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36:聖堂の壁越しに


 等間隔に設けられたランタンが灯る聖堂の中、司祭の声が淡々と響く。年老いた司祭の声は細く、それでも静まった聖堂の中ならばよく通る。

 聖女としての歴史、力について、これからについて……。

 それを聞くのは、両手を胸元で組み跪き祈りの姿勢を取るキャスリーン。天井の一角に張られたガラスからは月の明りが降り注ぎ、それを一身に受け静かに祈り続け……そして出掛けた欠伸を噛み殺した。


「以上です。後はこの聖堂で己を見つめ一晩を過ごして下さい」

「己を見つめ、ですか」

「はい。けして抜け出さず過ごしてください。」

「誰か抜け出したんですか?」

「ナタリア様です」

「お母様が申し訳ありません。私は大人しくしてますので安心してください」

「話を聞いて下さっただけで有難い限りです。記録の限りでは、話を最後まで聞いた聖女は初代と四代目と……」

「先祖代々申し訳ありません」


 私は大人しく過ごしますので……とキャスリーンが誓うように告げれば、司祭が深く頷いた。

 そうして司祭が役目を終えたと部屋から出ていく。彼はこれから聖堂横にある小屋で一晩を過ごすという。警備と考えれば随分と頼りないが、そもそも今までは警備など考える事も無かったのだ。――そのせいで歴代の聖女が抜け出していたので、別の意味で警備を考える必要があったかもしれないが――

 シンと静まった聖堂の中、一人取り残されたキャスリーンが周囲を見回す。壁に飾られた彫刻と絵画は月明りのもとで見ればより美しさを感じさせ、聖堂の神秘的な空気を色濃くしている。


 厳かな聖堂の中、月明りのもと祈り続ける聖女。


 それが本来あるべき儀式の姿なのだろう。

 なるほど確かに、想像しただけで神秘さを感じさせる。たった一晩過ごすだけだと思っていたが、この一晩ならば聖女の力が高められると言われても信じてしまいそうだ。

 ……もっとも、実際は歴代脱走劇なのだが。


「私は抜け出したりしないでちゃんと一晩過ごすわ。……でもちょっとお腹すいちゃった」


 何か持ってくれば良かったとキャスリーンがぼやき……コンコンと聞こえてきた音に周囲を見回した。いったい何の音か。そう考えている最中に再びコンコンと音が鳴る。

 司祭が戻ってきたのかと思ったが、音がしているのは扉ではない、ただの壁だ。だがその音はいまだ続いており、キャスリーンがふるりと体を震わせた。

 ローディスの言葉がふと思い出される。森の中には、彷徨い亡くなった者の幽霊が出る……そう彼が言っていた。その後自ら嘘だと訂正していたが、幽霊は居ないと誰が実証できる?


「もしかして本当にお化け……? で、でもここは聖堂だし……」


 いまだ続く音に恐怖を覚え、キャスリーンが身を縮こませる。

 コンコン……と、何かを求めるようなノックの音。だが音がしているのは扉ではなく壁だ。なんの変哲もない壁、そこから音が続いている。

 誰かが来ようとしているのか、呼んでいるのか、だが何故扉から来ないのか、そもそも誰なのか……。考えれば考えるほど不安と恐怖が募り、背筋が震える。心なしか寒くなった気がするが、擦った腕が震えているのは寒さからではないだろう。

 音のする壁から少しでもと遠ざかろうと、震える足を引きずる。

 それでも音は続き、コンコン、コンコン、とまるで急かすように続いている。


「やだ……何……なんなの……」


 小声で呟くも返事はない。

 あるのはただひたすらに続く音。単調に鳴っていた音が次第に早まり、今ではもう間を置くことなく続いている。それも、複数の手で叩かれているかのように……。

 次第に大きくなる音にキャスリーンの恐怖が募り、耐え切れないと身を隠すように蹲った。


「アルベルト隊長……!」


 と、脳裏を過ぎる騎士の名を呼びながら。

 その瞬間、


「キャス! 何があった!」


 と、彼の声と共に壁の一角が吹っ飛んだ。

 絵画が飾られた壁、音がしていた場所だ。その一角がまるで切り取られたかのように勢いよく外れ、パラパラと細かな破片が散る。高さを言うならばキャスリーンの胸元程度である。

