30:頬に触れる手
小柄で、今まで碌に剣を扱ったことのなかった少女。
本人は騎士としてやる気に満ちており、支給された剣を手に――それも時折は剣の重みに負けてふらつきながら――あっちこっちと走り回る。
騎士隊長として、上官として、預かった身として、いやむしろ最早そんなもの関係なく、彼女が怪我をしないか無理をしないかと気が気ではない。
おかげで戦場でも訓練中でも私生活でも、アルベルトは「キャス、危ないぞ無理はするな」「キャス、どこに行くんだ遠くに行くなよ」と小柄な少女の名を呼んでは後を着いて回るようになった。
その姿は氷騎士の異名とは程遠い。戦場でいかに冷静沈着に戦っても、敵味方問わず周囲に寒気を覚えさせる強さを見せても、ひとたびキャスの声を聞くと「どうしたキャス、何があった!」と駆けつけてしまうのだ。――「ちゃんと倒すべき相手は倒しているからな」というのはアルベルトのせめてもの言い分――
そんな姿を見続け、周囲は次第にアルベルトへの印象を変えていった。
キャスが直ぐに周囲に打ち解けたのも影響していただろう。なにせキャスの傍には必ずアルベルトが居て、キャスを囲めば自然と彼も輪に入るのだ。
雑談の最中にキャスから「ねぇアルベルト隊長」と話しかけられればアルベルトも会話に加わり、そしていつしか周囲は恐れることなくアルベルトに接し、そしてキャスを介することなく話しかけてくるようになっていた。
「最初に俺に……キャスを介さず俺だけに声をかけてきてくれたのは双子だ。あれは、俺がキャスの武器について悩んでいた時だ」
「私の?」
アルベルトの話を聞き、キャスリーンがソファーに立てかけていた己の武器に視線をやった。
細身のレイピア。柄には掘り込みがされており、武器としても造りが良く飾りとしても遜色ない美しい一品だ。
騎士に支給される県は重くて上手く使いこなせずにいたキャスリーンに、アルベルトがこれならどうかと持ってきてくれた。
「もっと刀身を短くするべきか、それとも剣じゃなく軽いものの方が良いかと探してたんだ。その時に双子がレイピアはどうかと声を掛けてくれた」
『アルベルト隊長、キャスに持たせるならレイピアが良いんじゃないですか? 小さいキャスがレイピア持ってたら面白いし』
『そうそう、小さいキャスがチョコマカ動いてレイピアでツンツン敵を突っつくなんて最高じゃないですか』
「……そう言ってたな」
「双子めぇ……!」
「あいつらもキャスのことを案じて色々と考えてたんだ。まぁ、照れ隠しなのか本人には言わないでくれって口止めされたけどな」
素直じゃない、とアルベルトが笑う。
当時レイピアを提案されたアルベルトは、これは良いと早速キャスに話をしようとし……そして『自分達の提案とは言わないでください』と双子に口止めされたのだという。
いったい何故かと問えば、帰ってきたのは『アメとムチ』という言葉。
これにはアルベルトも目を丸くさせてしまった。もっとも、今では「あいつららしい」と笑うだけだが。
『子供を育てるには甘やかすだけじゃなく厳しく接しなきゃダメなんですよ。騎士を育てるにも、優しい上官と厳しい先輩、このバランスが大事です!』
『いや、お前達は厳しいというか単にキャスを揶揄ってるだけじゃ……』
『とにかく! キャスは俺達の仲間、第四騎士隊の一人! 俺達みんなでキャスを育てるんです。なぁロイ!』
『そうですよ。キャスは第四騎士隊の一人! ……もちろん、アルベルト隊長、あなたもね』
そう告げて双子が顔を見合わせて笑う。予想しない事を言われて唖然とするアルベルトの反応を、してやったりと楽しむような笑みだ。
あの時のこと、彼等の表情、告げられた言葉……。まだ鮮明に覚えている。そうアルベルトが話し終え、最後にポンとキャスリーンの頭を軽く叩いた。
「それからは俺もキャスを通さずに周囲と打ち解けるように励んだ。さすがに最初はキャスを介したり口実にも使ったが……それでも、俺なりにみんなと接っするようにしたんだ」
「そうだったんですね……」
「本当は俺も、仲間と馬鹿やって騒ぐのに憧れていたんだ。だけど氷騎士と恐れられ、どうしようもないと諦めていた。そんな俺に切り開くチャンスをくれたのは、他でもない、キャスだ」
