気がつけば取り残されて
「ただいま」
最近、やっと習慣になったその言葉だけをなんとか吐き出した。
ただ、ひたすらに疲れた。玄関で倒れこんでしまうほどに。
廊下の冷たい感触が倒れた体に心地よさに身を任せながら、
放課後の出来事、教室に呼び出されたことを思い出していた。
十川詠子――彼女とは仲が悪いわけではない。それなりに話したりはするが、
だからといって、呼び出されたりするような仲じゃないはずだ。
そのせいか、気まずい雰囲気になってしまっている。
そんな中、彼女がぽつりと呟く。
「昨日、兄さんが死んだんです。最後まで眠ったままでした」
どういう意味なのか理解できないが、1つだけ分かることは、
彼女はきっと兄が死んだことを認められないのだろう。
しかし、それと自分が呼び出されたことが繋がらない。
そもそも、彼女と自分はそんな個人的なことを教えられるような仲ではないはずだ。
「それは気の毒だったな」
なにをいえばいいか思いつかず、そんな月並みなセリフを口にする。
「十夜さん、変わりましたよね」
今までなら、そんなこと言わなかったのに。と小さく悲しそうに呟く。
彼女がなにを思ってそう言ったのかは分からなかった。
ただ、きっとその通りだっただろうと思う。これまでの自分なら、
会話を続けることもなく、さっさと帰っただろう。
「十夜さんは、兄さんに似てるんです。なにかを見ているはずなのに、
なにも見てなくて、そこにいるのに、どこにもいなくて。
そんな人でした。だから、見て欲しかった……」
「十夜さんが変わったのはなにか見るものを見つけたからですよね?」
それはわたしじゃないですよね?と辛そうにそう尋ねる。
自分が変わったのはそう、気に掛けてくれ続けた彼女の影響でなく……。
雰囲気で答えは伝わったのだろう。
「兄さん、どうしてわたしを見てくれないんですか……」
自分と彼女の兄の区別がつかないほど、彼女は錯乱しているようには見えなかった。
それでも、兄さんと呼びかけながらその言葉は確かに自分に向けられていた。
彼女の兄がどうして眠り続けていたのか、そこにどういう経緯があったかは知らない。
それでもなにも答えてくれなくなった兄の代わりに
似ている自分に答えを求めたのだろう。
それだけはおぼろげながら、感じとることが出来た。だから、反発を感じたのだろう。
「俺は……」
そんな言葉を遮るように彼女は、自分に近づき押し倒してくる。
「聞きたくありません。わたしは……」
のしかかられた時にずれた鞄が落ちる。その音に我に返り、彼女を突き飛ばす。
そのまま、鞄を回収しながら教室から走り去る。振り返りはしなかった。
「おかえり」
思い出すことに没頭していたらしい。
掛けられた声のほうに顔を向けると、いつのまにか姉がいた。
いつまでも居間に顔を出さなかったので、心配して様子を見に来たのだろう。
そんな姉の心遣いに少しだけ救われた気がした。