07:聖女の儀式
『儀式』とは、聖女に課された試練である。
といっても難しい試験を受けるわけでもなければ、不合格になるわけでもない。
ただ数人の護衛をつけて国の外れにある聖堂に行き、そこで一晩過ごすだけだ。
もちろんその道中には危険もなく、聖堂での一晩だって司祭の話を聞き祈り続けるだけらしい。――母曰く「司祭も一晩中祈ってるわけじゃないし、早々に別室へ行っちゃうのよ。だからあとは……」と言っていた。後は何なのか、尋ねても誤魔化されてしまう――
つまり、試練だの儀式だのと大層なことを言いつつも単なる旅だ。聖堂での一泊だっとや儀式めいたことなど何一つない。
お飾り聖女の試練ごっこ、とでも言えばいいのか。
それでも見習いの聖女が一人前になるための通過儀礼であり、これを無事に終えれば目障りなベールも被らなくて済むのだ、謁見の間だろうと素顔で出られる。
(……でも、そうなったらもうキャスとしては居られなくなる)
自室に戻ったキャスリーンがボフンとベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めて唸るように呟いた。
枕が言葉を吸い込んでくれる。だが悩みまでは吸い込んではくれず、胸の内はいまだ靄が渦巻いたままだ。思考はぐるぐると回るだけで一向に晴れることなく、ナタリアの部屋から自分の部屋までよく移動出来たと言いたいくらいに考えがまとまらない。
いっそ何も聞かなかったふりをしてしまおうか……そんな事すら考えてしまう。
酒場で酒を飲んで酔ってしまえば良かった。そうすれば、話は明日に繰り越されただろうに。まぁ、それだって問題をたった一日先延ばしにしただけにすぎないのだが。
「もうお別れなのね、キャス……」
そう呟き、部屋の片隅に立てかけられたレイピアに視線をやった。
他の騎士達と同じ剣では重さに負けてろくに動けないキャスリーンを見かねて、アルベルトが用意してくれたものだ。柄には綺麗な細工が彫り込まれており、軽くしなやかだが作りはしっかりしていて並の剣にも負けぬ強度がある。
『これなら動き回れるだろう。でも無茶はしてくれるなよ』
そう優しく微笑みながら手渡してくれたアルベルトの姿が脳裏によぎる。彼はレイピアの扱いにも長けていて、剣はおろかナイフもまともに扱ったことのないキャスリーンを鍛え上げてくれた。
おかげで騎士並とはいかずとも、自分の身は自分で守れる程度にはなれた。聖女として育てられ、レイピアどころか剣も扱ったことがなく、せいぜいナイフで果物を剥くしかなかったキャスリーンからしてみれば大きな進歩だ。
だがそれも無駄になる……。そう考え、キャスリーンが再び枕に溜息を吸い込ませた。
儀式を終えれば、今よりもっと多忙になる。
今は謁見の手配をすべて母であるナタリアに任せているが、儀式を終えて一人前の聖女となれば自ら手配をしなくてはならない。いくらお飾りの聖女といえど仕事は他にもあり、それをこなすとなれば騎士業などやっている時間はない。
そもそも、身分を偽って騎士業をすること自体が儀式までという条件である。「その後はちゃんと聖女の仕事をするから!」と、そう必死に訴えて周囲を説得したのだ。
「いつか来るって分かってたけど、その時には晴れやかな気分で聖女の勤めに専念できると思ってたのに……」
聖女としてはおろか騎士としても中途半端。出来たことと言えば聖女の力で彼等に手当てをすることぐらい。それだって応急処置の粋を出ない程度だ。
そうして打ち明けることも出来ず彼等の前から去り、お飾りの聖女になる……。
(騎士になりたいと言い出した時は、もっと事態は好転しているはずだったのに……)
そうキャスリーンが何度目かの溜息を吐いた。
