07:聖女の門限と優雅な観覧者
宿を出て、ローディス達とも別れてトルステア家へと帰る。
隣を歩くのはアルベルトだ。彼はキャスとして偽っていた時から変わらず、今もこうやって帰路を共にしてくれる。それどころかトルステア家の屋敷の前まで送ってくれるのだ。
かつては王宮の前で分かれ、それすらも騙していると罪悪感を抱いていた。そして同時に、彼の隣を歩けるのはあと僅かと胸を痛めていた。
だけど今は違う。そう考え、キャスリーンが目の前のトルステア家を見上げた。
「アルベルト隊長に家まで送ってもらうの、なんだか恥ずかしくて嬉しいです」
「嬉しい?」
「えぇ、前までは王宮までだったから。あの後、いつも隠れてトルステア家に戻ってたんです。あちこちに抜け穴があって、ばれないように家に帰るのは大変だったんですよ」
懐かしいとキャスリーンが笑う。
つい最近の事なのに、まるで随分と昔のように思える。
そう笑みを零しながら話せば、アルベルトもまた穏やかに笑んで頭を撫でてきた。彼もまた懐かしんでいるのだろう。
次いでアルベルトがポンと頭を一度叩いた。次にくるものは何か、別れの挨拶だ。
「明日はまた午後から来れるんだな」
「はい。謁見が終わったら訓練所に行きます」
「そうか。でもあまり急がなくて良いからな。走って怪我するなよ」
「大丈夫です! 走れば準備運動になりますからね」
あえて以前と同じ言葉を――アルベルトの前ではキャスでしか居られなかった時と同じ言葉を――返せば、彼もそれが分かってか小さく笑みを浮かべた。
そうしてコホンと咳払いをし、周囲を見回し……、
「これは、以前では出来なかったな」
小さく囁き、そっと顔を寄せてきた。
頭を撫でていた手がするりと滑り、優しく頬を押さええてくる。彼の親指がまるで許可を求めるように一度唇に触れた。
キャスリーンの胸が高鳴る。
キスをするのだ。なんて恥ずかしくて心地好いのだろうか。
己の顔が赤くなっているのが分かるが、きっと夜の暗さが隠してくれるだろう。サァと吹き抜ける夜風が涼しく感じるのは、頬に熱を灯しているからだ。だが今はそれすらも心地好い。
そんな甘さに蕩けるように瞳を閉じ、訪れる優しい感触を待つ。彼からのキスを待つこのほんの僅かな時間は、妙にじれったくてそして擽ったい。
だからこそ急かすでもなく、ただじっと瞳を閉じて待つ。
……待つ。
…………待つ。
が、待たせすぎではないだろうか。
おや? とキャスリーンが疑問を抱き、うっすらと目を開けた。
そこには変わらずアルベルトの姿。いつもならキスを終えて目を開ければ微笑む彼の顔があった。嬉しそうでいて照れ臭そうで、氷騎士の異名が溶け落ちてしまいそうなほど暖かな表情をしているのだ。
それが今夜に限っては、青ざめて硬直している。
視線はキャスリーンから逸れ、後方のトルステア家へ。いったい何があったのかとキャスリーンが彼の視線を追った。
いつも通りの我が家だ。廊下と、幾つかの部屋に明かりが点いている。
そんな屋敷の二階に、こちらを向く人影が……。
もちろんナタリアである。
オペラグラスを構え、さながら一流の舞台を観劇中といった優雅さである。だが見ているものはこちら……つまるところ覗きである。
「お、お母様!」
キャスリーンが思わず声を荒らげる。アルベルトに至っては言葉も出ないのか、いまだ硬直状態だ。
なにせキスをしようとしたところ見られたのだ。アルベルトからしてみれば、ナタリアは恋人の母親であり、騎士として仕える先代聖女、なおかつトルステア家婦人……。どれを取っても、アルベルトにとっては頭の上がらない人物である。言わずもがなその性格面でも。
それもナタリアは偶然見かけてしまったと言った様子ではなく、がっつりとこちらを見ている。なにせオペラグラス持参。あれは数日前から張っていたに違いない……。
