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28:癒やしの聖女に必要なもの


 用意されていた部屋に飛び込むように入れば、待っていたのは聖女の正装を纏うナタリア。


「あら、酷い顔」


 という容赦のない彼女の言葉に、キャスリーンが小さく溜息を吐いた。

 言い返す気も起きない。そもそも酷い顔をしているのは自覚している。

 考えすぎてふわふわとする意識と足取りで、キャスリーンが部屋の一角に置いてあるソファーにポスンと倒れ込んだ。


「キャスリーン、大丈夫?」

「……大丈夫」

「全く大丈夫じゃなさそうね」


 案じるようにナタリアがソファーへと近付き、開いているスペースに腰を下ろした。

 ソファーが揺れ、キャスリーンの頭が擽るように撫でられる。顔を上げれば、眉尻を下げて様子を窺ってくるナタリアの顔があった。

 頭を撫でていた手がするりと滑り、キャスリーンの額に触れる。熱をはかっているのだろうか。ヒンヤリとした彼女の手の冷たさが心地好く、キャスリーンが瞳を細めた。


「知恵熱じゃなさそうね」

「知恵熱って……お母様、酷い」

「冗談よ。でもそうね、きっと聖女にとって必要なものが枯渇しちゃったのね」

「必要なもの……? それは無くなるものなの?」


 いったい何なのかとキャスリーンが視線で問えば、ナタリアが穏やかに笑った。優しく、暖かく、頼りがいを感じさせる微笑み。

 次いで彼女はキャスリーンの額を撫で、金糸の三つ編みを優しく揺らしながら「ねぇキャスリーン」と説くように話し出した。

 落ち着きを感じさせる深い声色。まるで小さい頃に絵本を読み聞かせてくれているような、寝かしつけている時のような声。その声にキャスリーンの胸が救いを求めるように苦しさを訴えだした。

 渦巻いていた感情が出口を求めて彷徨う。泣きそうだと、いっそ泣いてしまいたいと、そう自覚すればツンと鼻の奥が痛み出した。


「聖女にとって必要なものが何か分かる?」

「分からないわ、私なにも持ってないもの。私なんかじゃ気付けないのよ……」


 グスンと洟を啜って己の未熟さを訴えれば、頭を撫でていたナタリアの手が今度は鼻先を突っついてきた。

 泣かないでと言っているのだろう。それでも己の不甲斐なさにキャスリーンが痛む洟を啜る。


 聖女にとって必要なものが何か分からない。

 分からないから未熟なのか、未熟だから分からないのか。


 ナタリアは既にキャスリーンが持っていると言っていたが、そんな大事なものは持っていない。もしかしたら、未熟な自分はその重要さに気付かず手放してしまった可能性だってある。

 そうキャスリーンが震える声で訴える。

 未熟と口にすればするほど言葉が己の中に溶け込み、まるで黒く染み込んでいくようではないか。それならいっそ真っ黒に染まってしまえばいいのに……そんなことさえ考えてしまう。

 聖女としても騎士としても半人前で、理想の足元にも及ばない。

 これを未熟と言わずになんと言うのか。


「だから私には無理……。お母様のような立派な聖女になんてなれないわ……。謁見の間で言われるままに聖女ごっこをしてればよかったのよ……」


 キャスにならなければ良かった、騎士としての生活も、外の世界も、自由も、何も知らなければ良かった。未熟な聖女はただ飾られて、おべっかの中でごっこ遊びの癒しを与えていればよかったのだ。

 そうキャスリーンが呟き、手繰り寄せたクッションに顔を埋めた。


「キャスリーン、私だって最初から立派な聖女じゃなかったわ。必要なものがなにか分からなくて、見つからなくて、見つからないこと焦りを抱いて、それで……」

「……それで?」

「儀式を迎えるのが怖くて、謁見の間から逃げ出したのよ」


 懐かしいわぁ、と間延びするナタリアの声に、キャスリーンが驚いて顔を上げた。

 逃げ出した、とは穏やかではない。だがそれを話すナタリアは懐かしんでいるだけだ。


「謁見の間から逃げ出すって……どうやって?」

「飛んで」

「飛んで!? どこから?」

「だから謁見の間よ」

「三階よ!?」


 謁見の間は王宮の最上階最奥にある。高さは三階、下には草が植わっているとはいえ、容易に飛べる高さではない。

 そこから……とキャスリーンが信じられないとナタリアを見れば、視線の意味を察して居心地の悪さを覚えたのか、「それほど追いつめられてたのよ」と拗ねるような反論が返ってきた。

