妻の元へのこのこと行けるとは思わないが、この儘私は人生を閉じたくなってきた。

生きる意味など何所にもない。死ぬ理由も何所にもない。私の魂は野際誠一に心臓を抉られ、血の流れを止められたように思う。

 民政党が善で新党凌駕が悪であると思った、私の甘く愚かな判断を許して貰いたい。野際誠一が悪であると思い込んだ浅はかさを許して貰いたい。

妻よ、犯人を探せなかった無力さを許して貰いたい

ただ疲れた。凛として生きたかったが・・・

私なりにこの命をもって最大限の裁量に徹したく思う

 木原伸晃、恥ずかしくも無念であるが、今日、この命閉じる事とします。』


 大坂住吉区の安アパートで首を吊って木原は命を絶った。

 龍志がそのニュースを知ったのは、最近新聞を読む事位しかしなくなって、力の衰えをよく口にする様に成った父に言われたからであった。

「いろんな人生があるものだな。この男変わっているなぁ」


「そうだね父さん。でもこの人も辛い人生だったのだろうね。新婚で奥さんが殺され、人間なんてそんなに強くなどないと俺は思うな。だからこの人の様に突然不幸が起こると、誰でも狂うんじゃないの?幾ら羅針盤を持っていても間違った道に進む事もあると思うな」

「だからと言って人の命を奪う事など許されないぞ。」

「それは解る。でもこの人だから潔く首を吊ったと思うな。つまり命の大切さを十分知っていて、百も承知で死んだんだと思うよ。」

「それでも、それにしても野際さんを殺した事は許せないよ」 

「でも父さんだって野際さんの事を決して良く言っていなかったじゃない。 心の底では野際さんが殺された事を知った時、百パーセント気の毒にと思った?百パーセントだよ。違うでしょう?心のどこかでこれで世の中が良くなるとか思ったでしょう?


 俺は少なくとも同級生の両親だったけど、残念ながらその様にも思ったよ。この木原って人も野際さんを嫌って許せなかったのは、何時までも捕まえてくれない轢き逃げ犯を、逮捕出来ない警察に対する当て付けの様なものだったんじゃないかな。

一方で間違いなく悪事を働いている野際誠一を、お縄に出来ない警察に対しても」

「命に変えてでも訴えたかったと言いたいのか龍志は?」

「奥さんの件は遠い昔の事だから、そんな事はないと思うけど、でも人間てあまりにも大きな心の傷は治せないと思うよ。喜びとか嬉しさとかは一瞬に消えるけど、

父さんはそんな風に思わない?」


「つまりこの木原って男は突然振り掛かった奥さんの死で、生涯が狂ってしまったと言う事か?」

「そうだと思う。常にその現実がまず先で、何事に於いてもそこから物事が始まっていたと思う。同じような話が他にもあるよ。」

「他にも?」

「でもそれは言えないけど、ある事はあるよ。」

「そうだな、だから誰でも過去を振り返ったなら、辛かった事や嫌な事を思い出すからな。」

「そう言う事だと思うよ」

「だから野際さんの様にあんな逆転満塁ホームランのような話なんて先ず無いからなぁ。」

「そうだね。」


「龍志、今度父さんにも野際さんのお墓に連れて行って貰えないかな?前にも言っていたように、線香の一本でもあげさせて貰わないと、足腰が動く内に。正直な所この儘では心証が悪いからな」

「そうだね。誰でも自分の生きて来た道には逆らえないし嘘をつけないからね、この木原って男も父さんも俺も間違っていた事は正したいからね。心証を悪くした儘で生きていたくないからね。

 木原は奥さんに対して、父さんは結構悪口を言っていた野際さんに対して、そして俺も野際さん親子に対して、父さんと同じ思いだったから、でもそれがあったから今があると思うよ。


 高校時代は俺野際聡さんとはあまり話もしなったけど、今じゃ無二の仲良しになっているから、其れって木原が首を吊った事と同じで、心に詰まった蟠りを取り除いたからだと思うよ。」

「だから私は野際さんのお墓に行きたい」

「わかった。でもその気持ちだけでいいんじゃない。

何故かと言うとね、聡さん選挙に出る気がないのは、そっとしてほしいからだと思うよ。



 今彼が選挙に出れば間違いなくお父さんの力で通ると思うよ。

 新党凌駕は何所の党よりも脚光を浴びているから、でも彼は選挙には全く興味が無いって言っているから、それに今以上に葡萄を作って行きたいと畑を増やしているから。

 だから今の彼は野際誠一の息子と思いたくないのだろうね。果樹園野際の代表と思いたいのだろうと思う。だから父親とは全く関係ない人間であると、つまりこれまで湧き上がっていた幾度の噂をそれが善であれ悪であれ、全部忘れてしまいたいと考えていると思うよ。何もかもをリセットして野際家の再構築を考えていると思うよ。」