藍色の瞳がジッと見つめてくる。
彼の話に、告げられる言葉に、真っすぐなその眼差しに。キャスリーンが見つめ返しながら彼の名を呼んだ。
大事にしてもらっているとは思っていた、可愛がられているとは分かっていた。だけどここまで思われていたなんて……。
そうキャスリーンが心の中で呟き、徐々に熱を宿していく胸元をぎゅっと押さえた。手の震えは既に収まった。だけど今度は鼓動が落ち着きを失ってしまった。
「キャス、俺はキャスを立派な騎士だと思っている。小柄でも臆することなく闘い、仲間が怪我をすれば必ず駆けつける。大事な仲間だ。未熟なんて思わない。皆だってそうだ、怪我をすればキャスを呼ぶ。頼っているからだ」
「でも……」
「ローディスが傷が治っているのにキャスに『いつものおまじないを』と頼んだだろ。キャスが手当てをしてくれる、自分のために無事を祈ってくれる、それが嬉しいんだ」
「だけど、それだって気休め程度です。立派な聖女だったら、もっと有効的に力を使えていたかもしれない……」
「それでも、俺はキャスリーンも立派だと思う。自分の役割を考え、そのうえで道を切り開こうとした。聖女としての責任や期待は相当だろう、それを背負って儀式を迎えようとしている。強くないと出来ないことだ」
「私、強くなんか……。聖女としてだって、いつもごっこ遊びみたいな事しかしてませんし……」
「ナタリア様から聞いたんだが、みんな小さな理由を着けて謁見を申し込んできたんだろう。俺はそれがキャスリーンに会いたいからだと思う。大事だから会いたいんだ、大事だからキャスリーンの願いを叶えようとしてくれた。キャス、お前がいることこそキャスリーンが周囲に大事に想われている証だ」
頭を撫でていたアルベルトの手がゆっくりと金の髪を滑り、キャスリーンの頬に触れる。
包むように撫で指先で目尻を撫でられ、そこで始めてキャスリーンは自分の頬に涙が伝っていることに気付いた。ゆっくりと息を吐けば、それに合わせて大粒の涙が頬を伝う。
未熟だと半人前だと、そうキャスリーンとしてもキャスとしても己を蔑んでいた。
だけど第四騎士隊の皆はキャスを一人の仲間として共に戦い頼ってくれた。怪我をすると一番に呼んで、手当をしてくれと頼んでくれた。
聖女としてだってそうだ。どれもこれも軽い申し出だと考えていたが、その申し出だって手間が掛かる。それでもみな足繁く通ってくれていた。力を使うと感謝してくれていた。
アルベルトの言う通りだ。本当に聖女として囲われていたのなら、騎士として生活など許されるわけがない。たとえ偽りの身分だとしても、それは周囲が『キャスリーンのために』と用意してくれたものなのだ。
キャスリーンもキャスも、大事に想われていた。
未熟だ半人前だと決めつけて、自分だけが見ていなかった。自分だけが自分を嫌いでいた。
「私……自分のことばっかりでまわりが見えてなかった……」
「みんな同じだ。余裕が出来たら周りを見ればいい。もう大丈夫だろう?」
「……はい。私、もう大丈夫です。ちゃんと周りを見て、ちゃんと気付いて……キャスリーンとしてキャスのことを、キャスとしてキャスリーンのことを好きになれます」
潤んだ瞳でキャスリーンが微笑んで告げれば、アルベルトもまた柔らかく笑って頷いた。
次いで再び彼の手が優しく目尻を撫でてくる。
今更ながらに泣いてしまったことが恥ずかしく、キャスリーンが照れ隠しに笑う。「泣いたことを双子には言わないでくださいね」と告げれば、彼の笑みがどことなく意地悪なものになり「さぁどうかな」と返されてしまった。
次いでアルベルトがゆっくりと瞳を細め「キャス」と深い声で呼んできた。彼の瞳が一瞬だが揺らいだ気がして、キャスリーンが先を促すように見つめ返す。
「みんなお前を大事に想ってる。……それでも、もしどうしても逃げたいことがあるのなら、例えば聖女としての義務で……でも、逃げたいと思うことがあったなら……」
「……アルベルト隊長?」
普段の彼らしくなく言い淀みつつ話すアルベルトを、キャスリーンがじっと見つめる。
涙で視界はぼやけているが彼の藍色の髪は分かる。心なしか、頬に触れている彼の手がピクリと揺れた気がした。
(聖女としての義務……。それって結婚のこと……?)