 曰く、『聖女にとって必要なもの』が何か分からず、そんな状況で儀式を迎えることが怖くて逃げだしたのだという。そのうえ儀式を終えたら結婚をさせられるとも考えていたのだ、その焦燥感が高所から飛ぶ恐怖より勝った……と。

 ナタリアの当時の心境を聞き、キャスリーンがポツリと「私と同じだわ」と呟いた。――さすがに三階から飛びはしないだろうが。……いや、追いつめられたらもしかして……――


「それで、飛んだ後はどうなったの?」

「落ちたわ」

「それは分かってるわ」

「それでね……」


 その後を語ろうとするナタリアの表情が緩やかに和らいでいくのに気づき、キャスリーンがおやと首を傾げた。

 先程までの、不安に押し潰され謁見の間から逃げだ時を語る表情とは一転している。幸せそうで、嬉しそうで、その頬が赤く染まっている。

 まるで夢を見ているかのようなその表情に、キャスリーンがはっと息を呑んだ。


「その時にお父様に出会ったのね!」

「そうよぉ。落ちた私をブレントが受け止めてくれたの」


 当時王宮の警備をしていたブレントは窓辺で人影が動いていることに気付き、その人影が落下したのを見て慌てて駆けつけ受け止めたという。

 まさかそれが聖女とは、それもよりにもよって自ら飛び降りたなどとは露程も思わなかっただろう。ナタリアを庇うように背に隠し、奇襲か内乱かと警戒して剣を抜いたのだという。


「あの時のブレント、恰好良かったのよ……。一目で恋に落ちて、この人って決めたの。それで儀式への同行に彼を捻じ込んだのよ」

「……お母様、まさかの前科一犯だったのね」


 己の時にもやっていたなんて……とキャスリーンが当時から変わらぬナタリアの自由奔放さに呆れる。自分の時にやっていたとなれば、娘の時に騎士を数人捻じ込むなど造作ないだろう。

 だがその呆れが顔に出ていたのか、ナタリアに無理やり頭を押さえれてクッションに顔を埋めさせられてしまった。

「大人しく話を聞いていなさい」という事なのだろう。

 苦しくはないが、三つ編みを揺すられるのは何とも言えずくすぐったい。


「知れば知るほどブレントのことを好きになって、旅の最中にあれこれ仕掛けて彼を落としたのよ」

おふぁあふぁふぁ(お母様)やふぅ(やるぅ)

「そうして旅を終えて、聖女として十分な力を得たの。必要なものに気付いたというより、元々あったものをブレントが気付かせてくれたのよ」

「そうだったのね……」


 両親のなれそめに、キャスリーンがクッションから顔を上げるとほぅと吐息を漏らした。

 多少衝撃的なこともあったが、それでも素敵な話ではないか。聖女と騎士が出会い恋に落ち、そして聖女は探していた力を得た……。

 それを考え、キャスリーンが納得したと言いたげに頷いた。


「分かったわ……。つまり聖女に必要なのは、旅の同行者を無理に捻じ込むくらいの強引さ」

「違うわ」

「窓から飛ぶ跳躍力?」

「違う」

「……色仕掛けは私には無理よ」


 キャスリーンがしょんぼりと己の――体の――未熟さを嘆く。

 が、それもまた違っていたのだろう、再び後頭部を押されてクッションに顔を埋めさせられてしまった。

「それも違うわよぉ」というナタリアの声は相変わらず穏やかで優し気だが、どうしてか冷ややかな空気が漂っているように思える。キャスリーンがクッションに顔を埋めつつ「ほふぇんなふぁい(ごめんなさい)」と謝罪の言葉を口にした。