「お母様ってば……あ、逃げるつもりね! 逃がさないわ!」
「……キャス、ナタリア様にくれぐれも他言禁止と伝えておいてくれ。特に双子には絶対に言わないように!」
「任せてください!」
切羽詰まった色さえ感じられるアルベルトの懇願に、キャスリーンもまたもちろんだと力強く頷いて返した。
別れ際のキス、それを双子に知られたらどうなるか……。
冷やかされ、茶化され、翌日には第四騎士隊周知の事となってしまう。いくら仲間達公認とはいえ、これ以上冷やかされるのは御免だ。それに、下手すればトルステア家に『キス観覧席』が設けられてしまう。
そう考えキャスリーンがトルステア家へと向かおうとするが、その直前ぐいと腕を掴まれた。
「アルベルト隊長?」
どうしました? とキャスリーンが頭上に疑問符を浮かべる。だが問おうとした言葉を飲み込んだのは、彼が強引に腕を引いて抱き寄せてきたからだ。
トンと胸元にぶつかる。次いで彼の腕が腰に回され、きつく抱きしめてきた。
「アルベルト隊長、どうしました?」
突然の抱擁に、抗いこそしないもののキャスリーンが彼を見上げる。
先程までは穏やかに微笑み、そしてナタリアに見られていると知った時は驚愕し青ざめていた彼は、今はじっと真剣な表情でキャスリーンを見つめている。
切れ長の瞳が今は熱く感じ、それどころか瞳の中に焦燥感が見える。
「アルベルト隊長……?」
「キャス、俺は……俺はバクレールから逃げてきたんだ」
「え……?」
アルベルトの言葉に、キャスリーンが息を呑む。
問うように彼を見つめれば、次第にその表情が切なげに歪み始めた。話をしようとしたのか僅かに唇が開かれ、歯痒そうに固く閉じられる。
ついにはキャスリーンの視線に耐えられなくなったのか、まるで逃げるように視線をそらしてしまった。彼らしくない。氷騎士とも第四騎士隊隊長とも、普段穏やかで勇ましいアルベルトとも思えない、酷く弱々しい表情。
キャスリーンの胸の中に一瞬にして不安が湧き上がり、それが口から漏れ出るように「アルベルト隊長」と彼の名を口にした。
「バクレールから逃げてきたって、どういう事ですか?」
「それは……」
苦し気な表情でアルベルトが喋ろうとする。だがまるでそれに被さるように、「キャスリーン、門限の時間よぉー」と高い声が聞こえてきた。
ナタリアの声だ。
名を呼ばれて咄嗟に振り返れば、抱き締めていたアルベルトの腕がゆっくりと放れていった。どことなく惜しむように、小さな溜息が彼の口から洩れる。
キャスリーンが再び彼へと向き直れば、「引き留めてすまなかった」と謝られてしまった。取り繕うように微笑んではいるものの、なんて痛々しい表情だろうか。
「アルベルト隊長、さっきの話……」
「今度ちゃんと話す。……だから、待っていてくれないか」
悲痛とさえ言える声色で紡がれるアルベルトの言葉に、キャスリーンがじっと彼を見つめ……そして頷いて返した。
彼の言葉は耳に残り、胸に湧いた不安は消えそうにない。彼の話を聞き不安が晴れる日まで、胸の内に靄として残り続けるだろう。
だが今のアルベルトに対し、話してくれと迫る事など出来るわけが無い。
彼は待っていてくれと言った。ならば自分がすべきことは彼を信じて待つことだ。
「大丈夫です、私待ってます」
そうはっきりと告げれば、アルベルトの表情に安堵の色が浮かぶ。次いで手を伸ばしてきたのは頭を撫でようとしたからだろう。
だがその手はキャスリーンの金の髪に触れる直前、
「キャスリーン、いい加減にしないと割って入るわよぉー。キャスリーン、それとあと一人ぃー。さっさと娘を返しなさぁーい」
という間延びした声を聞き、慌てて引っ込められた。