「そうか、わかった。でももし機会があればで良いからお願いしてくれるかな?」

「あぁわかった。」


 龍志は木原伸晃の自殺も結局父信也と話し込んでいると、野際家の秘密に突き当たるように思えて来て、いつまでも話はとんとん拍子には行かなかった。

 そしてこれからの長い人生で、龍志だけが野際家の秘密を心に秘め続ける事になるように思えた。

 野際聡が七回も司法試験に落ちた現実を思うと、その聡が今新たに野際家の秘密を現実のものとして受け留め、思い続けなければならない事が、どんなにか辛い仕打ちであるか龍志には痛いほど解った。

 過日葡萄畑の丘で、聡が涙を一杯流して泣き続けていたのは、それは法曹界に挑戦し続けた聡の只管な懇願と結果として挫折、そして今、法にも触れる殺人と言う行為が、祖父作之助によって成されたかも知れないと言う幻、されど現実、


⓮ 立派な銅像を建てたにも拘わらず、聡は葡萄畑の丘に行く度に、何もかもを思い出しながら息をしなければ成らないだろう。

 それはこれ迄の様な讃美歌ではない。父を偲ぶ挽歌でもない。禍根に過ぎない。


 龍志のその思いは当たっていたのか、聡は即売センターで出会っても然程龍志に近づいて来なく成っていた。避けていたのか、それとも龍志の考え過ぎかは最中ではなかったが、手が空いた時龍志は聡を訪ねて野際果樹園に赴いた。聡は相変わらず葡萄畑で作業をしていて龍志の姿に驚いて、


「いらっしゃい。今日も暇ですね。」と笑顔で口にした。

「それにしても聡さんはよく働きますね。」

「これからだよ。もっと大きくしてもっと沢山葡萄を作らないと採算が合わないから」

「そうだなぁ年中取れる訳じゃないからね。」

「そう、でも頑張るよ。この辺でどこにも負けない様に成って見せるから。それが私に与えられた道だと思うから。そしていつの日かまた親父と同じ様にNPOに寄付を出来ればしたいから、それが最終目標かな」

「そんな事思っているの?」

「だってあの銅像には嘘は付けないだろう。精一杯頑張って頑張って、その様に思っている。」

「聡さん、辛くはないかな?何時までも気にしなければならないことが・・・」

「だって私司法試験を齧かじった男だよ。法律と毎日睨めっこして来た男だよ。

 本当なら野際家は汚名を着せられた中で、生きて行かなければならないかも知れないんだよ。もしかすると殺人事件を起こした一家として、だから絶対忘れてはいけないし、父さんや爺ちゃんの分も頑張らないといけないと思っている。


 其れで何時か死ぬ時が来たなら、この銅像の二人に笑顔で許して貰おうと思っている。それが為にもこれからも突き進んで行こうと思う。」

「聡さんはそんな風に奥深く考えているんだ。この銅像を作った事で吹っ切れたんだね。良かったよ、安心したよ。元気そうだし、最近あまり話もしないから、もしかして悩んでいたりしていないかと気に成っていたから、余計な事を言ったのは俺だから」

「いや違うよ、問題ないから、私にとって許された唯一の道と思っているから、鎮魂に満ちた道と思っているから、それにここは精霊の丘と思うようにしているから。挽歌の聞こえる丘だから。」

「そうか・・・安心したよ。待って、聡さんのその力強くしっかりした声を聞いていると、何故かどこからか聞こえて来るよ、俺にも、

 聡さん、俺にも聞こえて来たよ。 挽歌が、挽歌が聞こえてくるよ、みんな笑っているよ、ほらっ」



  もしもあなたがいなかったなら、

  私たちは笑うことを忘れたでしょう

  もしもあなたがいなかったなら

  私たちは涙で大地を埋め尽くしたでしょう

  ほらっ見てっ

  空には鳥たちが

  湖には魚たちが

  大地には笑顔の子供たちが


  あなたがいたから

  あなたが幸せを運んで来てくれたから

  まるで何もなかったかのように

  私たちは笑っているのです

  ありがとう

  貴方がいたから

  私たちは生きているのです


  いつまでも、いつまでも永久に

  御霊よ、私たちは祈ります。

  天使よ、私たちは歌います。 




        完結



    (この物語はフェクションです。   

     現実の全てとは一切関係ありません)



      作品名  挽歌の聞こえる丘

      作 者  神邑 凌

完結です。

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