 そこから顔を覗かせたのはアルベルト。狭い隙間からは体が通れず、それでも無理に中に入ろうとしている。その背後から「貴方は無理ですよ!」「詰まりますって!」と聞こえてくる声は双子のものだ。

 キャスリーンがキョトンと瞳を丸くさせ、それでもふらふらと彼のもとへと近寄った。恐怖で足の力が抜けかけたが、今は今で驚愕して力が抜けかけている。


「アルベルト……隊長……? どうしてそこに?」


 ベールを捲り座り込んで覗けば、通り抜けようとしていたアルベルトが体勢を戻す。

 その横からひょいと顔を覗かせたのは双子だ。暢気に手を振っているが、キャスリーンには疑問が更に一つ増えたに過ぎない。


「どうして? この隙間はなに?」

「ナタリア様が双子に教えたらしい。驚いたよ、宿で待ってたら突然『キャスに会いに行こう』って連れ出されたんだ」

「お母様が……。なるほど、代々ここから抜け出してたのね」


 思わぬところで脱出口を知り、キャスリーンが伺うように抜け穴を眺めた。

 壁の一角が外れるようになっているのだ。歴代の聖女達はここから抜け出し好き勝手に過ごし、明け方に戻ってきていたのだろう。


「キャス、お前も出るか?」

「いえ、私はここに居ます。ここでちゃんと聖女として一晩過ごします」


 キャスリーンが首を振って返せば、アルベルトが苦笑と共に頷いて返した。

 その隙間からポンポンと聖堂内に放り込まれるのは紙の包み。キャスリーンがいったいなんだと拾って中を開けば、パンとドライフルーツが入っていた。別の包みには菓子。飲み物もある。

 双子からの差し入れだ。さり気なくチーズが入っているあたりが彼等らしいが、お腹が空いたとぼやいていたキャスリーンには有難いことこのうえない。


「抜け出しても食べに行ったりは出来ないだろうと思って買ってきたんだ。それじゃロイ、俺達は宿に戻ろうぜ」

「隊長のことは上手く誤魔化しておきますから、キャスのことを頼みましたよ。あ、次の聖女様のために壁はちゃんと直しておいてくださいね」


 それじゃ、と二人が手を振って去っていく。

 生憎と聖堂内にいるキャスリーンには彼等を最後まで見届けることは出来ず、すぐさま見えなくなる双子に感謝と就寝の挨拶を告げる。アルベルトが彼等の去っていった先を見つめ、しばらくするとその背が見えなくなったのかキャスリーンへと向き直った。


「そっちはどうなってるんですか?」

「こっちは足場があるぐらいで他には何もない。座るとちょうどいいかもしれないな」


 そう告げて壁の向こうでアルベルトが動く。しばらく待てば再び彼が覗き込んできた。

 キャスリーンもまた向かい合うように腰を下ろす。だが小柄なキャスリーンには壁の穴は高く、膝立ちで背を伸ばしてようやくだ。ふちに手を掛けて覗けば、アルベルトが無理をするなと手を伸ばしてきた。

 ポンと頭を軽く叩かれる。きっと座るよう促したいのだろう。数度撫でられた後にキャスリーンが大人しくその場に腰を下ろす。見上げれば、ギリギリ彼の髪が揺れるのが見えた。だが髪だけだ。

 そこに居るのが分かっているのに姿が見えない。そのもどかしさに、キャスリーンが焦れるように腰を上げる。


「私、立ってます」

「一晩だぞ、座ってろ。ちゃんとここに居るから」

「でも……」

「一晩中いる。ずっと離れない。約束する」


 だから、と念を押すようにアルベルトに告げられ、キャスリーンがポスンと座り直した。

 彼の言葉は穏やかで深く、落ち着きを感じさせる。壁を隔てているというのにまるで耳元で優しく囁かれているかのようだ。

 キャスリーンの胸が高鳴り、頬が熱を持ち始める。見られていないと分かっていても、明りがランタンと月明りのみだと分かっていても、己の赤くなった顔を見られてしまう気がしてそっとベールを下ろした。