もしかして、と浮かんだ考えにキャスリーンが小さく息を呑む。
だが自ら確認することは躊躇われ、じっとアルベルトを見つめて続く言葉を待った。頬が熱い、これは自分の頬が熱を持っているのか、それとも彼の手が熱いのか……。
その熱が心臓にまで到達したのか、キャスリーンの胸が熱を宿したように鼓動を早めだした。アルベルトが何かを発しようとする、彼の唇の動きが今は妙に遅く見える。
「……それでも逃げだしたい時は俺に言ってくれ。キャスもキャスリーンも、必ず俺が救ってみせる」
「アルベルト隊長……」
告げられた言葉にキャスリーンの胸が高鳴る。
浮かされるように彼の名前を口にすれば、頬を撫でていた手が再び頭に戻ってきた。
ポンポンと数度叩かれる。
潤んでいた視界も多少は戻り、彼の頬が僅かに赤くなっているのが見えた。
「危ないから窓から飛ぶなんて無茶はするなよ。俺が窓から迎えに行くから、大人しく待っててくれ」
そう冗談交じりに告げてくるのは照れ隠しだろうか。彼の頬が赤くなっているのを見て、キャスリーンの胸が更に鼓動を早めた。
先程までは己の不甲斐なさを痛感し苦しさを訴え、アルベルトと話すことで落ち着きと和らぎを得て、今は体の中で響きそうなほど強く鼓動を打っている。
(今日はなんて心臓に負担が掛かる日なのかしら……)
思わず場違いなことを考えてしまう。
だがそんなキャスリーンの鼓動に気付くことなくアルベルトが見つめてくる。藍色の瞳に見つめられていると胸がより高鳴り、キャスリーンの頬が更に熱を持つ。
(顔が真っ赤になっていたらどうしよう。ベールがあれば顔を隠せるのに……)
これ以上アルベルトを見つめていられず、せめてとキャスリーンが目を瞑った。
胸が高鳴り顔は熱く、恥ずかしくて彼の視線に耐えられない。それでいて彼から目を離すことも誤魔化すことも出来ないのだ。
これはもう目を瞑るしかない。そうキャスリーンが耐えるように目を瞑れば、頭を撫でていたアルベルトの手がピタと動きを止めた。
いったいどうしたのか、頭上に置かれた手が動かない。だがしばらくするとゆっくりと動き、再びキャスリーンの頬へと触れてきた。
大きく暖かな手が頬を包んでくる。目を瞑ったせいで視界は真っ暗だが、彼の手の動きは肌を伝って分かる。
「……キャス」
と、アルベルトの声が聞こえてくる。
深く優しい声。だがその声がどこか熱を持った吐息のように聞こえるのは、目を瞑っていて彼の表情が見えないからだろうか。今どんな表情をしているのか、困っているのか、微笑んでくれているのか……。
もしも微笑んでくれているなら、それはきっととても穏やかな表情だろう。
そう考えるだけで心音が体の中で木霊する。いつも頭を撫でてくれる手なのに、今だけは妙に意識してしまう。触れている頬が焦げてしまいそうなほど熱い。
「キャス、俺は……」
アルベルトの声は呟くように小さい。
真っ暗な視界ではアルベルトの表情はもちろん彼との距離も分からず、まるで耳元で囁かれているように聞こえキャスリーンの背が小さく震えた。
頬に触れている彼の手がほんの少し動いた気がする。親指がゆっくりと肌を擦り、キャスリーンの唇に触れる。
そうしてアルベルトの指が擽るように唇を一度撫でた。まるで何かを確認するかのように。
その動きにキャスリーンの肩がピクリと震える。まさか、と心臓が今日一番大きく跳ね上がった。
だが次の瞬間……、
「アルベルト隊長! 大変です!」
「キャスリーン様が! 何者かに攫われました!」
そう喚く双子の声と共に壊さんばかりに扉を叩かれ、キャスリーンはもちろんアルベルトも大きく肩を震わせた。