前線で戦う者達の実情を知り、彼等を癒し、そして儀式を迎える時には能力を国民に貢献できるような立派な聖女に……そうなっているはずだった。少なくとも、初めてキャスを名乗った時はそう理想を描いていた。
だが現状はどうだ。思い描いていたものの足元にも及ばない。その不甲斐なさにキャスリーンが唸りつつも枕に顔を押し付けた。
そうして迎えた翌日。
謁見の間にはいつもと同じ顔触れが揃い、これといって緊急性の無い癒しを求めてくる。
薔薇の棘に指を刺されたというヘレナ夫人に始まり、封蝋の際に指先に火傷を負ったという伯爵夫人。果てには名のある貴族の年若い令嬢がおずおずと名乗り出て「最近、髪に枝毛が……」と訴えてくるのだ。ヘイデル伯は今日は右腕が上がらないという。
儀式が迫っているだけでも気分が落ち込んでいるというのに、今日もまたこんな申し出ばかり……。
おかげでキャスリーンの気持ちは晴れることもなく、御座なり程度に片手を振って時間が経つのを待つばかりだ。
だがそんな時間もなんとか乗り越え、今日もまた鐘の音と共に一人また一人と謁見の間を後にする。
その際に王宮の重鎮達が嬉しそうにキャスリーンを見つめてくるのは、もちろん儀式が控えていることを知っているからだ。キャスリーンが溜息を吐きたいのをぐっと堪え、ベールの下で俯いた。
「みんなキャスが居なくなることが嬉しいのね……」
キャスリーンがベールを脱ぎつつポツリと呟く。
思い出すのは部屋を出る際に向けられた視線。嬉しそうに見つめてくる重鎮達に、他の者達もキャスリーンのこれからが楽しみだと口々に話していた。儀式を終え立派な聖女になれば今よりもっと力を振る舞ってくれるだろうと、そんな期待をしているに違いない。
人の気も知らないで……そう恨みがましい気持ちでキャスリーンが溜息を吐いた。脱いだベールをそっと椅子に掛け、次いで部屋の片隅に隠しておいたレイピアを手に取る。
普段ならばベールを脱げば気持ちは晴れ、レイピアに触れれば聖女から少女騎士へと意識が変わっていくのに、今日だけは心の切り替えが上手くいかない。
そんなキャスリーンの胸中を察したのか、普段ならば申し出を読み上げ「これは大変ねぇ」だの「明日が楽しみだわぁ」だのと間延びした声をあげているナタリアが労りの表情を見せている。
そんな母にキャスリーンが心配かけさせまいと固いながらも笑んで返そうとし、次いで彼女の口からでた「頑張りなさい」という言葉に首を傾げた。
「頑張るって儀式を? でも儀式は楽だってお母様が仰ってたじゃない」
「そうよ儀式は楽よ。それに……いえ、これを話すにはまだ早いわね。でもキャスリーン、貴女が頑張るのは儀式じゃない、これから自分の人生を切り開くために頑張るのよ」
「私の人生?」
そんなもの『お飾りの聖女』しか無いではないか。
そうキャスリーンが訴えようとし……聞こえてきた足音に出かけた言葉を飲み込んだ。
誰かが走ってくる。だが仮にもここは王宮の最奥にある謁見の間。聖女が国民に――といっても上流階級の者達だけだが――癒しを与える聖なる場所だ。国内において何より神聖な場所と言える。無暗に入れるものではない。
だが現に足音は近付いており、キャスリーンがいったい誰だと首を傾げ……、
「キャスリーン様! 儀式への同行に俺の部隊から選出しているのはどういうことですか!」
と飛び込んできたアルベルトの姿に紫色の瞳を丸くさせた。
よっぽど急いで駆けつけたのか、彼の藍色の髪は僅かに乱れ、肩を上下させている。信じられないと言いたげな表情で手元の書類を見つめているが、きっと儀式に関する書類なのだろう。
そんなアルベルトに対してキャスリーンは反応することが出来ず、唖然としたまま彼を見つめていた。
レイピアを手に。
聖女の正装を着たまま。
ベールを着けずに……。