 そうして母の手が頭から離れると共にそっと顔を上げた。


「でも、それなら聖女に必要なものって何なの?」


 回答を急かせば、ナタリアが穏やかに笑う。

 その表情に焦らすような色は無く、そして意地悪気なものでもない。答えを教えてくれるのだと察し、キャスリーンが慌てて起き上がると向き直るように座り直した。

 ナタリアの手が再びキャスリーンへと向かう。その指先が触れるのはキャスリーンの胸元。


「聖女に必要ばもの……それはね、愛よ」

「愛?」


 ナタリアの言葉に、キャスリーンがキョトンと目を丸くさせた。

 もっと具体的なことを言われるのだと思っていた。だというのに彼女の口から出たのは『愛』。漠然とし過ぎている。

 キャスリーンが何と答えていいのか分からずにいると、ナタリアがクスと笑って抱きしめてきた。優しく包み込まれ、キャスリーンが暖かな腕の中で母を呼ぶ。


「キャスリーン、私達は人を癒す力を持ってるわ」

「……えぇ、私は未熟だけど」

「でも考えてみて、聖女が人を癒すなら、誰が私達聖女を癒してくれるの?」

「誰って……」


 言いかけ、キャスリーンが口を噤んだ。

 明確な答えが返せない。それでも何か言おうとしていると、ナタリアの手が優しく背中を撫でてきた。


「聖女を癒して力を与えるのが愛よ。周囲に愛され、周囲を愛して、そうしてようやく私達は聖女としての力を使えるの」

「……だから愛が必要なの?」

「考えてもみなさい、私達を愛してくれない世界をなんで癒さなきゃいけないの。見返りを求めて当然じゃない」


 まるで子供の言い分のようにきっぱりと言い切るナタリアに、キャスリーンがしばらく目を丸くさせ……次いでふっと笑い出した。

『愛してくれない世界を癒す気にならない』等と、聖女らしからぬ理屈ではないか。だが何ともナタリアらしくて、キャスリーンが耐え切れないと笑い出した。


「そうね、見返りね……。お母様らしい」

「あら失礼ね。私だけじゃなくて聖女はみんなそうよ。愛を求めるものなの」

「でも言い方があるでしょ」

「そうねぇ。私の母は『愛してくれない国なんて廃れても仕方ない』って常々言ってたわね。確かに言い方は人それぞれだわ」

「お婆様も相当だったのね……。この祖母にしてこの母あり、ね」

「この母にして、この娘あり、よ」


 キャスリーンの言葉に同じようにナタリアが返し、よりいっそう強く抱きしめてきた。

 強く優しいこの抱擁に、キャスリーンもまた抱き着いて返す。全身で感じる温かさに胸の内に溜まっていた靄が溶け、強張っていた思考が溶けていく。


「キャスリーン、聖女に必要なのは愛よ。周囲に愛され周囲を愛して……そして自分自身を愛してあげるの」

「……自分を?」

「えぇ、自分を愛して自分を誇って、そうして立派な聖女になるのよ。ねぇキャスリーン、キャスのことは嫌い?」


 ナタリアの問いかけに、キャスリーンが抱き締められたまま小さく息を吐いた。

 キャスリーンとキャスは同一人物だ。そんなこと当然だが彼女は知っている。なにより今キャスリーンはキャスとして騎士服を着ているのだ。

 それでもあえて『キャスリーン』に『キャス』のことを聞いている。その意味を察し、キャスリーンが小さく「そうね……」と呟いた。


「……キャスの事が好きかどうか分からないわ。だって彼女、騎士として半人前なんだもの。碌に戦えなくて足を引っ張ってばかり。皆きっと強い騎士が仲間だったらって思ってはず……」


 か細い声でキャスリーンが答える。

 それを聞いたナタリアの手がそっと優しく背中を撫で、擽るように三つ編みを揺らした。その手の動きにキャスリーンの胸の内に溜まっていたものが熱になって込み上げてくる。

 呼吸が震え、目尻に涙が溜まっていくのが分かる。


「それならキャス。貴女はキャスリーンの事は好き?」

「……分かりません。だって彼女は聖女として半人前だから。惰性でまわりに言われるまま癒しの力を使って、きっと皆もっと立派な聖女が良かったって思ってるはず……」


 掠れる声で今度はキャスとして答え、キャスリーンが瞳を閉じた。

 目尻に溜まっていた涙が頬を伝って落ちていく。ナタリアの手がそれを促すように背を撫で、時折はまるで押さえるように背に手を触れさせた。

 暖かな手。触れた箇所から焦燥感が溶け落ち、涙となって溢れていく。

 渦巻いていた思考が緩やかに紐解かれ、キャスリーンが深く息を吐くと共にゆっくりと意識を解けさせていった。




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