 だが壁の向こうに居るアルベルトはそんなキャスリーンの動きに気付いていないのか、もぞもぞと動いている。彼の髪が再び揺れ、壁越しにトンと何かがぶつかるのが分かった。見えないならと壁に背を預けて座ったのだろうか、椅子もクッションも無いのだ、一晩を過ごすなら楽な体勢を取らなければ体を痛めてしまう。

 ならばとキャスリーンも彼に倣い壁に背を預けるように座り直した。彼の姿も外の景色も見えなくなるが、壁越しに背を合わせているのだと考えれば安堵が湧く。それに、たとえ見えなくても目を瞑ればアルベルトの姿は容易に思い描ける。

 壁に背を預け、吹き抜ける風に心地よさそうに藍色の髪を揺らす彼の姿。キャスリーンが名前を呼べばこちらを向き、穏やかに笑ってくれる。


「……あの、アルベルト隊長」

「ん?」

「ずっとそこに居てくれますか?」

「あぁ、一晩中いる」

「……ずっとそばに居てくれますか。ずっと、私の……」


 私のそばに、居てくれますか?


 そう震える声でキャスリーンが尋ねる。

 壁越しにアルベルトが小さく息を呑んだのが分かる。だが今彼がどんな表情をしているのかが分からず、キャスリーンが胸元をぎゅうと握りしめた。聖女としての正装、布をふんだんに使った厳かな服。重苦しく動きにくいと、堅苦しくて息が詰まると感じていた。

 だが今はこの正装を纏うことが誇らしい。だからこそ、この正装を纏いキャスリーンとして彼に問いたい。


「キャスとしてだけじゃなくて、キャスリーンとしても、アルベルト隊長のそばに居たいんです。私、アルベルト隊長のことが……!」


 言いかけ、キャスリーンがポンと頭を叩かれて目を丸くさせた。

 アルベルトの手が壁の穴から伸び、キャスリーンの頭をポンポンと叩いている。まるで制止されているようで、キャスリーンが背を伸ばして穴を覗き込んだ。

 アルベルトと目が合う。彼の瞳にキャスリーンの心臓が跳ね上がった。氷騎士と言われる所以の一つである瞳、だが今は溶かされそうなほどの熱を感じる。


「アルベルト隊長、私……」

「頼む、待ってくれ。俺に言わせてくれ」

「隊長が?」


 キャスリーンが問うように見つめれば、アルベルトが再び手を伸ばして頬を撫でてきた。

 包まれるように優しく触れられ、キャスリーンの胸が高鳴る。大きく暖かな手。これ以上喋らないようにと制しているのか、親指がキャスリーンの唇に触れる。

 彼の指がゆっくりと唇をなぞる。擽るように、その形を確認するかのように。その動きにキャスリーンの胸がより鼓動を早めていく。


「キャスでもキャスリーンでも俺には変わらない。ずっとお前のそばに居る。離れないと誓う。だから……」


 言いかけ、アルベルトが瞳を細めて顔を寄せてきた。

 頬を包んでいた彼の手が身を寄せるようにと促してくる。その動きに、じょじょに細められる彼の瞳に、キャスリーンが小さく肩を震わせた。

 自分の心音が耳に響く。静かな聖堂に響いてしまわないか、そんな心配が胸に湧く。


「キャス、お前が好きだ。俺のそばにいてくれ」


 告げられる言葉に、キャスリーンが「はい」と小さく答えると共に瞳を閉じた。

 閉じた視界で、何かが近付くのが分かる。唇が柔らかなものに触れる。温かく、そして胸を高鳴らせる感触。

 痺れるようなその甘さがそっと離れていき、キャスリーンがゆっくりと瞳を開けた。

 アルベルトがこちらを見つめている。彼は穏やかに笑い、今度は「キャスリーン」と呼んできた。


「キャスリーン、貴女が好きだ。どうか俺のそばにいてくれ」


 名前を言い換えたその言葉に、キャスリーンが再び「はい」と答える。今度は少し笑いながら。もちろん瞳を閉じて。

 そうして再び贈られる暖かな口付けに、キャスリーンが酔いしれるよう頬に触れる彼の手に己の手を添えた。





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